五話 灰の頂 三
以下アルヴィス一行のバックボーンです。
そのまま、読み進めて頂いて問題ありません。
『グラン=シルヴァ小王国』。
中央大陸中心部やや北西に位置し、細々と政をこなしていた。
銀鉱山と街道税で栄えた辺境の小王国。
王国騎士団は精強と評されたが、鉱山労働者の失踪は噂となっていた。加えて、人身売買と孤児の流入。
大規模な地震と坑道崩落が国の財政を断ち、治安は急速に悪化。
いまや王都以外は無法地帯に近い。
いや、今や王都も既に機能はしていなかった。
壊滅した小国。
しかし、ここはアルヴィス、セレス、ルルの出身国なのである。
*
「またテメェか!! 待ちやがれッ!」
午前の陽光と八百屋の怒号が、閑散とした市場の石畳に照降り注いでいた。
野菜や果物が落ち、タイルに跳ねる音、乱暴に鳴り響く足音。
「うるさい、脱税ジジイ!! ぼったくるから駄目なんだよ!!」
屋台をかき分け、走って逃げているのは一人の少女。手にはくすねたリンゴが抱えられており、1つだけ齧った痕がある。
「騎士さん、そのガキだ! 捕まえてくれ!!」
髭を蓄えた八百屋の男が、息を荒らげながら、その少女を追っている。
しかし、一向に少女との距離は縮まっていなかった。
巡回中であった一人の騎士が、すぐさま駆け出す。
「任せてください、すぐに取り押さえます」
黄金のような金髪を揺らし、穏やかな声で応じる。
少女の機動力を遥かに上回るスピードだ。屋台を、路地をスムーズに駆け抜け、
「捕まえたっ、大人しく……」
少女の襟元を掴み、無事確保する。
ゴロゴロとリンゴが音をたてて、路地のタイルを転がっていった。
しかし、騎士の言葉はそのリンゴに気を取られて途切れたのではない。
「くそぉ……」
顔に皺を寄せた少女は騎士の腕を掴み返し、足元を蹴る。
「おい離せって! 別に大したもん盗ってな……」
少女も同じように、語尾が消えた。
互いの顔を認識し、騎士と少女は目を見開く。
「ルル?!」
「アルヴィス!!」
両者の動きがピタリと止まった。
「また君か?!!」
空のように青い瞳を見開いているアルヴィスは、即座に呆れ顔を浮かべた。
「ねー、今度こそ見逃してよぉ」
眉間に皺を寄せ、非常に不機嫌な顔つきのルルは彼に向き直る。
しかし、アルヴィスは大きな溜息をついた。
「ダメだ。ほら、ちゃんと謝ろう……」
声は非常に優しい。
しかし、ルルの肩に置かれた手は、決して狼藉だけは許さないという現れだ。
「ちぇ……」
唇を尖らせ、ルルは俯く。
斯くして、アルヴィスとルルは一緒に頭を下げることとなった。
「なんでまた盗みなんか……」
昼過ぎ、二人は並んで市場を後にしていた。
相変わらず、アルヴィスの溜息が鳴り止まない。
「だって、最近また値上がりしたし」
口を歪め、不平を漏らす。
その言葉にアルヴィスは、困ったような、どこかやるせない表情をし、長い睫毛を伏せた。
「近頃の物価高騰、か……。けど、盗みは見逃せないなぁ……」
言いながら、懐をゴソゴソと探る。
「ほら」
差し出されたのは、赤く美しい光沢を放つリンゴだ。
「え? やったー! アルヴィスも手癖悪いね」
「違うから……。ちゃんと買ったものだ」
頬を引き攣らせたアルヴィスとは対照的に、ルルは見るからに嬉しそうである。
しかし、リンゴを眺めるだけで食べようとはしなかった。
アルヴィスの顔に、怪訝な表情が灯る。
覗き込むように、ルルへ声をかけようとするが、
「これで、アイツらにも分けてあげられる」
とルルのこぼした独り言に、言葉が詰まった。
「………………。」
アルヴィスは目線を遥か遠く、町外れにある河川沿いの畑へ向けた。
鏡のように、日光を反射し輝く川と、そのすぐ横にある教会。
「孤児院のみんなにかい?」
ルルは、教会の管理する孤児院の子供なのだ。
今年で16の歳。今や、孤児院のお姉ちゃん的存在である。
「そうだよ……。最近、飯少ないから」
天真爛漫な暴れん坊。
しかし、その目は面倒見の良さが滲みでている。
昨今のシルヴァ王国は、治安問題と物価の雲行きが怪しい状態であった。
銀坑労働者の不可解な失踪、そして人身売買の摘発件数の増大。それに伴った孤児の増加。
「しかもまたアタシみたいな子供増えてんだよね」
ルルも、人身売買の被害者だった。
生まれは第二魔王国。しかし幼少の頃の記憶は一切ない。人、竜人、鬼の混血というイレギュラー、だが両親の記憶も当然無かった。
物心ついて、気づけば売りに出されていた。
そして、何も分からないまま、騎士団に保護され、孤児院へと流れ着く。
「……あれ、アルヴィス。今日は着いてきてくれるの?」
二人はいつの間にか、町外れに差し掛かっていた。
「……そうだね。たまには、顔を出してやらないと」
薄く笑みを浮かべる。
アルヴィスも、ルルと同じ孤児院の出だった。
「………………懐かしいな」
「え? 前も来たじゃん」
両親に捨てられ、物心付く前から教会で育った。
孤児院の数少ない支援者である退役騎士に憧れ、騎士団の下働きとして子供時代を過ごし――。
今や、憧れの王国騎士団へと辿り着いている。
国の安全と市民を守り、かつての自分のような、子供達に憧れを向けられる、正義の役職。
しかし、現実は――。
「おーい!」
俯いていたアルヴィスは、ルルの声ではっとしたように顔を上げる。
気づけば教会の前まで来ていた。
「ルル姉おかえりー!!」
「あれって……」
元気な盛りの子供達が、陽光に負けないほど明るい笑顔で迎えてくれる。
つられて、アルヴィスも笑顔を称える。
「久しぶり、みんな」
「アルヴィス兄さんだ!」
「アルヴィス兄!」
10から5歳程度の子供らが駆け寄ってくる。
ルルは笑顔を称え、リンゴを勝ち誇ったように掲げていた。そして、一緒にはしゃぐ。その様子は未だに童心を忘れていない。
「最近会ってないけど、忙しいの?」
前歯の抜けた男の子が、心配するように見上げてくる。
「そうだよ。来てくれないと、こいつが寂しがるだろー?」
「は?! 別に寂しがったりしてないし!」
わらわらと足元に駆け寄って来る子供達。比較的背の高い男の子が、横にいる女の子を揶揄っていた。
「ちょっと忙しくなってきてね」
頭を撫でながら、優しく微笑む。
「アルヴィス! これ切って!」
突然、ルルがリンゴを差し出して来た。
みんなで分けるつもりなのだろう。
「賑やかだと思ったら……」
教会の門から、一人の女性の声が響いた。
大人びた、落ち着きのある声色。
「嬉しい来客ね」
「セレスさん」
頬に手を当て、ニッコリと笑みを称えたエルフ。
纏っている白い法衣が、微風に揺れた。
「久しぶりねぇ、アルヴィス君。元気? 調子悪いとかない? ちゃんと食べてる?」
穏やかな口調のまま、矢継ぎ早の質問を投げかける。
一見すると、過保護な母親のような雰囲気だった。
当然と言えば当然。セレスはアルヴィスが教会に引き取られる寄りも前から、修道女としてこの教会に務めていたのである。
アルヴィスも、ルルも、監督修道士として育て上げたのは他でもない、セレスだ。
「大丈夫ですよ。元気いっぱいに、ルルを追っかけ回してます」
「あ?! おいっ!」
苦笑いを返すアルヴィスに、ルルは狼狽するように声を上げる。
「えっ……、またルルが……」
額に冷や汗を浮かべ、困り顔を浮かべた。
慌てて弁明しようとするルルであったが、セレスは悲しげな表情を称え、目を伏せる。
「ごめんなさいねぇ……。もっと、食べさせてあげたいのだけど……。最近は何もかも高くて……」
唇を引き攣らせ、憐れむ声を残した。
目の奥に隠しきれない疲労が滲んでいる。
その言葉に、アルヴィスとルルも沈鬱に顔を伏せる。
農税は引き上げられ、商人は仕入れ値の高騰を嘆き、街道では盗賊の話が絶えない。
孤児の数は増え、寄付は減った。
王国は、目に見えぬ角度で、ゆっくりと傾いている。
「とにかく、せっかくの来客だものね。暗い話はなしにしましょ。ほら、みんな笑って」
セレスは手を叩き、すぐさま笑みを浮かべた。
乾いた空気を払うような、明るい音。
彼女はいつものように、少し大げさな笑顔を浮かべた。
子供たちがそれにつられる。
ぎこちなく、しかし一生懸命に口角を持ち上げる。
「いい笑顔ね、ぐっど。楽しく行きましょ」
両手で親指を立てると、何人かが真似をした。
小さな笑い声が弾ける。
「じゃあアタシの盗みも笑顔で流して……」
「だめ」
ルルの小声を、アルヴィスはしかめっ面でかき消す。
そのやり取りに、子供たちがくすくすと笑う。
孤児院の皆は、決して贅沢など出来ていない。
セレスも同じく、その生活は日に日に貧しくなっていく一方だ。
足りないものは多い。
だが、分け合うという選択だけは、まだ残っている。
笑顔は、贅沢ではない。
それだけが、この教会の最後の備えだった。
笑顔だけは絶えない。
二
アルヴィスとルルには、同じ師がいた。
血の繋がりはない。
だが、あの背中は確かに"師"だった。
ボド爺。
そう呼ばれていた。
本名を知る者は少ない。子供たちにとっては、ただのボド爺だ。
背は低いが、肩幅は樽のように広く、腕は古木の根のように太かった。
白く縮れた髭は胸元まで垂れ、笑うとそれが揺れる。
ドワーフ族。
かつて王国騎士団に所属し、前線を幾度も踏み越えた歴戦の戦士。
王都では名を知る者も多く、"英傑"と呼ぶ声すらあった。
だが、本人はその呼び名を嫌った。
「肩書きなんぞ、腹の足しにもならん」
そう言って、酒をあおり、子供らの頭を乱暴に撫でた。
セレスとは旧知の仲だった。
どちらが先に声を掛けたのかは分からない。
ただ、孤児院が資金に困り始めた頃、彼は自然とそこにいた。
教会が管轄するその孤児院は、王国の保護下という訳ではない。最低限の支援と、"黙認"が王国の回答だった。
だが、実際には寄付と善意で成り立っている場所だった。
ボド爺は、数少ない"継続して顔を出す支援者"だった。
金だけではない。
食料を担いで来る日もあれば、壊れた扉を直し、薪を割り、井戸を整備する日もあった。
そして何より、子供たちの相手をした。
アルヴィスとルルは、特に彼に懐いていた。
いや。
憧れていた。
斧を担ぐ姿。
地面を踏み抜くような足運び。
戦場の話を語る低い声。
最初は遊びの延長だった。
木の枝を振り回し、構えを真似る。
「違う」
短く、厳しい声が飛ぶ。
「振るな。落とせ」
それが、ボド爺の教えだった。
重さを理解しろ。
地面を踏め。
腕ではなく、腰で斬れ。
ルルは素直に叩き込まれ、アルヴィスは理屈を理解しようと食らいついた。
孤児院の裏庭は、やがて即席の稽古場になった。
泥だらけになり、何度も転び、それでも立ち上がる。
ボド爺は笑わなかった。
だが、二人が立ち上がるたび、目だけが細くなった。
――望むなら、強くなれ。
それが、彼の口癖だった。
守るために。
奪われぬために。
いつか、自分の足で立つために。
戦斧の重みを教わった日、ルルは初めて"重さ"によろけた。
アルヴィスは、振り上げたまま腕が痙攣して倒れた。
その二人を見下ろし、ボド爺は鼻を鳴らした。
「ようやく入口だな」
それが、始まりだった。
二年前。
彼は静かに逝った。
病だったのか、古傷だったのか、詳しくは誰も語らない。
ただ、最後まで弱音は吐かなかったとセレスは言う。
墓は孤児院の裏手、小さな丘にある。
愛用の戦斧が、いまもそこに突き立っている。
錆は浮いていない。
誰かが手入れをしているからだ。
アルヴィスか。
ルルか。
セレスか。
あるいは、その全員か。
王国が傾こうと、物価が上がろうと、
あの斧だけは、まっすぐ天を向いている。
それは墓標であり、誓いだった。
「早いわね……。もう2年経つのかしら」
その墓標の前に、セレスは目を細めて屈み込む。
「この歳になると、……時が速いわ」
見た目は30代もいかなそうな女性。しかし、エルフ故の外見だ。
「思えば、頼ってばかりだったわね……。今が、一番頼りたい時だけどね、うふふ」
そういって、乾いた笑いを零した。
手には、小さな白い花が握られている。
子供達が、特にルルとアルヴィスがよく持ってきてくれた白い花。
サクラソウ――。
「ほんとに老けないんだなァ、儂はもうしわくちゃになってしまった……」
そんな、ボド爺の呟きを思い出しながら、サクラソウを無骨な戦斧の前に横たわせた。
そして、彼に指導されるルルとアルヴィスを思い浮かべる。
戦士らしく、決して甘くはない指導だった。
しかし、二人をみる目はいつでも優しかった。
「安心して。二人はもう十分強くなった。ルルちゃんも、来年には騎士団に入るそうよ」
セレスとボド爺。
二人で生を受けたこの王国の始まりと黎明を眺めていた。
それが今や、終わりを静観している気分である。
「けど、……ルルちゃんとアルヴィス君だけは、危なっかしくて目が離せないわ」
苦笑が溢れ落ちる。
「あなたと同じね……」
そう言い残し、法衣を撫で整えた。
ゆっくりと、身を翻す。その背中には、憂いと哀愁が滲んでいた。
儚さを漂わせるサクラソウが揺れ、戦斧は静かに夕日を反射している。
「そういえば……」
遠ざかる墓標を、一瞬だけ振りかえる。
何気なく、独りごちた。
「サクラソウの花言葉って……、なんだったかしら」
三
鎧の継ぎ目に入り込む風が、妙に生臭かった。
城門前の市場は、いつもより声が荒い。
干し肉の値札が昨日よりもまた削り直されている。商人は言い訳をしない。ただ無言で、銀貨を確かめる目だけが鋭い。
「三倍だと? 冬はまだ先だぞ」
老婆の抗議に、店主はそう言って肩を竦めるだけだった。
若い騎士であるアルヴィスは、通り過ぎながら胸の奥が冷えるのを覚えた。
王都の倉庫には備蓄があるはずだ。少なくとも、そう報告書にはあった。
だが市場には届いていない。
王都中央の聖堂裏の石段に、子供が増えている。
数日前まで一、二人だったはずだ。今日は五を超える。
年長の少女が幼子を背負い、こちらを睨む。物乞いの声はない。
ただ、無言だ。
孤児院はどこも満床だと聞いた。
ただ一人で監督修道士を務めるセレスも、これ以上は負担を増やせないと。
修道士は「引き取り手を探している」と言っていたが、最近は見慣れない荷馬車が夜に止まるという噂もある。
確認しようと上官に進言したことがある。
「余計な詮索はするな」
それだけだった。
北鉱山の名簿に、空白が増えている。
失踪。
崩落事故。
移住。
理由は整っている。書類は完璧だ。
だが、坑道から戻った鉱夫の目は、何かを言いかけてやめる。
昨夜、酒場で聞いた。
「坑道は崩れてねえ。崩されたんだ」
酔いの戯言と片付けるには、声が低すぎた。
騎士団詰所の奥で、見慣れない紋章の袋が運ばれていた。
貴族家の家印。封蝋付き。
団長はいつもより機嫌がいい。
兵站の不足は「一時的なもの」だと言った。
市場の混乱も「商人の買い占め」だと。
だが、買い占めを取り締まる命令は出ない。
城壁の上から街を見下ろす。
煙が増えた。
焚き火ではない。
廃材を燃やしている匂いだ。
騎士として剣を振るう相手は、外敵のはずだった。
だがいま、城下で起きているものに刃を向ける許可はない。
風がまた吹いた。
遠くで鐘が鳴る。
セレスのいる、教会の祈りの時刻だ。
アルヴィスは気づいている。
祈りの回数が増えていることを。
国はまだ立っている。
城も、王も、騎士団も。
けれど、何かが静かに抜け落ちている。
それが何か、彼はまだ言葉にできない。
「違う…………」
か細い小声が、無意識に漏れ出た。
――僕の憧れた、騎士は……。こんな筈じゃ。
今はもう、目の前にある"典型の正義"に、縋り付くしかなかった。
たとえそれが、偶像でも。
四
最初は、荷車の振動だと思った。
城壁の上で見張りに立っていたアルヴィスは、石の足場が微かに鳴るのを感じた。
「なんだ………………?」
風はない。空も晴れている。
それでも、足裏の奥で、何かが脈打っていた。
どん。
低い衝撃が、遅れて腹に届く。
「??!!……!」
遠雷に似ている。だが雲はない。
城下で犬が吠え始めた。
井戸の水面が揺れる。
詰所の窓が、音を立てて震えた。
二度目は、隠れようのない揺れだった。
石畳が波打つ。
城門の鎖が軋み、鐘楼の鐘が勝手に鳴る。
遠く――北西の地平。
黒い塵煙が、ゆっくりと空へ伸びていた。
誰かが呟く。
「…………古代竜」
噂は聞いていた。
大型の、土属性古代竜。
山脈を砕き、地脈を喰らう存在。
遠い辺境の更に向こうで暴れている、と。
だが"遠い"はずだった。
揺れは止まらない。
――これはっ……、マズイ……!!
城下の石造家屋が崩れ始める。
悲鳴。
崩落音。
祈り。
孤児院の方角に、白い粉塵が上がるのが見えた。
「……!!!」
アルヴィスは駆け出す。
だが階段の途中で、城壁の一部が崩れ落ちた。
王都は、守るための石でできている。
その石が、牙を剥いた。
三度目の衝撃は、もはや揺れではなかった。
地面が、沈んだ。
市場の一角が裂け、荷馬車ごと呑み込まれる。
井戸は傾き、水が濁る。
北鉱山から黒煙が上がる。
坑道が崩れたのだと、誰もが理解した。
失踪ではない。
埋没だ。
だが、坑夫の全てが死んだとは限らない。
地割れの向こうで、鎧を捨てる騎士の姿を見た。
誰かを助けるためではない。
走るために。
*
「セレスさん!!!」
アルヴィスが真っ先に向かった場所。それは、自らが育った孤児院。
皆がいる、思い出の――。
「アルヴィス君……ッ」
孤児院へと続く道で、偶然セレスと出会う。
擦り傷と煤汚れが、所々目立った。
「大丈夫ですか……! 孤児院は……――」
「孤児院が……!!」
アルヴィスが言い終える前に、セレスの悲痛な嘆きが彼の言葉を止めた。
全身の皮膚から、冷や汗が吹き出る。
ルルを筆頭に、子供達の顔が思い浮かんでくる。
「ッッ…………!」
顔を歪ませ、孤児院の方角へ視線を向ける。
胸元で顔を埋めているセレスの肩に、優しく手を添える。
深呼吸をし、平常心を取り戻そうと、無理をしながら静かな声色を絞りだした。
「セレスさん……、何がっ……、何が起きたんですか。急いで、向かいましょう……」
「ルルと、近くの市場に……、買い出しに行ってたら……!」
上げた顔は、涙で濡れている。
「そ、そしたら……………………」
言葉を詰まらせ、涙を流し続けるセレスをみて、アルヴィスの鼓動が跳ね上がる。
嫌な予感と共に、腹部から喉奥へと吐き気が迫り上がった。
「…………とにかく、一緒にっ。僕も行きます!」
そう声を上げ、周りの喧騒と混乱から逃げるように走り出した。
*
日が落ちても揺れは続いた。
王城の塔に亀裂が走る。
貴族街は火に包まれる。
水路は崩れ、井戸は泥を吐いた。
騎士団は出動した。
だが守るべきものが多すぎた。
命令は錯綜し、伝令は戻らない。
団長は王城に籠った。
*
「………………………………。」
アルヴィスは呆然としていた。
セレスの手を引っ張って、駆けていたが、無意識に足の力が抜け、立ち止まる。
河川沿い、畑。
そして、あるはずの教会と孤児院は、完全に潰されていた。
積み木を崩されたように、瓦礫と化している。
「…………な、なん……で…………」
ゆっくりと歩を進め、その瓦礫へと向かった。
セレスは顔を覆い、後ろを歩く。
「いやっ…………まだ、……」
まだ子供達を助けられるかもしれない。
まだ、助かる子がいるかもしれない。
そう考え、アルヴィスは駆け足で教会の前に立つ。
「ルル!!」
返事はない。
瓦礫の前に、ルルは立っていた。
崩れた石壁。裂けた梁。粉塵がまだ薄く漂っている。
つい数刻前まで祈りの声があった場所は、形を失っていた。
アルヴィスの足音が止まる。
「大丈夫か?! 怪我は――」
「……大丈夫」
声は平坦だった。
怒鳴りも、泣きもせず。
感情をどこかへ置き去りにしたような、乾いた音。
「子供達は……みんなは無事なのか……っ」
ルルは答えない。
ただ、ゆっくりと腕を上げる。
震えもしない指先が、崩れた教会の奥を示す。
その目には、いつの間にか涙が溜まっていた。
零れ落ちるのに、瞬きすらしない。
噛み締めた唇が裂け、血が顎を伝う。
「――――………………。」
アルヴィスの呼吸が止まる。
瓦礫の隙間。
崩れた門柱。
かつてボド爺が金槌を振るい、何度も補強したあの門の残骸。
その下から、覗いている。
小さな手。
泥と血で色を失い、指は不自然な角度で折れ曲がっている。
ひとつではない。
いくつも。
瓦礫の奥に、まだ続いていることを想像させる数。
「あ……っ……」
声にならない息が漏れる。
膝が、音を立てて崩れた。
「あぁ……あああぁ……」
視界が滲む。
理解が、遅れてやってくる。
さっきまで笑っていた。
リンゴを分け合っていた。
無理に笑顔を作っていた。
それが、今は。
「なんだよ……」
喉が裂ける。
「なんでだよ……ッ、なんで……こんな……」
怒鳴りたいのに、声が潰れる。
地震。
遠くで暴れる"何か"。
王国の傾き。
そんな言葉では、足りない。
足りないのに、目の前には結果だけがある。
ルルの喉奥から、低い音が漏れる。
泣き声とも、獣の唸りともつかない。
拳が震える。
爪が掌に食い込む。
「ルルちゃん……っ」
背後から駆け寄ったセレスが、その小さな身体を抱き締める。
強く。
壊れてしまいそうなほどに。
ルルは抵抗しない。
ただ、その胸元に顔を埋め、声を押し殺す。
肩が、小刻みに震えている。
アルヴィスは動けない。
顔色は血の気を失い、青い瞳は焦点を結ばない。
涙だけが、静かに落ち続ける。
騎士であるはずの男は、瓦礫の前で膝をついたまま。
剣を握ることもできない。
守れなかった。
その事実だけが、重く沈む。
風が吹く。
崩れた梁が、軋む。
粉塵が、またわずかに舞う。
誰も、すぐには動けなかった。
三人は、瓦礫の前で崩れたまま、ただ泣いた。
祈りの消えた教会の跡地で。
*
翌朝、王国は別の国になっていた。
城壁は破れ、門は半壊。
倉庫は荒らされ、備蓄は消えた。
聖堂は、壁だけが残っていた。
修道士の姿はない。
子供の数も合わない。
そして三日後。
街道に旗のない集団が現れる。
鉱夫崩れ。
元騎士。
商隊の護衛だった男たち。
彼らはもう騎士団の命令を待たない。
"奪う側"に回ったのだ。
匪賊。
それが、国の新しい秩序だった。
北西の空は、今も霞んでいる。
竜の姿を見た者はいない。
だが揺れは、忘れた頃に戻る。
地はまだ、生きている。
そして国は、もう息をしていない
腐敗の温床が、災害をきっかけに爆発したのだ。
もはや国は、地獄だ。
*
「団長も、貴族もグルだったそうです……。この国は、元より終わりに走っていた……」
力なく、アルヴィスは呟きを残した。
横に座るセレスは、細めた目で、遠くで燃やされている家屋を眺めている。
「今まで、僕は何をしてたんでしょうか……。むしろ今は居場所も役割すら失った」
「アルヴィス君……」
自嘲するような笑いを零すアルヴィスを制するように、透き通るような声が響いた。
「あなたが、何をしたいかが重要よ。これから、何を成したいのか……。居場所も、自分で作るものよ」
「何を…………」
言い淀むアルヴィスを急かすでもなく、セレスの声はこの上なく優しい。
「私は、あなたとルルに着いて行くわ。どこまでも、ね」
「えっ」
目を丸くするアルヴィスに、微笑みを向ける。
「保護者ですもの」
正しく聖母の微笑み。
潰れた教会を背にしても、その笑みは美しかった。
「ありがとうございます……。けど、すぐには思いつきそうにもない」
弱々しく笑みを零し、目の前に並ぶ即席の墓標達を眺めた。
盛り上がった土と、杜撰だが瓦礫で形作った墓標。
「………………。」
全員を、五体満足で引っ張りだす事は出来なかった。
だが、弔う。
そして、祈る。
「――アタシ、旅に出るから」
唐突だった。
泣き疲れた空気を裂くように、その声が落ちた。
振り向く。
そこに立っていたのは、ルルだった。
背には、大きすぎる戦斧。
ボド爺のものだ。
柄は使い込まれ、刃は鈍い光を帯びている。
少女の背丈には不釣り合いな重量。
「……ルルちゃん?」
セレスの声は掠れている。
「それ……ボド爺の斧じゃないか。どうするつもりだ……」
アルヴィスの視線は、斧から彼女の目へ移る。
「アタシが使う。あの盗賊どもに盗まれるよりは、余っ程マシ」
揺れていない。
涙で濡れていたはずのその瞳は、もう乾いていた。
「本気だよ」
即答だった。
「アタシ一人でも行く。行きたい場所がある」
「どこへ……?」
一拍の沈黙。
ルルは、はっきりと言った。
「第二魔王国。ヴォルカン=ドラハト連合王国」
空気が止まる。
西方大陸。
海を越え、幾つもの国境を跨ぐ遠地。
魔族国家の中でも強大とされる連合王国。
「どうして、急に……!」
アルヴィスが声を上げ、セレスが思わず一歩踏み出す。
「遠いわ……。危険よ、今の情勢で――」
「もう、この国だって安全じゃない」
遮るように、ルルは言った。
怒鳴らない。
ただ、静かに断言する。
「ここにいたって、守れない。守られない」
その言葉は、瓦礫の方を一瞬だけ見たことで十分だった。
アルヴィスの喉が詰まる。
「だから、どうせ出るなら……アタシは、帰りたい」
背中の戦斧に手をやる。
柄を、指でなぞる。
「生まれた地を、踏みたいんだよ」
その声だけが、少しだけ揺れた。
「第二魔王国は、ボド爺が若い頃に修行した国だって言ってた。あの人が、あんな化け物みたいに強くなった場所」
口元が、わずかに歪む。
「憧れ、かな。……でも一番は、故郷を見たい。それだけ」
「故郷……」
アルヴィスが繰り返す。
彼には、ない言葉だった。
孤児院が故郷だった。
その孤児院は、もう――。
「一人で行く気か」
低く問う。
「そのつもり」
「無茶だ」
「無茶でもいい」
即答。
目が逸れない。
あの裏庭で、何度も転びながら立ち上がった目だ。
ボド爺が言っていた。
――強くなれ。
その続きを、彼女は今、自分で選んでいる。
セレスが、ゆっくりと息を吐く。
「……ボド爺なら、止めたかしら」
「止めないよ」
ルルは、かすかに笑った。
「きっと、"行け"って言う」
風が吹く。
戦斧の刃が、わずかに鳴った。
決意は、もう揺れない。
「……………………。」
故郷。
その言葉が、胸の奥で鈍く響いた。
アルヴィスには、帰る土地などない。
この孤児院こそが全てだった。
だから騎士になった。
強くなれば守れると、信じた。
王国騎士団。
誇りだった。
紋章を胸に刻んだ日、ボド爺の背中に少し近づけた気がした。
だが、知ってしまった。
横流しされる軍資金、賄賂で昇進する上官。
災害救助よりも貴族の屋敷を優先する命令。
そして――、
遠方で暴れる古代竜への対処は後回しにされ、王都防衛の名目で部隊は動かなかった。
結果が、あれだ。
瓦礫。
子供の手。
守れなかった現実。
――……僕は、何を守っていた。
剣を握る理由が、分からなくなっていた。
王か。
騎士団か。
腐りきった命令系統か。
違う。
そんなもののために、血を流してきたのではない。
視線を上げる。
ルルがいる。
戦斧を背負い、まっすぐ前を見ている。
喧嘩っ早くて、無鉄砲で。放っておけば崖からでも飛び降りそうな少女。
だが。
あの日、戦斧によろけていた少女は、今いない。
立っている。
一人で行くと言った。
無茶だ。
西方大陸までの航路。
盗賊、傭兵、魔物。
今の情勢で単身など、自殺行為に等しい。
――行かせられるか……!
胸の奥で、何かが噛み合う。
国家ではない。
騎士団でもない。
ただ一人。
あの裏庭で共に泥に塗れた少女。
守れなかった子供たちの代わりではない。
贖罪でもない。
ただ、守りたい。
それだけだ。
剣を握る手に、力が戻る。
初めてだった。
命令でも義務でもなく、自分の意志で刃を持つ感覚。
ゆっくりと立ち上がる。
「一人で行く気か」
低く問う。
ルルが頷く。
短い沈黙。
そして。
「無理だな」
ルルが眉を寄せる。
「は?」
「お前は昔から周りが見えない。強くなったつもりでも、危なっかしい」
「な、何それ」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
アルヴィスは息を吐く。
「僕も行く」
静かに告げる。
「王国騎士団は、今日で終わりだ」
その言葉は、裏切りではない。
決別だ。
「僕が、守る」
それは誓いだった。
国家に対してではなく。
「君がどこへ行こうと、僕がいる」
剣の柄を握る。
「それが、僕の信念だ」
もう迷いはなかった。
瓦礫の前で崩れ落ちた騎士はいない。
いるのは、ただ一人の男だ。
守る対象を、自分で選んだ男。
風が吹く。
「ははっ、じゃあ……」
いつもの勝ち気な光が戻っている。
「ああ、共に行こう。第二魔王国へ」
アルヴィスが言う。
差し出された手を、ルルは力強く握り返した。
乾いた掌同士がぶつかり、短く、硬い音が鳴る。
その様子を、セレスは少し離れた場所から見つめていた。
瓦礫の前で芽生えた決意を、静かに確かめるように。
「回復役が、必要でしょ」
「!」
二人が同時に振り向く。
セレスはゆっくりと立ち上がり、修道服の埃を払った。
そして真っ直ぐ、二人を見据える。
その金色の瞳には、もはや迷いはない。
祈りだけを捧げていた修道士の目ではなく、旅に出る者の目だった。
「私も、もちろん着いて行くわよ」
そう言って、二人を強く抱きしめた。
崩れた国家。
崩れた教会。
瓦礫の前で、それでも三人は立っている。
失ったものは多い。
だが、それでも残ったものがあった。
繋いだ手。
支える腕。
そして――
ルルの背に担がれた、大きすぎる戦斧。
ボド爺の斧。
長い柄が、夕暮れの風にわずかに軋む。
まるで、その重みが静かに頷いているかのようだった。
アルヴィスが小さく息を吐く。
「三人で……」
一度言葉を区切り、ルルの背中の戦斧に視線を向ける。
そして、わずかに笑った。
「いや……四人で、旅に出よう」
その言葉に、ルルが鼻を鳴らす。
「遅刻すんなよ、ボド爺」
瓦礫の向こうで、風が吹いた。
戦斧の刃が、かすかに光った。




