02_23 商会
石壁に寄り掛かりながら、路傍で糞をする驢馬を眺めているマギーに、ゴミ用トングとビニール袋を手にした子供が近づいてきて声をかけた。
「お姉さんの驢馬?」
「んにゃ、借りてるだけだよ」子供を一瞥したマギーが応えると、荒っぽい人間ではないとその子は踏んだらしい。
「驢馬の糞、貰っていい?」
「いいよ」マギーが了承すると、地面に落ちた球状の糞を拾い上げる。馬や牛、驢馬と言った草食動物の糞は、たい肥などに利用される他、昔ながらの燃料として人々の暮らしを支えていた。今、空へと昇っている炊煙のどれくらいが動物の糞なんだろ、なんて思いつつ、マギーは煙草を吹かした。小遣い稼ぎか、家で燃料にするのかは分からないが、路傍で隠れ見ていた他の子供が悔しげな声を漏らした。今日のところは、勇敢さが勝利をもたらしたようだ。軽く笑ったマギーが立ち上がると、驢馬を引っ張ってふたたび歩き出した。
「マロンから聞いた話が本当なら、普段から遊牧民と取引してる商会は外貨が不足しているかも知れません」革袋を積んだ驢馬を引きながらマギーは口を開いた。
遊牧民の一部は、自分たちの通貨以外では取引を行わず、他の通貨を使用する場合でも高いプレミアム(割増金)がかかることがある。
「その割増金は5割を越えるほど高いのかな?」説明を聞いたスタンフィールド氏がもっともな疑問を呈する。
「いいえ。精々2割か3割ほど。しかし遊牧民通貨を用意せずに交渉を行うと、場合によっては取引が打ち切られることも……」マギーの回答を聞いたスタンフィールド氏は、鼻を鳴らした。
「なんとも気難しい連中だな」
「向こうからすれば、都市の連中は傲慢だそうですよ」笑ったマギーが、ふと、スタンフィールド氏に視線を向けた。
「遊牧民の習性はご存じかと思いましたが?」
「僻地までやってくる好奇心旺盛な逸れ者たちと、頭の固い大人の集団はやはり違うだろうな。変わり者と付き合うのは、やはり変わり者だよ」言ってスタンフィールド氏は、肩をすくめた。
大きな通りを進んで幾つかの門をくぐると、ズールの商業地区が広がっていた。中でも、それほど目立たない片隅の一角に中堅や小規模な商会がひしめき合っている。ズールの中部区画では大規模な取引よりも地道な商いが主流でありながら、常に商業の活気が漂っていた。新興の商人や小規模な商会も含め、日々様々な取引や商談が行われていた。それぞれの商会は取引先を開拓したり、独自の商売を展開して競争を繰り返しながら、自由都市の経済を支えている。
「ここは商業区でも中小の商会の多い区画です」言って、マギーは立ち止まった。
通りには木造建築や煉瓦造りの倉庫、廃墟を補修した大型店舗が立ち並び、絶えず人が出入りしていた。木製や鉄製の看板が建物の軒先で風に揺れている。穀類や木材、煉瓦、セメント、薪、飼料などが積み上げられ、酒樽や飲料水の入った大きな樽、果実の入った籠。鳥かごに閉じ込められた家禽がけたたましく鳴いている。ズールの人口は五千人に満たないが、この自由都市は曠野の南部から人々が集まり、取引が行われている。
辺りを見回したスタンフィールド氏はただ一言「凄いな」とだけ感嘆を洩らした。
マギーは驢馬を引きながら、色とりどりに彩色された看板から目当てを探して回る。
「羊毛などを扱っている、評判の良い商会に幾つか心当たりがあります。もし遊牧民通貨に困っているのであれば……」
「なるほど。そんな商会なら飛び込みの一見客でも親切に相手してくれるかもしれんね」スタンフィールド氏が微笑んだ。
マギーが探していたのは、プロイス商会の店舗である。ズールでは中堅の商会で、会頭のミヒャエル・プロイスは6代目。羊毛や毛織物、絨毯を扱う手堅い商売で市中での評判も悪くない。堅実な手腕と安定した商いで、地味ながらも確固たる地位を築いている。という説明は、全てマギーの前の雇い主であった冒険商人オーからの受け売りであった。マギーは、かつての雇い主オーの鑑定眼を信頼していたので、まず最初にプロイス商会を選んだのだが、多少の懸念もあった。数千ゴールは庶民にとっては大金であっても、都市に根を張った老舗商会にとってはさほど大きな金額ではない。
とは言え、何時ものようになるようにしかならない。今回は評判のいい商会なので、交渉が失敗したとしても(多分)命の失敗もない。南方にある悪の吹き溜まりみたいな犯罪都市では、客が無防備で後ろ盾がないと見るや身包みを剥いで奴隷に売り飛ばす店も珍しくないそうだ。比べればズールははなはだ文明的な都市なので、性質の悪い店でも精々、客から有り金を巻き上げるくらいであった。
通りに面したプロイス商会の本店。農夫からスーツ姿へと着替えたスタンフィールド氏と驢馬を引き連れたマギーは、補強工事された廃ビルの入り口の前に立つと腕組みしながらプロイス商会本店を睨むように見上げていた。
「此処がそう?」スタンフィールド氏も緊張した様子で尋ねた。
「はい。プロイス商会です。とうとう来てしまいました」とマギー。
「マギーちゃん。なんか睨んでるけど、因縁とかあるの?」
「いいえ、全然。緊張しているだけです」二人して巨大な店舗を眺めてると、おのぼりさんのカモとでも思ったか。老浮浪者が怪しげに寄ってきたが、三メートルの距離でマギーが猫のようにさっと振り返ると、すぐに離れていった。
「プロイス商会。派手さには欠けますが堅実な商いで、比較的に評判がよろしいです」お店に出入りした人が邪魔そうな目で二人と一匹を見てきたが、マギーの人殺しみたいな目つきを目にすると慌てて顔を伏せながら離れていった。
「あー、邪魔になるな」スタンフィールド氏が言って二人は入り口横に移動した。
「取引できそうな相手では多分一番マシですが、さて、相手をしてくれるかな」ここまで来たくせに、マギーは急に自信なさそうに言った。
「えぇ、大丈夫かね?」スタンフィールド氏は仰天したように言った。
「数千は商会にとってそれほど大きな金額でもなし。商会であれば、万単位での取引も……ううむ」苦い表情でマギーは唸っている。
なぜか奇妙に怖気づいた様子を見せたマギーに、スタンフィールド氏は訝しげな視線を向けてから「駄目で元々さ、気楽に行こう」楽天的に告げた。
ためらいがちに一呼吸置いた後「ええい、ままよ」マギーも決意を込めてプロイス商会に踏み込んだ。
「そちらさまで遊牧民通貨が品薄だと聞きつけまして。買い取ってもらいたいのですが、担当の方とかおられますか?」別人みたいに愛想よく振舞っているマギー。スタンフィールド氏は、誰だこいつ、と言いたげに同好者を白眼で眺めていた。
「ミヒャエル氏でも誰か、番頭さんでもいいのだけれど」立て板に水のように話すマギーに、受付嬢が頷いた。
「お待ちください、ただいま担当のものを読んでまいります」
上階が崩壊した廃墟ビルを其の儘に流用した入り口受付で、受付に呼ばれたマネージャーのコニー・ジョーンズは冷たい視線で客人を眺めていた。
「やあ、ジョーンズ。プロイスに入ったんだ」とマギーは微笑みを浮かべていた。
「マギーか。よくも顔を出せたものだな」一方のスーツ姿のジョーンズは、口調から嫌悪感を隠そうともしなかった。マギーには以前の雇い主の横死にまつわる良くない噂が付きまとっており、時折、疑念の目を向けられていた。
「わたしは……決めつけるのは良くないと思うよ」とうなだれた声でマギーが述べると、ジョーンズはますます不機嫌そうな表情を浮かべた。しかし、マギーの知る限り、ジョーンズは好き嫌いは別として他人に対して公正な人格の持ち主だった。
「……取りあえず、話は聞いてやる。要件はなんだ?」マネージャー・ジョーンズの問いに応じて、マギーは穏やかにスタンフィールド氏を紹介した。
「使い走りですよ。雇い主は此方の人です」
スタンフィールド氏が進み出ると名乗らずに話し始めた。
「初めまして。そちらで遊牧民通貨が品薄と聞き及びましたので是非、買い取っていただきたいと窺った次第です」精々が胡散臭い作り笑顔を浮かべながら、スタンフィールドは革袋の中身をそっと見せた。
「遊牧民の発行している通貨が、取りあえず4000ゴールほど手持ちにあります」
「こちらとしても望ましい話です。どうぞ、こちらに。応接室へとご案内いたします」銀貨と紙幣の詰まった革袋を前に、ジョーンズが丁重な口調に改まって奥へ続く廊下へと恭しく手招きした。
「奥の部屋、孔雀の間を使う。茶を用意してくれ。それと鑑定用器具と……」事務員に色々と告げてから先導を始めたジョーンズと平然としているマギーを他所に、革袋を抱えたスタンフィールド氏。こうした取引に慣れていないのか。大型建築物の奥へと案内されながら、やや不安そうにあたりを見回している。
「この間、ギャング映画で見たんだけどさ……」
スタンフィールド氏が小さな声でマギーだけにそっと囁いた。
「はい」
「密室に案内されて、用心棒に殺されて金だけ取られたりしないかな?」子犬みたいに不安を訴えるスタンフィールド氏に、マギーが頷いた。
「ああ、よく聞きますね。特に一見の客やよそ者。思わぬ大金を得た下層の客なんかが被害に遭いやすいとか。被害者像、まさに私たちです」
「マギー君さ。楽しんでない?」
「会頭が変わってなければ、心配いりません」二人のやり取りが耳に入ったのか、先頭を歩いていたジョーンズが肩を震わせて、低く笑った。
「ジョーンズも、このような場面で騙し討ちを仕掛けるような男ではありません。たぶんね」と、マギーが静かに淡々と語った。
「お二人は、知り合いかな?」と、スタンフィールド氏が問いかけた。
「ジョーンズは傭兵で…「…」…そいつと、戦ったことがある」
マギーの言葉にジョーンズの返答が重なった。
「それはそれは……なかなかの経験だ」と、スタンフィールド氏が呟き、マギーの腰に吊るしたソードオフショットガンを一瞥した。
「昔のことです。どうぞ」と、奥の扉を開けながら、ジョーンズが振り返った。
広めの応接室に足を踏み入れたスタンフィールド氏とマギーの目に飛び込んできたのは、小さな金づちや天秤、機械などが並べられたテーブルだった。三人の男女がいて、護衛だろうか。若さを残した青年が壁際に立っている。初老の男性と眼鏡の中年女性は丁重に迎え入れてくれたが、窓には太い鉄格子が頑強に埋め込まれている。貴重な物資や大金が保管されている商会としては当然の用心なのだが、スタンフィールド氏は悪い方向に想像力が刺激されたのかも知れない。顔を引き攣らせていたが、それでも椅子に腰かけて、対面の二人に対して頷いて見せた。
「お手持ちのゴール通貨を鑑定させていただいて、よろしいでしょうか?」と、初老の男性が眼鏡を掛けながら尋ねてきた。
「勿論、目の前で鑑定させていただきます」とジョーンズが補足する。スタンフィールド氏が頷いたので、マギーは革袋から銀貨や紙幣、そして大ぶりの銅貨などをテーブルの上に広げていった。
「始めてくれ」ジョーンズの言葉にベストを着た初老の男性が頷き、眼鏡の二人がスタンフィールド氏の持ち込んだゴール通貨をルーペで見たり、機械で数え始める。マギーが入り口横の部屋の隅に立つと、扉を挟んでジョーンズも同じく部屋の隅で向き直った。
マギーを警戒しているようだ。室内は全員が一応の武装しているが、その気になれば、マギーは室内の全員を殺し、金を奪って逃げることが出来る。だが、それはジョーンズも同じだ。マギーとジョーンズが互いに無言のまま、それとなく相手を警戒して視界にとらえ続けていると、三十分ほどして鑑定が終わった。
総額、3993ゴール。その報告を聞いて、間違えたかな、と首を傾げるスタンフィールド氏。
「7枚、贋札が混ざっていました。しかし、かなり精度の良いものです。充分、真札として通用するでしょう」鑑定士らしき初老の男性が淡々と応えた。
交易や商取引で偽造紙幣や貨幣が混ざっているのは日常茶飯事で、真札でも出来が悪い代物や零細商会やら小集落が発行している怪しげな通貨も多量に流通しているので、贋金や鐚銭を全て省くと却って色々と面倒になる。為に市中では低額通貨は出来の良し悪しで価値が変動しており、時に傷んだ真札よりも出来のいい贋金の方が高い価値を付けることすらあった。発行している経済圏の政府やら商会にとっては溜まったものではないが、市井の人々にとっての現金とは、あると便利な通貨の一種に過ぎなかった。
(贋札は掴まされる方が悪いのが常識。倫理観の崩壊は深刻ですよ)マギーが憂いていると、初老の男性が問いかけた。
「ギルドクレジットとの両替をご希望との事ですが、よろしければ、お客様のお名前をお聞かせいただけるでしょうか?」
現物さえ持っていれば、誰であろうとも取引する商会も少なからずあるが、プロイス商会は一応、あからさまな盗品や略奪品は避けるとの評判を持っていた。
それでも匿名のままでも取引は不可能ではない。統一された税制がなく、治安も劣悪な世の中では、金を持っている事を他者に知られないために、匿名のままで取引が行われる事も侭あった。スタンフィールド氏は一瞬、悩んだようだが、しかし、マギーと視線を合わせてから頷いた。
マギーがゆっくりと進み出ると、椅子に座ったままの雇い主の傍らで口を開いた。
「この人は、ポレシャのキャロル・スタンフィールド氏。両替商を営んでいる高名なポレシャ市民です」態々、本人に代わってマギーが紹介したのは相手方の一従業員に直接、対応しないことでスタンフィールド氏を大物と示す、前時代的だがそれなりに有効なある種の儀礼だった。護衛として雇われた以上、普段の関係がどうであれ、マギーは雇い主の安全を確保するために全力を尽くす。素性を明らかにしたのも、後ろ暗い金ではないと言う安心感を与え、同時に今後も取引があり得ること。あなた方が財産を奪いにこないと信じていますと言うメッセージだった。
「あなたがキャロル・スタンフィールドですか」紹介を受けた老鑑定士は穏やかな微笑みを浮かべた。
「ご尊名はかねがね。その風貌も、聞いていた通りの方だ」初老の鑑定士に言われたスタンフィールド氏は、訝しげにその老人をじっと見つめた。老人はスタンフィールド氏を知っている様子だったが、彼は老人を知らず、また心当たりもなかった。
「マッケンジーやモローから貴方には助けられたと聞いてます」続けた初老の鑑定士が胸に手を当てて、穏やかに敬意を表した。マッケンジーやモローは、スタンフィールド氏にとって縁がある行商人たちだった。
「彼らとは付き合いがあります」スタンフィールド氏は過去の交流を脳裏に思い出しながら答えた。長い付き合いで聞いた話の幾つかはメモ帳に書き残していたが、そう言えば、行商人たちはプロイス商会にも幾度か出入りしたと言っていた。
「今、ゴール通貨は不足していたので、こちらにも丁度、都合よかったのです」と老鑑定士は、商会における金銭的不足を明かした。此処まで来るとスタンフィールド氏にも、目の前の人物の正体が薄々と分かってきた。
「プロイス商会の会頭自ら対応していただけるとは、光栄の至りです」スタンフィールド氏がそう言うと、ミヒャエル・プロイス氏はニコリとほほ笑んだ。




