記憶の欠片
色を変え始めた銀杏の木漏れ日を受けて、館内は穏やか、且つ、爽やかな雰囲気だ。
レイはいつも通り、返却ポストに昨晩のうちに放り込まれた本を台車に積んで館内に搬入した。
一冊、一冊、バーコードをチェックした後、それらの在るべき場所に戻していく。
これが終了するのにおよそ一時間。
レイが猫の手も借りたそうなら、私も手伝いたいものだが、どう見ても平日の図書館に客は少なめで、私の出番はないものと判断した。
「お前も人なら手伝ってもらうんだけどね。」
脚立の上でレイは厚ぼったい本を肩に担いで、私に向ってウィンクする。
「しょうがないね。私は猫だもの。」
お返しに私は自慢の長い尻尾をパタパタ振ってみせる。
古今東西、猫は人の役に立たないようになっているんだ。
私はこれこそが、人との対等な関係を保つ猫の美学だと自負している。
役に立ったら、犬と変らないだろう?
いつもと変わらない今日。
昨日と違うのは彼の名前だけ。
この少年が今までどこにいたのか、ここに来るまでは何をしていたのか、人は知りたがるだろう。
でも、猫の私には、今日という現実があればそれで良かった。
昨日までの事を順次忘れてくれる彼のお陰で、私も辛い記憶を蒸し返す必要がないのだから。
きっとレイもそうなんだろう。
覚えられないんじゃない。
彼は無意識に忘れようとしてるんだって、私には分かっていた。
「レーイ!ちょーっといいかな。」
返却本の台車がほぼ空になった頃、美鈴サンの大声が響いた。
館内にいた僅かな客達は、一瞬、本を読む視線を大声の主に向けたが、いつものことなので何事もなかったかのように、再び自分の世界に戻っていく。
レイは首を傾げて、本棚の上に丸くなってた私を見てから、脚立から飛び降りた。
私も慌てて宙返りを打ちながら、床に着地する。
カウンターの前のコンピューターに向って、大声の主、美鈴さんがガタガタとキーボードを叩いていた。
自分の目の前に立ったレイをチラリと上目遣いで見て、プリンターから出てきた出来立てのリストをバっと掴むと、彼の前に差し出した。
内容までは把握しかねたけど、ずらりと並んだ漢字の羅列はどうやら人の名前らしい。
レイはリストを手に取って目を走らせると、フムフムと頷く。
「これが何だか分かるわね?」
「・・・憶測ですけど、返却期限過ぎても返してくれない人のリスト?」
美鈴さんは、胸を反らして鼻息荒く言った。
「まさにその通り!これは今だに本を返さない罪人どものリストなのよ。何冊もキープしたまま、1年も返さない輩もいるわ。こちらから催促してやらないと、ヤツらは勝手に時効だと思ってしまうの。あたしが言いたい事、分かるわね?」
レイは首をすくめて、茶色の髪を掻いた。
困ったときのレイのクセだ。
「・・・憶測ですけど、この人たちに電話しろってことですか?」
「ご名答!知らない人に電話するのは、いい社会勉強になるわ。最近は電話で敬語も話せない人間も多いんだから。つまり、これはあなたの為よ。」
おいおい・・・。
私は美鈴さんの強引な理論武装を聞いて、苦笑した。
困った顔で、でも、絶対に嫌とは言わないレイは、神妙な顔で頷いた。
「分かりました。やってみます。できる範囲で・・・・。」
◇◇◇◇
レイはその日、電話が設置されている別室に軟禁状態にされることになった。
「新しい刺激だな、レイ。」
「・・・どうだろう。例えば、僕が今日電話するだろ?でも、明日以降、その人が返却に来たら僕は電話した事を覚えてないじゃないか。」
「後腐れなくて、いいんじゃないの?」
「自分が電話したのを覚えてない人が、僕を探しに来たら、何だか悪いなあ・・・。」
「後の事は館長の仕事でしょ?」
「まあね。でも、未来形の約束ができないのは、時々不便だな。」
彼の賢そうな茶色の瞳が少し曇った。
呑気な彼にも、葛藤はある。
その気持ちは分かったので、私も一応猫らしく、彼の腕に体を擦り付ける。
この慰め行為が、古今東西、人間達のハートを鷲掴みにしてきた事は立証されているのだ。
例外なくレイも微笑んで、私の小さな頭をクシャクシャ撫でた。
「気にするなよ、レイ。さ、ちゃっちゃと済ませよう。」
「了解。」
リストのトップバッターは、一番古い延滞者で、1年前に借りたままになっていた。
貸し出し日時は、奇しくも一年前の今日、10月10日だ。
「香坂沙耶歌さんかあ・・・。あれ、どっかで聞いたような・・・」
リストを見ながら呟いたレイの言葉に、私はギョっとして耳を立てた。
彼が人に関して覚えていることなど、珍しい事だったから・・・。
2番手、南 晶でした。
次は白かぼちゃ様です。
宜しくお願いします。