■第17話 「最短ルート」の誘惑と、春の決意
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三学期の終業式が終わり、校庭の桜が蕾を膨らませ始めた頃。
俺と涼子は、新年度に向けた新しい勉強計画を立てるため、いつもの自習室にいた。
手元にあるのは、進路希望調査票。そこには『東京大学 理科一類』、そして『文科二類』と、俺たちの新しい目的地が書き込まれている。
二年生の最後に受けた模試の結果は、確かに悪くなかった。ブルジョワたちの背中も、以前よりははっきりと見えている。だが、依然としてそこには、情報の質と量に裏打ちされた、分厚い「格差の壁」が立ちはだかっていた。
「……ねえ、陽太。三年生になったら、あいつらもっとギアを上げてくるよね」
涼子が、自分のノートの余白に小さく「不安」と書き込んだ。
「ああ。あいつらはこれから、もっと高いお金を払って、特別な『予想問題』とか『対策講座』を使いまくるはずだ。……でも、俺たちがやることは変わらない。あいつらが的中を信じて進むなら、俺たちは『どんな難しい問題』が来ても、その場で自分の頭で考えて解き切る力を、限界まで高めるだけだ」
俺がそう言うと、涼子は安心したように小さく笑った。
「そうだね。……ねえ、陽太。春休みの間、一回だけ『あの場所』に行かない?」
「あの場所?」
「……東大の、赤門。一度も見たことないのに『そこに行く』って言い続けるの、なんだか実感がわかなくて。本物を見て、空気を吸ってみたいの」
俺は一瞬、言葉を失った。
これまで画面の中やパンフレットでしか見たことのない、東京大学。そこは俺たちにとって、攻略すべき巨大な城であり、同時にまだ実感が伴わない「夢の場所」でもあった。
「……いいな。本物のキャンパスを見ておけば、俺たちのやる気ももっと本物になるかもしれない」
その時だった。自習室のドアが開き、あの「ブルジョワ層」のリーダー格の男子生徒が入ってきた。彼は俺たちを一瞥すると、いつもの穏やかで、それでいてどこか他人を寄せ付けない笑みを浮かべた。
「やあ、高橋くん、水野さん。三年生だね。……実は僕、春休みは海外の短期講習に行ってくるんだ。東大の入試にも役立つ、最新の思考メソッドを学べる講座があってね。招待制なんだけど、運良く枠が取れたんだ」
さらりと言ってのける彼に、俺はもう動揺しなかった。以前の俺なら「そんなずるい方法があるのか」と落ち込んでいたかもしれない。でも今は違う。
「……そうか。気をつけて行ってこいよ」
「ありがとう。……君たちは、相変わらずここで地道にやるのかい?」
「ああ。俺たちは、この自習室が一番自分に合ってるんだ」
彼は不思議そうに肩をすくめて、自分の席へと向かった。
彼らが大金を使って空を飛び、最高級の「武器」を買いに行く間、俺たちはこの硬い椅子の上で、一文字一文字と格闘し続ける。それが俺たちの選んだ「勝ち方」であり、神田先生が言った『一生モノの知性』を磨くための唯一の道だ。
数日後、俺と涼子は東京行きの電車に乗っていた。
車窓を流れる景色を眺めながら、俺は胸の奥で、静かに燃えるような決意を感じていた。
駅を降り、本郷の坂を登っていくと、不意にその門が現れた。
赤門。
写真で見るよりもずっと重厚で、歴史の重みを感じさせるその門の前に立った瞬間、俺の全身に鳥肌が立った。
「……ここが、私たちの目指す場所なんだね」
涼子が、門を見上げながら震える声で言った。
門をくぐり抜けていく学生たちは、誰もが自分たちの信じる道を知っているような、凛とした顔をしていた。
門をくぐり抜けていく学生たちの姿を見ながら、俺の心には自然と「あいつら」の顔が浮かんでいた。海外のサマースクールに行き、高価な「的中情報」を武器に涼しい顔でトップを走るブルジョワ層の連中。
「ああ。あいつらは金で『答え』を買うかもしれないけど、俺たちは自分の頭で、この重い門をこじ開けてやるんだ。あいつらに負けないくらい、もっと効率を上げて……」
俺がそう口にした時だった。
「――お前さんは、誰と戦っているんだい?」
不意に背後から声をかけられ、俺たちは肩を跳ねさせた。
そこには、いつの間にか神田先生が立っていた。普段の厳しい講師の顔ではなく、どこか遠くを見つめるような穏やかな表情で、赤門を眺めている。
「神田先生……どうしてここに?」
「たまには教え子の『戦地視察』に付き合おうと思ってな。……それで、高橋。さっきの言葉、あいつらに勝つことがお前のゴールか?」
俺は答えに詰まった。これまで、情報を金で買うエリートたちへの反発心が、俺たちのエンジンを回す燃料になっていたのは事実だ。
「それは……あいつらが提示する『効率』が正解だと思いたくないからです。自分の力で解くことの正しさを証明して、あいつらを見返したいっていうか」
神田先生は、赤門の古い柱を掌で撫でた。
「受験は確かに『戦争』と呼ばれる。だがな、試験会場で隣に座っているのは敵じゃない。本当の敵は、お前の中にある『甘え』や『諦め』、そして『自分を信じきれない心』だ」
先生の言葉が、春の冷たい風に乗って俺の胸に染み込んでいく。
「東大の教授が求めているのは、他人に勝った数じゃない。目の前の問題という『未知の世界』に対して、どれだけ誠実に、どれだけ深く、自分の頭を動かし続けたかだ。他人の買った情報や、他人の成績に気を取られている時間は、お前の『知性』を純粋に磨く時間を削っているだけなんだよ」
俺は、自分が握りしめていた拳が、少しずつ緩んでいくのを感じた。
あいつらに勝つこと。あいつらを見返すこと。それは結局、俺がまだ「あいつらの物差し」で自分を測っていた証拠だったのかもしれない。
「いいか。お前たちの『泥臭い読解』は、誰かを叩き潰すための武器じゃない。お前たちが、自分の力で人生を切り拓いていくための『翼』なんだ。他人を見るな。自分の中の限界だけを見ろ」
涼子が、深く頷くのが分かった。
赤門を吹き抜ける風が、先ほどよりも柔らかく感じられた。
「……分かりました、先生。俺、あいつらのことはもういいです。俺が戦うのは、俺自身の限界です」
俺はもう一度、赤門を見上げた。
そこは誰かを蹴落として入るための場所ではなく、自分自身の知性を極めた者だけが、その重い扉を自力で押し開けて進む場所なのだ。
三年生、四月。
俺たちの戦いは、本当の意味での「自己との対峙」へとアップデートされた。
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