〈6〉転生令嬢の変化
前世の記憶を取り戻して――いや、王宮でのガーデンパーティでぶっ倒れてから、かれこれ一か月が過ぎた。
ここに至って、レイチェルは、想定外の壁に直面していた。
――夢の中で、高橋萌子とふたり誓ったこと。
ひとつ、味方を増やすこと。
ふたつ、外国語をマスターすること。
……これが、なかなか上手くいかないのだ。
いや、それ以前に。
自分の精神性によからぬ変化が起こっていることに、気付いてしまった。
おそらくは……いや、完全完璧百パーセント高橋萌子のせいだ。
前世の自分は、対人スキルが要求される職業柄というか生真面目な性格ゆえというか、とにかく社会不適合を起こしかけていて、……ぶっちゃけ、軽い人間不信に陥っていたのだ。
今思えば、ランドルト公爵夫妻がお見舞いに来てくれたとき、バームクーヘンを食べながらの何気ない会話すら、レイチェルにとっては苦痛だった。
あのときは病み上がりのうえ緊張していたからだと割り切って、深く気に留めることもなかったのだが、そのあとも、メイドや執事が声を掛けてくるたび、ビクンと全身を硬直させて怯懦するようになっていた。特段ひとりが好きだというわけでもないが、必然的に部屋に籠もる時間が長くなり、必要最低限の会話以外は話さなくなった。幸か不幸か、この国には義務教育制度がないから、学校に行って不特定多数の好奇心に晒されるという苦行だけはなかった。
(ど、どうしよう……? 私、味方を増やして、エディオール語をマスターしないといけないのに……!)
これは、婚約破棄だの『ざまぁ』だの以前に、私、人間として終わっているのではないか――?
そんなことを嘆いていても始まらないので、ひとりで孤独に出来ること――まずは、父親の書斎の蔵書を読んでみることから始めた。
父親の書斎といっても、もとは、祖父――由緒正しき先代の蔵書だ。つまり、ルビンアート侯爵家に代々伝わる貴重な文献――歴史書や学術書である。きわめて閉鎖的な身内の念書なども含まれていたが、婿養子である父親は、おそらく全体の三割ほどにも目を通せてはいないだろう。
周辺諸国――特に、敵国でもある隣邦エディオール王国関連の書籍を選んで、数冊を自室に持ち帰る。ゆっくりと時間を掛けて、ノートにメモとか取りながらレイチェルは読み進めていった。
「……そんなの読んでわかるの?」
「お義母さま」
「ヘルマン……あなたのお父さまだって、難しすぎて匙を投げてるような書斎なのよ?」
「そんなに難しいことは書かれてないわ。文章を読むのに慣れていないから、難しく感じるだけだと思うわ」
その日も、自室で孤独に歴史書に取り組んでいたら、継母であるリズベットがワゴンを押して乗り込んできた。最近は誰もレイチェルの部屋に入りたがらないので、ティータイムの時間も侯爵夫人自ら世話をしてくれる。
「それにしても、いったいどういう気まぐれよ? そりゃあね、……あんなところでセミ襲撃なんて、あなたには同情するわよ? それにしたって、対人恐怖症なんて――」
「自分でも驚いてるわ。なんとかしようって結構頑張ってるんだけど、どうにもならないの」
婚約者一家がお見舞いに来てくれた日、極度の緊張から精神的な発作を起こしてしまって以来、……これは、もう、否定したくても否定できない事実だと呑み込むしかなかった。
これは、高橋萌子――紛れもなく自分自身の自我なのだ。
前世の自分は、ある種の人間を恐れていた。
傷付きたくないから、本能的に排除したがる。
不思議なことに、愛情まみれの父親は別格として、どこか冷ややかなリズベットに対しても、レイチェルの防衛機制は発動しなかった。――そういえば、悪戯ルッツに対してもだ。どうやら、下心が見え隠れするのは完全ブロックだが、面と向かって他意だらけなのにはまったく反応しないらしい。――人間の防衛機制というのは、本当によくわからない。
「あれ以来、妙に大人びた話しかたするようになったし」
「お義母さまに対して取り繕っても仕方ないでしょ」
「――そこよ」
「は?」
「侯爵令嬢なのに気さくで爛漫って、チヤホヤ尽くしてくれてた使用人たちを遠ざけて、なさぬ仲であるはずのあたしとは普通に会話できるって……ちょっとおかしいでしょ?」
「だって、お義母さま、私に対して期待とかないもの」
読みかけの本をデスクに置いて、レイチェルはちょこんと義母の待つテーブルに着いた。リズベットがいれてくれた紅茶を飲んで、ふうと息をつく。
「……だって、もともと私のこと面倒くさいなーっていうか、邪魔だなーっていうか、やりづらいなーって思ってたでしょ」
「そこまで明確に意識してないわよ。……逆に、あなたのほうがイヤなんじゃないかって気はしてるけど。今でも」
「嫌ってないし、イヤじゃないわよ。だって、私を生んでくれたお母さまは死んでしまったのですもの」
レイチェルを生んでくれた母親――トルデリーゼ夫人は、とても闊達な女性だったが、冬の寒波が厳しかった四年前、風邪をこじらせた挙句、あっけなくこの世を去ってしまった。
それから一年ほど経ったころ、父親――ヘルマンが、リズベットを連れてきた。
当時、レイチェルは六歳……日々の世話はメイドが担当してくれていたし、実のところ幼すぎて母親の記憶など希薄だった。だから、父親の新しい伴侶に対しても、否定的な感情を抱くこともなかった。むしろ、具体的なお母さんが出来て、少しワクワクしていた気がする。しかし、ヘルマンは、「今日からこの屋敷に一緒に住むよ」――そう言っただけで、「新しいお母さんだよ」とは言わなかった。……少し寂しかった。
幼いレイチェルに、ヘルマンは、丁寧にリズベットのことを説明してくれた。
小さな子爵家のヘルマンと、騎士家庭のリズベットは、同じ主家に仕える両親を持つ幼馴染みだった。ただの幼馴染みだったので、おたがいの結婚にはまったく無関心だった。
ヘルマンはトルデリーゼに見初められ侯爵家に婿入りしたが、リズベットもそれなりに恋愛っぽいドラマのすえに小麦農園を営む男爵家に嫁いだ。――そして、六年後、夫である男爵は王国北部の戦地に徴兵され、戦死する。
リズベットには子がいなかったので、男爵家は夫の弟が継いだ。
リズベットがそれなりの家門の出身であれば、男爵家も彼女を邪険には扱わなかっただろう。あるいは、後継者を生んでさえいれば、待遇も違っていたかもしれない。
しかし、待っていたのは最悪の展開だった。新しい当主――すなわち夫の弟に、「愛人になれ」と強要されたのだ。――とんでもない。
そのような事情で、婚家を飛び出した。
しかし、女ひとりで生きていくのは、いつの時代も、どこの世界でも、簡単なことではない。
仕方がないから、どこぞのお屋敷でメイドの真似事でもしてみようかしら……そう思い立って王都に出てきたところ、公務で城下を視察中だったヘルマンと再会した……と、このような事情らしい。
「苦労してるものね、あなたも」
「……九歳の子どもの言う台詞じゃないわ」
「どうもね、私、にこにこ笑って内心で違うこと考えてるっていうか、私のご機嫌を取りたくて作り笑い浮かべてるような――そういうのが駄目みたい」
ぐるりと思考を巡らせて、レイチェルは答えた。リズベットが一緒に持ってきてくれたスイートポテトを口に入れて、素朴な甘さを味わう。
「――よく言うわ。あなた、気さくで話のわかるお優しいお嬢さまとか使用人たちから持ち上げられて、いい気になってたくせに」
「……う」
だから、それが、トラウマなんだってば。顔を顰めると、リズベットが、呆れたように溜息をついた。
「何が気さくなもんですか。あなた、金銭感覚って堂々お貴族さまだったわよ? 蜂蜜のケーキを食べさせてもらっただけで厨房係のお給金を倍増してあげたり、髪型を褒めてもらっただけでメイドに新しいドレスを作ってあげたり……本当に、世間知らずのお嬢さま。……そりゃあ、使用人たちも、あなたにおべんちゃら使いたくもなるでしょうよ」
「おべんちゃらって……」
――そこまで言う。
前世の記憶というか、つまりは一般的な良識というものを自覚する以前の自分の行いに言及されると、さすがにレイチェルも恥ずかしくなってしまう。――というか、穴があったら入りたいとまでは思わないが、困ってしまって言葉を詰まらせるぐらいには居心地がよくない。
しかし、リズベットの――この変わらぬ率直さこそが、今のレイチェルにはありがたかった。
「反省してるわよ、私だって」
「……そうね。貴族令嬢にありがちなワガママ娘とか高飛車女とかいうんじゃないし、積極的にみんなを困らせているわけではないものね。――怖がってるだけで」
「……ごめんなさい」
レイチェルが素直に謝るのが意表だったのか、リズベットが、淡い緑色の瞳を見開いた。いいなあ……私も、こういう普通の色の虹彩がよかった。きっと、リズベットなら、あの家宝――『侯爵夫人のエメラルド』も調和して映えるんだろうなあ……。
「……怖い夢でも見たの?」
「夢……」
「だって、あなた、あの日、倒れて……目が覚めてからおかしいもの」
「……」
夢だといえば、夢かもしれない。前世の自分――高橋萌子との邂逅は。
「私、夢の中で、大人の女性だったの」
自分の心の中の澱を少しだけ吐き出してみたくて、レイチェルは呟いた。
高橋萌子は、三十四歳――職場ではチームリーダーも任されていたし、それなりに働き盛りだった。毎日が慌ただしすぎて恋愛めいたことをしている余裕はなかったが、それなりに充実していると思い込んでいた。しかし、毎日が忙しすぎて、学生時代からの友人とは疎遠になっていた。……いや、ちょっと違うか、仕事のせいというのはもちろんあったが、それよりも、むしろ、SNSとかネットとか仮想空間におけるコミュニケーションが苦手だったという、そっちの要因のほうが大きかったかもしれない。
しかし、見せかけだけの日常は自分を騙すのが精一杯で、ストレスの飽和を越えたあたりから何かが一枚ずつ剝がれ落ちていった。何故だか空回りが目立つようになり、気が付いたら職場でも浮いてしまっていた。
――孤独だ。
突然、人間社会における自分の立ち位置を悟り、驚愕して……恐怖した。
――だから。
目が覚めてからのレイチェルは、愚痴をこぼしながらも本音で接してくれるリズベットのことが、とてもありがたく思えてならなかった。もっと正直にいえば、リズベットは三十一歳――高橋萌子と同年代だからこそ、友人というか……なんとなく親近感のようなものを抱いてしまったのかもしれない。
「……夢の中でね」
「苛められたの?」
「――ちょっと違う。私、みんなの役に立ちたくて、一生懸命努力するの。……でも、裏切られるの」
高橋萌子は人材コンサルティング会社の営業を担当していた。
みんな、近寄ってくるときは耳当たりのよいことばかりを主張して、彼女を利用しようとした。しかし、自分の希望に少しでも沿わないことがあると、なんの躊躇いも罪悪感もなく、彼女との約束を破った。彼女を騙して、切り捨てた。――顧客企業の責任者や担当者相手に、何度土下座したことか。そのたびに、上司や先輩から罵詈雑言を浴びせられ、何度心無い人格攻撃をされたことか。
……人間なんて、所詮、自分のことしか考えていない――利己的な生きものなのだ。
社会性とか、責任感とか、――そういうの、絶対に持ち合わせていない層が少なからず存在する。人間の言うことなど、本当にあてにならない……!
レイチェルの心の中を知ってか知らずが、リズベットは、小さく、「そう」とだけ頷いた。
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ここまでで第1章(9歳編)終了です。次回から第2章(13歳編)です。平日は日本社会に埋もれる社畜のため、月・水・金曜日の更新となります。




