〈5〉転生令嬢の試練
少年に手を取られて、椅子から立ち上がる。
――大丈夫だ。震えは気にならないほどには収まってきたし、とりあえず足元もしっかりしている。
「……こ、こちらですわ」
中庭には、この客間からデッキを伝って降りられるようになっていた。
緊張を濃縮したかのような空間からとりあえず逃れたくて、レイチェルは足早に屋外へと踏み出す。どこでもいいけど、まず目に付いた温室を目指した。
――知らず、小走りになっていた。軽く手を繋いでいるから、少年のほうは、九歳の女児に引っ張られているような格好になってしまう。
「――ねえ。ちょっと待ってよ。そんな遠くに行かなくてもいいから」
「あ……!」
私、なんでこんな焦ってるんだろう――?
我に返って、やっと立ち止まる。呼吸を整えながら、現状を確認した。
中庭の東側――美しいお池が横たわるあたり。
景色は開けていて――周辺には誰もいない。
お屋敷からは、ほどよく離れている。背後を振り返ると、まるで絵画に描かれたかのような壮麗な邸宅の中で、両家の家族が小さな人形のように立ち尽くしていた。きっと、急拵えの婚約者同士――未熟なふたりを心配そうに見守っているのだろう。
「ご、ごめんなさい……」
一身上のドタバタに菫色の美少年を付き合わせてしまったようで、強烈な申しわけなさに苛まれる。だから素直にレイチェルは謝った。
なのに、少年のほうは、ポカンと困ったような反応を示してくれる。
「――へえ。ルビンアート家の令嬢は身分のわりに気さくで爛漫ってウワサだったけど、本当だったみたいだね。そんな素直に認めちゃって、逆に困ることない?」
「あ……!」
明らかに、少年の表情――いや、雰囲気までもが変わっていた。
王宮でのガーデンパーティでは、――いや、さっきのティータイムだって、高貴なる貴族少年の仮面を崩さなかったのに。大人の世界で、未成熟な目映さを放ちつつ存在するのが当然であるかのような顔をして、駆け引きに溶け込んでいたのに。
なのに、今は、……まるで、意地の悪いガキ大将のように見える。
にわかに、ルッツのタイの上の黒いカタマリが、ヒクヒクと動いた。
そう思ったら、次の瞬間には、空中にブーンと飛び立っていた。
(あー……やっぱり本物だったんだ……!)
花壇を越えて、ほどよい高さの庭木が立ち並ぶあたりに突入してしまう。
宿主が走っていた震動が伝わってしまったのか、それとも、お庭の環境に生存本能が刺激されたのか――とにかく、甲虫は、自分が本来存在すべき自然の世界へと還っていったのだ。
「なんで生きている昆虫を身に付けているのですか?」
「逆に聴きたい。なんで女たちは宝石を好むんだ?」
そういえば、ルビンアート侯爵家にも家宝のエメラルドが存在する。昔々、この国の王さまから下賜されたもので、『侯爵夫人のエメラルド』と呼ばれている超逸品だ。代々の女当主に受け継がれるもので、トルデリーゼ夫人――レイチェルの本当の母親が結婚式で身に付けていたらしいのだが、レイチェルは、去年のお誕生日に一度見せてもらったことがあるだけだ。しかし、父親の書斎の奥に飾られている肖像画では、母も、祖母も、そのまた先代も、――マドレーヌのように大粒のエメラルドを誇らしげに首元に巻いていた。
ただし、現役の侯爵夫人であるリズベットはその所有を放棄しているから、近い将来、あの素晴らしいエメラルドは、レイチェルの首元を美麗に彩ることになるだろう。
「だって、宝石は綺麗ですもの。キラキラと輝いて、見ていて飽きませんわ」
「虫だって、おれに似合ってるし、見ていて全然飽きないだろ」
ルッツに断言されて、何故だか反論できなくなってしまった。だから、レイチェルは、気を取り直して自分の主張を展開する。
「――あ、あの。私、なんちゃって侯爵令嬢なんです。私を生んでくれたお母さまは侯爵家の純血でしたけど、お父さまは小さな子爵家の出身で庶民気質全開なんです。今のお義母さまに至ってはほとんど庶民だし、だから、私なんて、公爵家ご令息のお相手には相応しくないんです……!」
――だから、心置きなくさっさと婚約解消しちゃってください。
レイチェルとしてはそう続けたかったのだが、一気に言い切るには台詞が長すぎた。つまりは息継ぎが必要だったのだが、その、わずかの合間を縫って、ガキ大将――ルッツが攻撃を仕掛けてくる。
「庶民気質の父親と、ほとんど庶民の母親に育てられたから、おまえ、虫、平気なの?」
「……それは関係ないと思います」
「けどさ。たいていの女は、虫、嫌いだろ」
「夏にブーンって寄ってきて、血を吸ってくようなのは大嫌いです」
「おれだって藪蚊は嫌いだよ」
「厨房で、カサカサと隠れ潜んでいるようなのも――」
「――おまえ。アレを虫って呼ぶのは禁止する」
「え」
そんなこといったって、ゴキブリも立派な節足動物――つまりは昆虫の仲間だと思うのだが。
「カブトムシは?」
「そんなに嫌いではありません」
「蝶は?」
「苦手です」
「なんで?」
「鱗粉が降ってきたら怖いからです」
「……じゃあ、蜘蛛は?」
「苦手ですけど、我慢します」
「は?」
「蜘蛛は益虫だから退治しちゃいけませんって、お祖母ちゃんが――」
「おばあちゃん?」
――しまった。この場合の「おばあちゃん」は、高橋萌子の田舎のお祖母ちゃんだった。レイチェル・ルビンアートの祖母――すなわち貴族階級の婦人の発言にしては、あまりに異質すぎる。
「……と、とにかく。昆虫の中には、毒を持つものも少なくありませんから。ルッツさま、悪戯もほどほどになさいませ」
その場を誤魔化すように正論を述べるが、ルッツのほうはどこ吹く風だ。悪ガキ全開で奔放に笑って、レイチェルに詰め寄ってくる。
「おれの言いたいことわかってるよな?」
「は?」
遥か百メートルほどの向こう――お屋敷の客間からこちらを見られていることを考慮してか、ルッツは、病み上がりの婚約者を気遣っているふうを装うのを忘れない。ガーベラの花壇を眺め渡せるベンチに、レイチェルを座らせた。
「――セミ。あれのせいでおまえ倒れたってことになってるけど、違うだろ。大人たちは気付いちゃいないけど、おれ、すぐ近くで見てたから」
そう告げると、レイチェルの隣りに自分もちゃっかりと腰をおろす。
「逆だった。おまえが倒れたから、セミが驚いたんだ。――おまえ、何に驚いたんだ?」
「……!」
そのときに至って、初めて、レイチェルはルッツの目的を理解した。
彼は、庭園を散策したいわけでも緊張するレイチェルをいたわってくれたわけでもなく、――ただひとつ、ふたりきりで話せる状況を確保したかったのだ。
いくら婚約者といえど、いくら幼いといえど、貴族家の男女をふたりきりで部屋に籠もらせるとか考えにくい。かといって、両親同席の場では追及しづらい。だから、ルッツは、内緒話の出来る環境へと、レイチェルを連れ出したのだ。
「あ……あの! ルッツさまには本当に申しわけなく思っております! ごめんなさい! 本当に……私がいけないんです! ルッツさまも、セミさんも、何も悪くありません! あんなところで混乱しちゃったりして……私ったら、本当に間が悪くて………………!」
一生懸命に謝った。
隣りに座るルッツのほうに、身を乗り出して謝罪した。この場で命令されたなら、土下座だって厭わなかったかもしれない。この少年の思惑はわからないが、とにかく事実は事実として、ルッツに迷惑を掛けてしまったということだけは理解できたから。
しかし、またもや。
悪ガキのほうは、珍しい菫色の頭髪を揺らしながら、ポカンと困ったように溜息をついてくれる。
「……ねえ。なんでそんな簡単に認めちゃうの?」
「は……?」
「つまんねー。絶対にシラを切るだろうから、それをジワジワといたぶってやるの楽しみにしてたのに」
……それ、性格歪んでないか?
「だって、おまえ、何かすっごくビックリしてただろ。――何に驚いたの?」
――前世の記憶を思い出したからです。
とは、さすがに言えない。
――しかし。
これは、チャンスかもしれない。
ある程度の情報を開示して、向こうからこの婚約をなかったことにしてもらえれば、こんなラッキーなことはない。何しろこちらはすでにキズモノ――蝉にオシッコ引っ掛けられた令嬢なんて、王家に連なる公爵家には絶対に相応しくないだろう。
「実は……私、自分自身に婚約者がいることを知って、それであのように驚いてしまったのです」
「はあ?」
ガキ大将が、ビリジアンの瞳を大きく見開いた。不信感がアリアリと揺れている。
「たしかにタイミング的にはそんな感じだったけど、――本当にそれだけ?」
「……それだけです」
「貴族令嬢なんだから婚約者ぐらいいて普通だろ。二人とか三人とか出てきたら、びっくりしても許してやるよ」
――そういう問題ではない。
「わ、……私にとっては、ま、まるで現実的でなかったのです」
「……」
じとーっ、と――胡散臭そうな視線。これは、かなり疑っている。――しかし。
「だ、だから……あの。ルッツさまも、こんな面倒な小娘、お嫌ですよね。――大丈夫です。私、これ以上のショックなんて受けないので、もともとなんちゃって侯爵令嬢だし、今のうちにさっさと婚約解消しちゃってください」
「はあぁぁっ――?」
今度は、鳩が豆鉄砲喰らったような――貴族少年にはあるまじきヘン顔。
「だ、だからですね。――私、気付いちゃったんですけど、私、結婚とか婚約とか絶対に向かない女なんです。だから、ルッツさまは、公爵家に見合う、別のご令嬢と――」
「……おれ、結構気に入ってるんだけど。おまえのこと」
「………………は?」
真顔で言われて、一瞬は理解が追い付かなかった。
混乱するレイチェルに、少年はさらに追い打ちを掛ける。
「正確にいうと、おまえの家のこと」
――そういうことなら、あるかもしれない。それなら納得だ。
そこまで強気で宣言してから、ルッツは神妙に視線を伏せる。
「……だって、おれ、要らない息子だから」
「ええっ!?」
突然の爆弾宣言のあと、ガキ大将がトーンダウンする。レイチェルも一気にクールダウンした。
「公爵家はロードハルト兄上が継ぐんだ。兄上は優秀で、王太子殿下の側近なわけ。リンディア姉上はその王太子殿下の婚約者だし……ランドルト公爵家では、おれだけ使い道がないの」
「そ、そんな……!」
――と、叫びかけて、ふと息を呑む。
王太子――?
たしか、この国の王太子はゾルダン殿下といって、御年二十二歳……乙女ゲームであれば、当然、攻略対象のひとりだろう。ということは、ルッツの姉君――リンディア嬢が王太子ルートの悪役令嬢ということか……? なら、『ざまぁ』はレイチェルに限ったことではなく、リンディア嬢ごとランドルト公爵家も災難に見舞われるシナリオだってあり得る。
(……でも、年齢的に二十歳越えたらお兄ちゃん枠かアダルト枠よね? 貴族学園が舞台でないと盛り上がらないし……やっぱりルッツがメイン攻略対象っぽいかな。――つまり、ヒロインが誰を選ぶかによって、ルッツの運命、天国と地獄どっちもアリってことか……!)
……ちょっと可哀想。
少しだけ同情してしまった。
自分が運命に踊らされかけているということを、レイチェルは認識している。――だから、足掻いて足掻いて抜け出そうと……いや、『ざまぁ』後の人生をあれこれ模索している。
でも、そんな大前提を知らず、ただ呑み込まれてしまうだけなんて……。
(だからといって、私の記憶を教えてあげるわけにもいかないんだけど)
レイチェルの複雑な心中など知ってか知らずか、ルッツはさらに告白する。
「――とにかくさ、そんな事情だから、おれ、自分の将来は自分でなんとかするしかないってわけ。ルビンアート侯爵家の婿ならちょうどいいって思ってたんだけど、相手の令嬢だけはちょっとどんなのかなーって心配でさ。けど、おまえ、おもしろいし」
「ま、まさか、あのセミ……」
「あー、違うって。セミをけしかけたのはおれじゃないよ。さすがにそんなの無理」
「でも、カブトムシは意図的に留まらせてたんでしょ?」
「まあね」
「セミのほうだって、完全な偶然じゃなくて……セミが飛んだのは想定外だったとしても、セミを持ち込んで、私を試そうとしてたのでは――」
「あ。わかる――? すげえな、おまえ。本当に九歳児?」
レイチェルはたしかに九歳児だが、中身は三十路女だ。この少年は、レイチェルの身体年齢よりも三歳も年長のはずなのに、レイチェルよりもさらに幼い表情をする。
「そんなわけで、おれ、この婚約、解消するつもりないから」
にぱっと笑って、断言されてしまった。
「で、でも、……その、も、も、もしも、愛する女性とか現れたりしたら……」
「おまえ、何言ってんの?」
「は?」
「好きな女は好きな女で、そのまま侍らしておけばいいだろ」
「は……」
――侍らす?
「結婚はひとりとしか出来ないけどさ、それ以外は誰とでも何人とでも出来るじゃん。なら、結婚は、おれにとって社会的にいちばん有利な相手とするのが当然だろ」
なんじゃ、その、冷め切った思考……い、いや、この世界の貴族階級であればこれが正常か。――しかし。
ここは、乙女ゲームの物語であって。
「ものすごく苦手なタイプの女だったらイヤだなーって思ってたんだけどさ、おまえ、まあまあ見てくれはいいし、性格も従順そうだし、虫とか怖がらないし――」
「ルッツさまは、真実の愛に目覚めたりとかなさらないのですか?」
「真実の愛――?」
ポカンと、ビリジアンの瞳が瞠目する。
「あったらいいけど、なくてもなんとかなるから。でも、それなりの爵位と権威っていうのは、ないとどうしようもないから。――優先順位の問題だよ。だから、おれ、この婚約は大歓迎」
またもや、悪ガキ全開でにぱっと笑う。
かくして、高貴なる婚約者との顔合わせは、つつがなく――レイチェルの一身上の事情などきっぱりすっぱり切り捨てて、たいへん平和的に終了した。