〈9〉転生令嬢とカエル
ルッツが次期公爵に指名されたのと前後して、カライ王国では、異例ともいえる人事が発動されていた。人事――いや、どちらかといえば、処分に近いかもしれない。
まず、去年の暮れ――ルッツのランドルト公爵家と同等の格式を誇るゲルム公爵家が、「侯爵家」に格下げされた。
ランドルト公爵家と同等――つまり、ゲルム公爵家も王室と縁続きであり、もっと具体的にいえば、先代のイリアム・サーラ・ゲルム公爵はルッツの父親であるゾルゲ・チタン・ランドルト公爵の実兄、すなわちカライ王国アシュラン・ムール・カライ国王の異母兄に当たるのである。
表向きは、事業に失敗した挙句、王室の権威を無断で利用して粛清され、結果、公爵夫妻は衰弱死した――ということになってはいるが、そんな単純な事情でないことは、当時の父親の切羽詰まった形相から、幼いレイチェルでも窺い知ることが出来た。
そして、さらに、今年の夏――つまり、ほんの二か月前。
ルッツの兄が事故死した。
同時に、昨年からかろうじて存続していたゲルム侯爵家が、今度こそ本当に断絶してしまった。ルッツの従兄に当たる最後の当主は、なんらかの犯罪に手を染めていることが発覚し、王室と縁続きでありながら……いや、縁続きであればこそ、容赦なく断罪されたのだ。宰相である父親も、当事者に近いルッツも、未成年のレイチェルに多くを語ることはなかったが――なにしろこっちは前世から通算すると半世紀近くを生きているのだ。王太子夫妻の隣国訪問直後というタイミングを考慮しても、国際的な謀略(クーデターとか、テロとか、暗殺とか――いずれにせよ未遂だろうが)が働いたことぐらいは、容易に想像できた。
「――あ。カン違いしないでくださいね。私、宮廷を非難しているわけではないのです。私、ドゲチな王さまのことは、とても尊敬しているのです」
「理想の上司ナンバーワンな。おまえの父ちゃん、宰相だもんな」
「だって、当時のお父さまは――お祖父さまから宰相職を引き継いだ途端に罷免されないか、内心でビクビクしていたそうですわ。ですが、あの王さまは、ルビンアート侯爵家を引き続き重用してくださっているのです。ある意味、奇蹟ですわ」
「おまえの父ちゃん、地味に使えるから大丈夫だぜ」
「私は、私を生んでくださったお母さまのことはほとんど覚えておりませんが、あのお父さまをお選びになられたのですから、素晴らしく先見性のある女性だったと思います」
「反対されなかったの? 子爵家と侯爵家って、それなりに格式違うだろ」
「お母さまはとても闊達な女性だったそうです」
「――だから?」
「反対しようにも、私がすでに宿っていたそうですわ」
「……やるねえ、あのおじさん」
珍しくルッツが感心していた。
「この夏も、蚊除けの香を宮廷に導入しただろ。あれ、叔父貴も大絶賛だぜ」
「ああ、蚊取り線香ですね」
「このニオイ――ここでも焚いてるだろ」
「はい。そろそろ季節も終わりなのですけど、雑木に近いところにはまだまだ群れていますから……これですわ」
レイチェルが、窓際で燻らせていた蚊取り線香を取ってきた。陶器製の、豚の形の置物ごと。
「……この部屋入ったときから気になってたんだ。なんか異様なものが置いてあるって思ったら、……豚だったのか」
「蚊遣豚ですわ」
レイチェルが断言すると、ルッツの表情が途端に鈍化した。
「――いや。普通、香を入れるなら、金属製の香炉とか、陶器製でも、もっと、こう、格調高い――」
そんなこと言ったって仕方ないだろう。高橋萌子の感性では、蚊遣器といえば圧倒的に子豚なのだ。
「……それにしたって、よく知ってたな、こんな薬香」
「小菊の中には、ピレスロイドといって、蚊が嫌いな成分を含んでいるものがあるのです。ルビンアート領の農地で栽培・加工して、領民みんなで便利に使っています。蚊の中には、怖い病毒を持っているものもいるし――」
「げ。まさか、おまえの発案?」
「はい。お父さまの書斎の中に、植物事典がありました」
――というのは、もちろん出まかせだ。高橋萌子の知識を活用しただけにすぎない。
「やっと長時間使えるように改良できたので、王室にも献上しました。ランドルト公爵家にもお届けしていると思うのですが――」
「いや、もちろん、……だから、このニオイでピンと来たんだけど」
ちなみに、ランドルト公爵家では、渦巻状の線香を入れるのにちょうどよい大きさの香炉がなかったので、底台に置いたまま使っていた。それでも充分に用は足りているのであるが――。
「――おい。その変わった香炉。それ、欲しい」
「え」
「さすがのおれん家も、このサイズの線香が入るようなでっかい香炉はないの。だから、それも、くれ」
「在庫はあるので大丈夫ですけれど。……子豚でよろしいですか? 猫とかウサギもありますけれど」
「カブトムシ」
――あるわけない。
「……わかりました。カエルをご準備します」
レイチェルはすぐに執事を呼ぶと、蛙型の蚊遣器を公爵家へ届けるように指示した。――しかし。
「おれ、持って帰る。だから、今、欲しい」
「承知しました」
執事が包んでくれた蚊遣器(蛙型1号)を膝に乗せ、ルッツは大満足の笑顔を披露した。
「……そうやってると、本当に、悪ガキのころに戻ったみたいですわ」
っていうか、今でも立派に悪ガキか。……とは思うが、さすがに口にはしない。
「――だからさ。その、薬香でさ。おまえの父ちゃん、株、爆あがり。戦功上げるのと同じぐらい評価されてる」
「線香で、戦功。――ルッツさまの駄洒落、初めて聴きました」
「ある意味、戦功以上かも。だって、ほれ……叔父貴、あのとおり無防備だろ、頭?」
「え」
「蚊に懐かれると、痒くて堪らないんだと」
カライ王国アシュラン国王陛下の禿頭に藪蚊が群がっている様子を想像し、……にわかに同情する。
「叔父貴はさ、最近は経済政策に熱心なんだ。……戦争することもなくなっちまったから、ヒマなだけかもしれないけど」
ルッツが神妙に頷いた。レイチェルもなんとなく息を呑んでしまう。
だって、何百年もの間、断続的に起こっては終わり終わってはまた起こりを繰り返していた紛争の連鎖が、あっという間に一気に片付いてしまったのだから。
隣邦エディオール王国との和平条約は、それこそ甚大な影響をもたらした。
王国内は言うに及ばず、河州全域において――肯定的な意味で。
カライとエディオールがタッグを組んだとなれば、小国の寄せ集めである東側――草原諸国の動きも鈍化した。その隣りで、味方の顔をして虎視眈々とこちらの綻びを窺っているであろうロアナーン王国も、最近では面倒を持ち込むこともなくなった。北方は言うに及ばず――遥か東の綺羅の国もだ。
河州二強が組むことには、それだけの影響力――あるいは、見えない脅威をも孕んでいるのだ。
そして、たいへん逆説的であるのだが――どうやら、この和平、件のゲルム公爵が何やらやらかしてくれたおかげらしい。そのせいか、条約の中には我が国に不利な項目も含まれていたが――全体の調和から俯瞰すればそんなの些細なことだし、とにかく歴史の一ページが確実に未来に向けて進んだのだ。さすが、文化的にも政治的にもスマートな隣国のお手並である。和平に反対する勢力を力技で捻じ伏せて、なんともお見事にカライ王国の景気まで好転させてくれた。
過去の因縁を不問として、隣国との勝ち組戦略に乗ることを選択したアシュラン国王の采配――本当に、大当たりである。ルッツも、そういった一連の功績ゆえ、自慢の叔父貴――もとい、国王陛下を称賛しているのだろう。
しかし、レイチェル個人にとっては、それだけに留まらない。
隣国移住計画――近い将来『ざまぁ』されたときに(つまり国外追放になったときに)、永住先として考えているエディオール王国に渡りやすくなったというその一点において、この和平は最高に素晴らしい。――まさに偉業。「理想の上司」などという庶民的な基準では収まりきらない。あのドゲチの王さまは、カライ史上に残る名君である。
これまでは「敵国」だったのだから、隣国においてはカライのものはタブーだったはず。それが解禁されて、ひょっとしたらカライブームとか巻き起こっているかもしれない。新たに友好国となった森の王国の文化・慣習は物珍しいだろうし、歓迎される領域も少なからず存在するはず。……いや、対人恐怖症のレイチェルが語学教師というのは難しいものがあるが、カライ文化を紹介する書籍を発行したり、カライ料理やカライ衣装をプロデュースしたり、ひとりきり移住してもなんとなく何とかなりそうな気がする。――ビバ、隣国移住計画! ビバ、和平!
「……おまえ、なんか不吉なコト考えてね?」
「そんなことはございません。――それより、ルッツさま。貴族学園は楽しいですか?」
「……うん。まあ、それなりにね。――だって、一般教養とか専門知識とか評価してくれるだろ」
王家の血筋を汲む公爵家の次期当主、文武ともに秀で、見目麗しく、性格よし(ただし幼稚な一面アリ)――ルッツは貴族家の子弟らしく、一通りなんでも卒なくこなす。だって、チートなのだから。
しかし、レイチェルが見る限り、乗馬や剣術といった武道よりも、学術面――知識を学んで身に付けてさらに応用することのほうに意欲を感じるタイプのように思える。戦禍や災害に見舞われることの多いカライ王国では、どちらかといえば軍人のほうが重用される傾向にあるから、ルッツとしても居心地の悪いものを感じていたに違いない。
しかし、貴族学園では、歴史・経済・教養――総じてアカデミックな分野のほうに重きが置かれている。ルッツの知的好奇心を刺激するだけでなく、自身の得意分野を正当に査定してもらえることで承認欲求も満たされているのかもしれない。
「ルッツさまが学園のアイドルなのは理解できます。……っていうか、そのー……目立つ転入生とか新入生とかいませんか?」
「転入生?」
「えっと、だから……可愛い女子です。庶民出身で魔法とか使えたりして、淡い色の髪色で肩先ぐらいの長さで――」
「何、その、具体的な描写?」
――乙女ゲームのヒロインにありがちなタイプを並べてみただけです。
カラカラとおかしそうに笑いながら、ルッツは言う。
「あのさ、貴族学園って、貴族しかいないから貴族学園っていうの。一般庶民が紛れ込むとか――無理」
「あ、だから、その、一般でない……豪商とか豪農とかの子女だと進学できたりするし、魔法的な特殊能力とか持ってたりしたら――」
「あー、ないない、隣りの国じゃあるめーし。もしも本当に魔法の素養とかあったりしたら、貴族学園どころの話じゃない。宮廷が御用魔道師としてがっつり囲い込んじまう」
「で、でも。――庶民出身だけど貴族家の養子とかに入って入学する生徒はいますよね――?」
「……いないことはないけど、おまえの言うような特別な……――あ!」
「な、何か、思い当たることでも?」
「淡い色の髪色の生徒ならいるぞ」
「そ、それは……?」
「おれ」
脱力する。
――しかし。
たしかに、ルッツの菫色の頭髪は、珍しいし美しいし貴重かもしれない。
(ま、まさか、ルッツさまがヒロイン――?)
そ、そういえば、前世においては、男女逆転後宮とか流行っていたかもしれない。で、では、その場合、レイチェル・ルビンアートの立ち位置はどうなるのだ――???
(ヒロインの婚約者って……じゃあ、レイチェルはまさかの攻略対象ってこと――?)
そ、そんな。
私、悪役令嬢だから、ほどほどの美人だし、ほどほどのチートだし――だけど、けして、スペシャルプライムファンタスティックな超絶主人公的な要素なんて何も持ち合わせてなくて――。
(セミか――? セミが、私の、唯一の付加価値か――?)
にわかに混乱する。
しかし、ハタと思い至り、レイチェルは加速中の思考に急ブレーキを掛ける。
(まさか、私、ドボンとか……?)
ババ抜きのババ――的な?
――天下無双の乙女ゲームに、そのようなバリエーションはあるのだろうか?
それでは、この乙女ゲームの題名は、まさかの『悪役令嬢レイチェル、攻略対象として執着される』ではないか――?
レイチェルの思考回路が、にわかに混迷する。
――意味不明。




