やだ。やだ! 連れていかないで。
「おいおい、何だよ。車の中にいたのか。何処に隠れていたんですか」
伊吹は車へと向かう男の足に抱きつくが、あっさりと振りほどかれる。
伊吹には、しがみつくだけの腕力も、男の足取りを遮るだけの体重も無かった。
男が窓を殴り破ると、アイの泣き声が、わっと大きく膨らんだ。
直ぐに抱きつき、あやしてやりたいが、伊吹の身体は地に倒れたまま動かない。
「アイさん。違う。違うの」
髪や服が汚れることも厭わず必死に這うが、手足が震えて前に進めない。
男はドアを開け、アイの首根っこを掴んで乱暴に引きずりだした。
ライオンの着ぐるみが手足を振りまわすのを気にせず、肩に背負い、開いた方の手でスマートフォンを操作する。
「津久井さん。このうるさい泣き声は聞こえていますか。
ええ。吸血鬼を確保しました。
はい。殺していません。もちろん、心臓は動いていますよ」
男は完全に伊吹たちから興味を失い、振り返ることなく駐車場の出口へと歩いていく。
「待って。待ちなさい!」
男は歩いているんだから、立って走れば直ぐに追いつけるはずだ。
なのに、伊吹は立ち上がることさえできない。
意志とは裏腹に、急速に全身から力が抜けていく。
「やだ。やだ! 連れていかないで。
アイさんはアイーシャなのよ。私の娘なのよ」
アイの姿が遠ざかり、やがて、見えなくなった。
泣き声は未だ聞こえる。
「ママ、ママ」
必死に助けを求めている。
抱きしめてほしいと切実に訴えている。
嫌いにならないで、知らないなんて言わないでと懇願している。
不意に泣き声が途切れた。
男に口でも塞がれたのかと思うと、いてもたってもいられない。
だが、腕は震えるばかりで、上半身を起こすことさえできない。
藻掻いていると柚美がやってきて上半身を起こしてくれた。
このまま肩を借りて、アイを追いかけようとするが、柚美はしゃがみ込んだままだ。
「駄目だよ、伊吹ちゃん。駄目だよぅ。殺されちゃうよう」
柚美は立ち上がらせてはくれない。
上半身を支えてくれているだけだ。
腕を使えるようになったということは、手首の戒めは取れたらしい。
「柚美さん、立たせて。早くしないとアイさんが、アイさんが連れて行かれちゃう」
「もう行っちゃったよ。追いつけないよ。
もう良いじゃん。アイちゃんのことなんて、放っておこうよ。
最初から私達には関係ないよ。警察呼ぼうよ、警察!」
「薄情なこと言わないでよ。アイさんは私の娘なのよ」
「違うよ! アイちゃんはイレーヌって人の娘でしょ?
伊吹ちゃんは関係ない!
心臓がイレーヌって人のだなんて、勝手な想像だよ。
そんな偶然、あるわけないでしょ!」
「柚美さん離して!」
「伊吹ちゃんの心臓が本当にイレーヌって人の物だったとしても、
伊吹ちゃんがアイちゃんのママになったんじゃないでしょ!」
「離して!」
ひっぱたいてでも引きはがそうと、身をよじる。
だが、涙と鼻水でくしゃくしゃになっている柚美の顔を見た瞬間、
伊吹は息をのみ、振りあげかけた手の行き場所を失う。
暗がりの駐車場だから間近に来るまで気づかなかったが、
柚美の顔は泣いて赤らんでいるだけでなく、
目の周りや頬が痛々しく腫れていた。
「何それ……。まさか、さっきの男に……」
柚美は伊吹を抱き起こすときに右腕しか使わなかった。
そして今も、右腕だけで支えてくれている。
左腕は肩から脱力したように、不自然に垂れていた。
顔を濡らしているのは涙だけではない。
痛みを堪えて、脂汗にも塗れているようだ。
「貴方、あいつに何されたのよ!」
「私、アイちゃんのこと隠したよ。
伊吹ちゃんが来るまで、絶対に出てきちゃ駄目って言っておいたんだから」
「だからって、怪我をしてまで!」
「アイちゃんがいなくなったら、伊吹ちゃん悲しむでしょ。
だから、私、殴られても、知らないって言ったよ」
「柚美さん……」
「うっ……。ひぐっ……。追いかけちゃ駄目だよ……。
殴られると、凄く痛いんだよ。
面を打たれるのとは全然違うんだよ。
何倍も、何倍も痛いんだよ。
男の人が、怖い顔して殴ってくるんだよ。
凄く、凄く怖いんだよ……」
「でも、どうして、そんなっ……」
「私、関が襲ってきたとき、伊吹ちゃんのこと置いてひとりで逃げた」
「違うでしょ。貴方は関を追い払うために、包丁を取りに――」
「違う。違うよ。嫌われたくないから、そう言っただけだもん……。
私、ひとりで逃げたんだもん……。
だから、もう、裏切れないよ。伊吹ちゃんのこと、好きでいたいんだもん」
「貴方、自分の心配をしなさいよ」
伊吹はようやく柚美の流す涙の理由を知った。
柚美の体が嗚咽で振動するたびに、伊吹の瞳からも熱い感情が零れそうになる。
「やだよ。伊吹ちゃんが酷い目に遭うの、見たくないよ……」
我慢しようとしても、限界は波のように繰り返し押し寄せる。
伊吹は柚美の髪に顔を埋め、一筋、涙を流す。
弱気になりたくないから、一筋だけのつもりだった。
けど、一度堰を切ってしまった感情は、もう止めることができなかった。
柚美の友情を感じて泣き、同じくらい大事なアイのことを思うと、身体の奥底から熱い想いが溢れてくる。
柚美と友達で良かったと身にしみて零れた涙と、
アイがいなくなった悲しみで溢れる涙と、
二種類の涙がとめどなく混ざって流れる。
泣き声を聞かれたくないから伊吹は嗚咽を必死に堪え、
泣き顔を見られたくないから腕に力を込めて柚美を強く抱き寄せた。
どちらからともなく泣きやんだ頃、駐車場内に煙の臭いが漂ってきていることに気づく。
「ふたりとも平気?
火事が結構酷いみたい。さっきから放送も止まっちゃってるし」
絵理子はふたりの傍らで黙って待っていてくれたらしい。
差し出してくれたハンカチを、伊吹は視線を伏せて受け取る。
絵理子の前で泣いていたのが気恥ずかしいし、赤くなっているであろう目を見せたくない。
「車で外に行った方が良いかな……。
ふたりとも乗って。とりあえずここを出るわよ」
絵理子が首筋を押さえながら、おぼつかない足取りで運転席に乗り込む。
「絵理子さん、大丈夫? 運転できるの?」
「大丈夫。事故ったりしないから。
煙が入ってくるかも知れないけど、窓は開けておいて。
割れた状態だと目立っちゃうわ」
「雨が入るわ」
「あー……。我慢して。あと、はい。
リダイアルで繋がるから、関君と連絡とって」
男に殴られた首が痛むのか、柚美の怪我を気遣ったのか、車はゆっくりと走りだす。
駐車場を出て関と合流したとき、車内は彼が初めてやって来た時とは別種の重苦しい沈黙に包まれていた。
小さな身体のアイが居なくなっただけで随分と車内を広く感じる。
伊吹は柚美の怪我に障らない程度に身を寄せた。
柚美はかけがえのない友人だ。
けれど、
どれだけ体重を預けても、
頬から体温を受け取っても、
濡れた髪に手櫛を入れても、
半身を失ったような喪失感は埋まらなかった。




