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アイーシャなんて知らないわよ!


「柚美さん。走れる? 逃げるわよ」


「伊吹ちゃあん……」


 へなへなとくずおれた柚美の瞳には、めいっぱいの涙が溜まっている。


「泣かなくても良いじゃない。私が貴方を置いていくはずないでしょ」


「けど、わたし、わたし、さっき」


 柚美の両手首は、身体の前で水のような紐に縛られていた。


「へたりこんでないで。逃げるんだから立ちなさいよ」


 伊吹は柚美を拘束している輪っかが引きちぎれるか試してみたが、水風船のような弾力で伸びるばかりだった。


「無理。後で関に頼むわ。我慢して」


「無理。無理、無理。ちぎれるほど痛かった」


 伊吹は柚美の無事を確認したので、絵理子の様子を窺う。

 たとえ足手まといになろうとも加勢するつもりだったが、踏み出そうとした足を止めてしまう。

 非常事態であることを忘れ、目の前の光景に見ほれた。

 そこにあったのは、武道を習った者として理想にしたい姿。


 男は矢のように跳び一歩で車の全長ほどの距離を無にする。

 関と同様に人間の限界を超えた凄まじい身体能力だ。

 絵理子は靴幅ほど横にずれるだけで男の攻撃をいなした。

 目が霞むほどの速度を、読み切り、捌いたのだ。


 非常識な身体能力の素人と、常識的な身体能力しかない達人との闘い。

 男は身体能力をもてあましているようだ。

 絵理子に避けられた後は、自ら踏み込んだ勢いを殺せず、数メートル先まで滑り去っている。

 いくら攻撃が鋭くても、次への繋がりが遅く、単発の技になっている。


 男は柱や車両の無い方向にしか突進できないのだから、絵理子が見きるのは容易いだろう。

 連続再生のように同じような攻防が何度も繰り返される。

 事態は降着したままだろうと思った矢先に、傍目で見ている伊吹だから気づいた。

 偶然なのか、最初から男が誘導していたのか、絵理子が移動した足下に水たまりがある。


「足下!」


 ただの水たまりではなかったのだろう。

 油にでも滑ったかのように絵理子がバランスを崩す。

 それでも無理な姿勢から男の追撃を避けた絵理子の体捌きは驚嘆に値する。

 が、男は絵理子の背後、駐車場の柱に横向きで着地、三角飛びの要領で方向転換。

 男は、死角からの攻撃を庇おうとした絵理子の腕ごと後頭部を殴りつけた。

 駐車スペース四台分は離れている伊吹の下まで聞こえるほどの鈍い音を残して絵理子が倒れる。


「絵理子さっ、ぐっ!」


 絵理子の元に掛けよろうと、最短距離を走りだした伊吹が浅はかだった。

 一瞬で距離を詰めた男の膝が、伊吹の腹にめり込んでいる。

 後方に倒れ、全ての内蔵を吐き出しそうになるほどの痛みに、悶え苦しむ。

 絵理子だから渡り合えていたのであって、伊吹には男の動きを見きることは出来ても、避けるだけの瞬発力はなかった。


「今のが合気道ってやつですか。

 テレビで爺さんが複数のボクサーを手玉に取っているのを見たんだけど、

 ん~。あれは、やらせじゃなかったのか。

 凄いですね。おかげさまで勉強になりましたよ」


「くっ……。直ぐに人が来るわ」


「負け惜しみにしても強がりにしても、もう少し考えたらどうですか。

 いくら何でも、さっきからひとりも来ないのを不審に思わないのですか」


 確かに、立体駐車場なら屋根があるから雨天でも利用者は多いはずだ。

 退店する者だっているはずなのに、さっきから誰も見かけない。

 周囲に注意を配ると、今更ながら非常ベルと緊急放送が聞こえてきた。


『ご来店のお客様。

 ただいま屋上駐車場と一階食料品売り場にて火災が発生しています。

 係員の誘導に従い、至急、避難してください。

 繰り返します』

 

 伊吹は目の前の状況に集中するあまり、警報が聞こえなくなっていたのだ。


「蛇野郎を蒲焼きにして喰ってやるというのが、桧山の口癖ですからね。

 アイーシャを連れだすことすら忘れて、派手に暴れているのでしょう」


「無関係な人を……」


 喋るだけでも腹が痛み、立ち上がるのは到底無理だった。


「さあ、アイーシャを連れてきてください」


「アイーシャって何のこと?」


「とぼけないでください。お前が連れ去った、外国人の子供ですよ」


「そんな子、知らないわ。私たちは三人で買い物に来たのよ」


 横腹を蹴り飛ばされて身体が回転したが、沸き上がった怒りにより、痛みは直ぐに消えた。

 男が直ぐ傍らに来て見下ろしてくる。


「アイーシャを渡せ。僕は暴力は嫌いだが、振るうときは容赦しない」


「アイーシャなんて知らない!」


「腕の一本でもへし折ってやろうか?」


「止めなさい!」


 絵理子が上体を起こしていた。

 意識はあるようだが、身体は思うようにならないようだ。


「お、意識があるのですか。ん~。良いですね」


 優男はニタリと下品な笑みを浮かべると、伊吹から興味を無くし、絵理子の下へと向かう。


「津久井さんが来るか、桧山の戦闘が決着するか。

 それまで遊んでもらいましょうか」


 男が傍らにしゃがみ込み、下卑た笑みを浮かべながら身体に触れたというのに、絵理子は殆ど抵抗も出来ないようだ。


「止めて! 絵理子さんから離れて」


「ならアイーシャを連れてこい」


「だから、そんな子、知らないと言っているわ」


「お前たちが一緒に行動していたのは見ている。何処に居る」


「もし知っていたら、差し出しているわよ。アイーシャなんて知らないわよ!」


 もちろん伊吹は、男の注意を逸らすために叫んだだけだ。


「伊吹ちゃん! 駄目!」


 伊吹が柚美の悲痛な声音にただならぬものを感じて振り返る途中。

 絵理子の車の窓が視界に入った。

 そして、窓に両手をついて泣く小さな女の子が見えた瞬間、視線と身体が硬直した。


「え?」


 さっきまで誰もいなかったはずだ。

 柚美は知らないと言っていたし、男だって車の中くらいは確認しただろうに。


 いるはずがないのに。

 

 首筋を冷たい物が流れ落ちていく。

 小柄なアイだから、後部座席の後ろの透き間にでも潜り込んでいたのだろうか。

 足場に丸まって、着替えて脱いだ服でもかぶって隠れていたのだろうか。


 いや、何処にいたかなんて、どうでも良い。


 何でアイは泣いているのだろうか。

 何故、姿を現してしまったのか。


 三歳児でも、隠れなければならないということくらいは理解できていただろう。

 おそらく柚美が隠れるように指示して、ひとりで寂しい思いをしながら震えていたはずだ。


 なのに。

 なぜ、アイは姿を現してしまったのか。


「アイ……さん?」


 アイにとって、身の危険よりも重大で、窓から外の様子を窺わなければならないほどのことが起きたのだ。

 考えるまでもなく、最悪な答えだ。

 今、伊吹は「アイーシャなんて知らない」と叫んでしまった。

 居ないと思っていたんだから、アイが聞いたらどんな誤解をするかなんて、考えてもいなかった。


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