#07 教室に籠る感情
机が冷血みを帯び、ノートが空白を擦り付け、背中達が悪魔を思い出させ、一番遠くで女教師に取りつくスーツの赤が情熱を送り込んでくる。
左隣の男子が勉強と向き合わず、私という良からぬ方向へ視線をぶつけているのが視界の左隅でギリギリ確認できる。
年齢と高低差があるベテラン教師の声も、心を擽ろうとする最前列の声も、正面と背中を半々で見せてくる目の前の可愛い声も、私の耳の中では拠り所を見付けることが出来ていない。
「菜穂さん、今日はボーッとし過ぎですよ」
「そうかな?」
「はい、何か悩み事でもあるんですか?」
「あるはあるけど、小さい悩みだからね」
「勉強ですか?友達関係ですか?恋ですか?」
「色んなことが複雑に絡み合っている感じかな。もう前を向いた方がいいよ」
「大丈夫ですよ。内容は脳が把握しているので」
「田中さん、後ろ向かない!喋りすぎ!じゃあこの問題を前に出て解いてみて」
「先生、わかりました」
「…………おお、すごい。田中さん完璧!」
「…………それで、菜穂さん?聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
「それ聞いたら、もう後ろ向かないでよ」
「はい。あの、昔、カラオケの大会で優勝したというのは本当でしょうか?」
「うん、本当だよ。でも、少し前に歌う時だけ声が出なくなる症状が出ちゃって、それから歌ってないんだ」
「そうでしたか。答えていただきありがとうございます。菜穂さん、元気出してくださいね」
「ありがとう」
「では、数学の授業に集中したいと思います」
初めてあなたと話した病室で、一瞬だけ嗅いだ恋が詰まったあの苺の香りを、苺が乗り移った消しゴムの甘酸っぱい香りで思い出すことで、あの日を思い出そうとしていた。
右側の机で俯せている女子の先の、透明度を奪い取られて奥の見えない窓ガラスの先の、廊下の先の先にいるあなたの姿を想像する。
右側の美女が顔を起こし、髪の間から不気味に覗く瞳と私の瞳は重なり、あなたの足下にも及ばないくらいの突発的な挙動を果たす。
同じ学校という場で、あなたと同じ方向を向き勉強をする日は、あなたの治癒力のお陰で次の年を待つことなくやって来たが、次までが長い。
頻繁に斜め上の時計目掛けて顔を動かし、成り行きで正面の黒板目掛けて顔を移動し、流れで下を向くことの繰り返しで、走り出したい気持ちを抑えながら足をバタバタと動かしていた。
発する暖房の熱に体温が追い付こうとし、あなたが右往左往し過ぎて起きた摩擦は心を熱くし、いつも以上に働く足と手は赤に染まった。
次第に明るくなってゆく左側の窓から射し込む光や、教師の目の前のお調子者が髪を結んでいるゴムのような明るさは、あなたも私も携えていないがそれでいい。
私の目の前のポニーテールは、約束を無視して、似合っていない真ん丸に限りなく近い厚い縁の眼鏡を私が目で捉えられる状態にまで身体をずらす。
ひっくり返らせたくない運命を心で握りしめ、私の方を向き続けて全く前を向く気配のないクラスメートの肩を目一杯に伸ばした両手で、ふんわりとひっくり返す。
症状が完治し、歌いたくて輝きたくてムズムズしている喉は、身体の変化を司るほど権力の強い、あなたへの恋に嬉しそうに宥められている。
心は無沙汰だったあなたを、そして口の中は購買のたまごサンドを受け入れる体制をすでに整えており、唾液は常に構え続けている。
制服の襟の平坦さ、全体のバランス、ボタンの正当性、スカートの黒み、糸くずの有無などをこの目で確認し、背景である床の規則性に視線を取られる。
教師の光のない声と養分のない内容に、萎れる生徒が現れるなかで、頭の先をピンと天に真っ直ぐ向け続けている目の前のポニーテールがたくましく見えた。
私の肌よりもつるりとした肌で手を埋め尽くす財布から、側面がざらざらとした二枚の硬貨を取り出し握り締めると、指のひらと手のひらの皮膚熱はすぐに下がってゆく。
久方ぶりに母がお弁当を作る音色を聞けない日と、久方ぶりにあなたの途切れ途切れの喋り声を聞ける日に、残り僅かな常套のチャイムが鳴り響く。
チャイムが鳴り終わり、購買と教室の真っ只中で早歩きをしている私は、鼻で食欲をそそる香りを探ったが、食の嗅覚が犬よりも鋭い私でも無理なものもある。
気持ちは私と購買を追い抜いてあなたと萌那が待つ教室へと走り抜けていき、動き続けた頬の筋肉の痛みもそっと走り抜けていった。