#05 物足りないもの、度が過ぎるもの
自然の光が微かに降り注ぐ歩き慣れ始めた廊下は、進むにつれて光の比率が減少の一途を辿り、今はどんよりした道が私を掴もうとしているが、帰りの廊下では暴れるほどの光を見たい。
見慣れた顔や見慣れた髪や見慣れた上着や見慣れた鞄や見慣れた短いスカート丈と擦れ違いながら、ほぼ全てを見慣れている萌那の見慣れない無口がないことを願い、強くゆっくりと近づく。
教室から漏れる楽しそうな笑い声の中に、笑い声の一部として萌那が存在感を放っているのならば、この重苦しい耳が解き放たれる時刻はすぐにやって来る。
「菜穂、ごきげんよう!」
「全然返信ないから心配したよ。萌那が元気で安心した」
「菜穂が心配に向かって突き進んでいて先輩に興味ないことも知ってるし、私も突き進むの止めないからね。好きな人の好きなタイプがたまたま親友だっただけだもん気にしないよ」
「そうか。あのね、私、もうサッカーは見に行かないよ」
「先輩に会いたくないから?それとも、アイツが怪我したから?」
「えっ?怪我って何?」
「昨日の帰りに、車のクラクションに驚いて転んで足を骨折しちゃったみたいだよ」
「何で教えてくれなかったの?」
「落ち込み回復中は外部との連絡を遮断してるからね。あっ、安心して。骨折は菜穂のせいじゃないし、大したことないみたいだからさ」
「うん。良かった」
「お見舞い行く?場所はアイツの友達に聞いておくから」
「うん。行く」
「教室に入った時からずっとキョロキョロしてアイツ探してたでしょ?好きに限りなく近い心配ってヤツでしょ?」
「どうだろう。ねえ萌那?私、お見舞いに行っても何していいか分からないよ」
「心臓に負担を掛けないように優しく接して、これ以上怪我しないように注意をすれば少しは積極的に話しかけても大丈夫だと思うよ」
「うん。ちょっとずつ距離を縮めてみるよ」
「私を利用してアイツと仲良くなっていいから、先輩に恋されてる菜穂のこと利用していい?」
「先輩は少し怖いけどいいよ」
「これから、恋はランチに持ち込んでもいいけど、心配はランチに持ち込まないこと」
「分かった。とりあえずお弁当食べようか」
優しい香りも食欲をそそる香りも癒される香りも、教室を構成している香りの全ては、開けてすぐの箱から飛び出した沢庵の強烈な香りに、即座に司られてゆく。
ウインナー、唐揚げ、卵焼きなどの地味な集まりの中央で、華やかさを演出している今箸で持ち上げた梅干しが萌那で、私はその周りに1000以上あるお米のうちの梅干し色に染まった一粒だ。
萌那の瞳はしっかりと自立していて、キュートの中にある滑らかな凛々しさで、口も手も箸も、いつもより早いペースで進んでいた。
お見舞いで渡すもの、怪我の状況、会った時に話す内容たちは、どんな滑稽な噺でも、親友とのどんな友情であっても頭から退けることは難しい。
萌那から送られてきた俯く鮮明なあなたをスマートフォンから探す両手は、程よく優しい力が入り、親指を動かしている間、他の機能が働きを弱めてしまっていた。
沈黙していた空腹が残り時間の少なさと一緒に私に急に訴えかけてきて、無闇に口に放り込んだお米が、呼吸を制限して喉が悲鳴をあげる。
いつものように倒れることも、床を擦ることも、一切動くこともないあなたの寂しさ漂う机と椅子にしっかりとさよならを告げ、忙しく過ぎる帰りの廊下で、揺れ動く視界に入り込む惰性を受け流してゆく。
戻ってきた教室は、目に焼き付いている顔ばかりのはずなのに、私を必要としているような雰囲気を放つことのないその顔には、あなたや萌那を見つめている時のような目の喜びを僅かしか感じなかった。
全ての授業から解放され、あなたへと向かう順路の上には、腕を組み、脚をクロスさせ、自尊心を持った顔に暗めのブラウンの長髪をした先輩が立ちはだかった。
出所がおおよそ分かるような汗があらゆる箇所から顔を出し、胸に不安が絡み付き、焦りもへばり付き、胸はザワザワ感でいっぱいになった。
口一面に乾いた味が充満し、水分の不足を訴える口内に、僅かばかりの酸っぱみが流出すると、正常さは微塵も感じなくなっていった。
立ちはだかる壁の後ろには広大無辺な空間と身動きを制限されていない笑顔の制服達がいて、廊下の窓からは見えるはずのないあなたをコンクリートと建物に支配された景色から探す。
目が初めて捉えた先輩の制服姿は、あなたの安らぎ和らぐ制服と同じ型、色、生地をしているが、黒は先輩色に染まり威圧感が漂っていた。
繋がりを解き、去ろうとする左手はゴツゴツとした右手に掴まれ、手首には緩やかな圧迫が取り囲み、なだらかな痛みと痺れと低い熱が走り抜ける。
投げ掛けられた甘い呟きに、私の声は存在感を無くし、ちらほらとした歓声と脈々とした悲鳴が渦巻き、自由は捕らわれ、逃げる足音も出せない。
野放図に抱き付かれ、萌那が感じたかったであろう先輩の男のにおいは、半強制的に鼻を通り抜け、最小限に抑えようとしたものの先輩を感じざるを得なかった。
何も行動の出来ない私は、硬直に陥り、ここに来るかもしれない萌那を歓迎と拒絶が入り乱れた心で待っていた。