第四章 吸血鬼はうるう年に生まれる 10.吸血鬼のアイデンティティー
冷蔵庫を開けた途端、愕然した。
どうしてこんなに血液が……。
冷蔵庫のライトに照らされた赤い光が、顔一面を染めるくらい大量の血液バッグが入っている。そして “さぁ、飲んでくれ! ”と言わんばかりに目線の先に試験管が横たわっていた。瑠諏のイメージでは冷蔵庫には血液バッグがひとつだけ残っているはずで、試験管はもとからあったような、なかったような気もするし、記憶が曖昧だ。
奇妙な感覚が脳を刺激する。警察に捜査協力した報酬として受け取り、毎回冷蔵庫の扉を開けるたびにショックを浴びる……というデジャブのような感覚。
どうして今日にかぎって?
傍に宮路由貴がいるからだろうか?
彼女を非難しておきながら自分も同じことをしていた負い目が、記憶を取り戻すきっかけとなったのかもしれない。
「どうしたの?」
それまで拗ねていた由貴が、瑠諏の不審な行動を目にして近づいてくる。
冷蔵庫の扉を閉めるのは気が引けた。厳しくとがめられることを瑠諏は覚悟した。
「わぁ、すごい!」
由貴は整然と並ぶ血液バッグを見てテンションを上げ、瑠諏の予想とは違う反応をみせた。
瑠諏は赤く染まった試験管を取ると、冷蔵庫の前から離れた。
「ねぇ~ひとつもらっていぃ?」
由貴が猫なで声でおねだりしてくる。彼女の頭の中は血を飲みたいという欲求だけで、どうやって集めたのかは問題視していない様子。
瑠諏は試験管を見詰めた。すると、篠田レミの顔が浮かんできた。
「この血は私が生まれた当時に採取したもので、舐めれば生みの親がわかるかもしれないんです」
自然と言葉が出てきた。自分の数少ない記憶が一気に湧いてきた感じがした。
「そうなの」
由貴が生返事でかえす。
「あなたの言ったことが正しければ、連邦捜査官を殺してないということを信じましょう」
「やっぱり私の血を吸うと頭がパニックになるの?」
由貴の質問に瑠諏は鼻で笑って答えると、試験管をカウンターの角で叩き、ガラス片を払ってから、アイス状に固まった赤い棒の一部を口に運ぼうとしたところで動きをとめた。
「意識が飛んでいる間、襲わないでくださいね」
瑠諏がわざと睨むような芝居をして注意を促す。
「自信ないわ」
由貴は悪戯っぽく微笑む。
「飲みたければいくつでもどうぞ」
やっとおねだりの要求に答えてくれたことに感謝して、由貴は瑠諏の腕にしがみついた。 赤いアイスは瑠諏の舌の上でゆっくり融けていった。
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瑠諏の顔はすぐに歪んだ。
薄気味悪い下水道のセットはリアリティーを追及して着色した水が流れ、舞台の床を水浸しにしていた。そして、舞台には得体の知れない怪物が一匹と女がひとり。女は瑠諏が面倒を見てもらっていた頃より若い篠田レミに間違いなかった。怪物は透明な粘性の液体で保護された卵を口から吐き出した。卵の殻が隆起して凸凹を作り、まるで自ら呼吸しているかのような動き繰り返す。殻が割れ、中から「ひっく、ひっく」と息を細かく吸い込む泣き声が聞こえる。
篠田レミは殻を剥がし、赤ん坊を愛しそうに抱き上げてあやす。
由貴の言ったことは本当だった。
舞台に見切りをつけた瑠諏は目を閉じることにした。
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瑠諏が覚醒すると見知らぬ二人組の男たちが、由貴を抱えて棲家から出ていこうとするところだった。
「とまれ!」
瑠諏が張りつめた声で呼び止める。
背の低い男が「チッ」と舌打ちして、ガッチリとした体格の男は由貴を肩に担いでいた。 血液バッグからもれた血が床一面に広がり、由貴が抵抗した形跡が見られる。
「不法侵入は許してあげますから、その人は置いていっていください」
「この女をかばう理由がおまえにあるのか?」
背の低い男が振り向く。丸顔の中年オヤジだ。
「一応お客さんなので勝手に連れ出されるのは困ります」
「おれには関係ない」
「連邦捜査官ですか?」
由貴が執拗に追う相手は他に思い当たらない。
「ああ、そうだ。バッジを見せようか?」
背の低い男だけが積極的に絡んでくる。
「結構です」
「おれを……覚えているはずないか」
「ニワトリみたく忘れっぽいんです」
「クックックッ……」
瑠諏の自虐的なジョークは、男の卑猥な笑いを引き起こす。
「そんなに面白かったですか?」
「そのジョークを聞くのは二度目だ」
相手の男は瑠諏が記憶障害だということを知っている。しかも最近会ったらしい。
「宮路由貴を返すつもりはないんですか?」
「おいおい、まさか警察のアドバイザーごときが、連邦捜査官に喧嘩を売るんじゃないだろうな」
「彼女を納得させて警察に自首させるつもりですので、邪魔しないでください」
「無理な相談だ」と言って男は後ろを向いてしまった。
「待て!話はまだ終ってない」
瑠諏は目を赤く染め、乱杭歯をむき出して戦闘態勢に入る。
「おれに二度も歯向かうのか?それなりの覚悟はできてるんだろうな?」
クルリと振り向いた男は片方の眉毛をピクピクッと不快げに動かす。
「もちろん」
瑠諏は即座に返事して余裕をみせた。しかし、心の中はまったく違った。さっき試験の血を飲んで舞台を見ていた時間はほんの僅かのはず。その間に、吸血鬼の宮路由貴を打ちのめしてしまったということはかなりのやり手。
ガッチリとした体格の男が一人でやったのだろうか?
それとも二人で?
瑠瑠が警戒心を張ると、小さいほうの男がささやこうとすると、頭ひとつ大きい男が膝を折って耳の位置を下げる。これで力関係がはっきりした。
「いいことを教えてやろう。おれとおまえは親から生まれた純粋な吸血鬼だ。よって血を舐めると舞台を見る特殊能力を持っている。この女は吸血鬼に血を吸われた準吸血鬼ということになる。そんな準吸血鬼が犯罪をすれば、吸血鬼の品位を下げるだけだ。だから用無しなんだ」
背の低い男が得意気に話す。
「なんでも区別したがるのは嫌いです。あっ、それから吸血鬼の親が宇宙から来た化け物だということはさっきわかりました」
瑠諏は目の前にいる男が吸血鬼だという驚きを表情に出さなかった。少しでも隙を見せればやられそうな気がした。
「それはよかった」
「私たちを生んだその化け物は卵から生まれたんですか、それとも……」
「卵が先かどうかの答えを知りたけりゃ宇宙進化学の勉強でもするんだな。おれの怖さを忘れてるな。前回はジョン・ドゥという名前で会ったぞ」
「ジョン・ドゥ?そうでした?」
瑠諏は首をひねるがなにも思い出せなかった。
「おれに咬むことができたら、特別に初対面のときの様子を舞台で見せてやろうか」
「便利な能力をお持ちでうらやましいです」
「馬鹿にしてんのか」
二人が会話している間、部下と思しき屈強な男は由貴を肩から下ろして床に寝せると、腰から自分のベルトを外した。オフホワイトの固形チーズのようなモノが数個取り付けられている。
「かかってきなさい」
ジョン・ドゥと自ら称す男が、挑発的な態度で瑠諏の視線を逸らせる。屈強な男はチーズのようなモノが付けられているベルトを由貴の体に巻く。
まさか、プラスチック爆弾?!
「集中しろ!」
ジョン・ドゥの声が耳に入ったとき、蹴りが瑠諏の腹に深くめり込んだ。
「ぐふっ……」
瑠諏の口から血が飛び散る。内臓のどこかがイカれた。
「血を飲み込むなよ。仮死状態で舞台を見ているおまえをいたぶるほど、おれはサディストじゃないぜ」
床に倒れそうになる瑠諏へ容赦なく膝頭を突き上げて顎に命中させる。宙に浮いた瑠諏の体は床に不自然にバウンドした。
「おれに傷ひとつつけることもできんのか」
ジョン・ドゥは憮然として見下ろす。
床に寝そべる瑠諏の視界に入ったのは、由貴に巻かれているプラスチック爆弾に釘のようなものが挿されていくところ。
雷管……。
「おまえはいままでどおり失っていく記憶のことなんか気にせず、おれたちの道具として働け」
ジョン・ドゥの辛辣な言葉を無視して、瑠諏は由貴のところまで這ってプラスチック爆弾が仕込まれたベルトに手を伸ばす。
屈強な男が瑠諏と由貴の間に立った。
「準備ができたらあとはおれに任せろ」
ジョン・ドゥの指示が飛ぶと屈強な男が一礼して棲家から出ていった。
「その女は死ぬ運命だ」
プラスチック爆弾に触れた途端、瑠諏の指がジョン・ドゥの足に踏まれた。ゴキュと指の骨が折れる音がしたが、せめてものプライドとして悲鳴を上がるのを我慢した。
「新しい第二種招待施設を見つけたと思ったが、すぐに爆破しないといけないとはもったいな……?!」
瑠諏がガブッと足首に咬みつき、ジョン・ドゥの勝ち誇った台詞は途中で遮られた。
「まだ体力は余ってたみたいだな」
「知らないと思いますが、私は味覚がすぐれているのか、血の味であなたのことを思い出すことができました」
ジョン・ドゥの歪む顔を見上げて、瑠諏は満足気に頬の筋肉を緩めた。
「それはよかった。しかし、君は無駄に不利な状況を作っただけだ。舞台上のおれは無敵だ」
「それは知らなかった」
「ご希望どおり舞台へ連れていってやる」
瑠諏はジョン・ドゥのいざなう舞台へ招待された。
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前回ジョン・ドゥと闘ってさんざんやられた場面をYTRのように、嫌味なほど繰り返し観せられた。しかもかなりの早送りのスピードなので、台詞は聞き取れない。
「目が回りそうです」
客席から瑠諏が訴える。
「これで力の差は確認できたかな」
舞台の上の椅子に座っているジョン・ドゥは、ふんぞり返って余裕しゃくしゃく。後方では偽者の瑠諏と偽者のジョン・ドゥが飽きもせずに演技を続けている。きびきびとした動きでキュルキュルとテープが空回りする音が二人の口から発せられている。
「いまからそっちにいきます」
瑠諏が座席から立ち上がった。
「そんなに焦らなくてもいいだろ」
「いつ起爆スイッチを押されるかわかりませんからね」
瑠諏は舞台の縁に手をついてジャンプする。
「身軽だな」
「体力がリセットされました」
「それが舞台へ誘った狙いか」
ジョン・ドゥも椅子から腰を浮かせる。
「見破られたみたいですね」
「馬鹿な奴だ」
偽者の瑠諏と偽者のジョン・ドゥがニタッと歯を見せて、怪しげな視線を本物の瑠諏に投げかけた。テレビ放送終了後の砂嵐を思わせる灰色と、虫のように蠢く白黒の点が描かれた大きな生地が落ちてきて、抵抗なく舞台の上に舞い下りた。消えたと思われた偽者の二人組は瞬間移動して、本物の瑠諏を後ろから羽交い絞めにした。
「天使のときと同じ手ですね」
瑠諏は天使たちによって身動きできずにやられた場面を引き合いに出して、攻撃がワンパターンだと皮肉ってみせた。
「引っ掛かったほうがもっと頭が悪い」
ジョン・ドゥは自尊心を傷つけられたのか、表情を失った笑いを見せながら瑠諏に近づいた。
「頭が悪い?……たしかにそうかもしれませんね。私も単純な方法しか思いつかなかった」
「なんのことだ?」
片目だけを虫メガネで覗くみたいに広げてジョン・ドゥが睨む。と、その刹那。
「うっ……ぐわゎゎゎゎゎ~」
ジョン・ドゥが胸のあたりをかきむしって苦しみはじめた。
「な、なにを……した?」
「別に。ただ、あなたの血を吸い続けているだけですけど」
瑠諏は冷め切った声で答える。
ジョン・ドゥは思考回路を現実世界へと切り替えた。
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「き、きさま!」
足首にかぶりつく瑠諏の頭をジョン・ドゥは何度も何度も蹴った。ジョン・ドゥの下肢静脈からとめどなく何本もの筋となった血の川が、瑠諏の唇の端から、乱杭歯の先から流れる。ゴク、ゴクッと喉を鳴らして血を飲んでいく。
頭を蹴っていた力が次第に衰えたジョン・ドゥが崩れ落ちた。顔が真っ青に変色し、皮ふがカサカサになって皺だらけになる。首筋には極細の血管が浮き上がり、体が一回りも二回りも小さくなって顔は干し柿のようにやつれた。
「ほとんどの血を吸うことができました。残るは惰性の生命力だけでしょう。あなたはもう終わりです」
瑠諏は立ち上がってジョン・ドゥを見下ろす。
「お、おまばぁ、ば、馬鹿がぁ」
ジョン・ドゥが掠れ声で言う。
「どんな舞台をどれだけの時間見ることになるのか検討もつきませんが、あなたに殺されるよりマシです」
瑠諏は微笑んだが、“楽観”などという言葉は表情のどこにも見当たらなかった。
「おれの……おれの血でもう二度と舞台は見せない。思考回路を完全にブロックしたぞ。現実を受け入れるがいぃ~」
ジョン・ドゥが最後の力を振り絞るように声を出す。
舞台を見せない?
なぜ、そんな真似をするのかわからない。再び舞台へ引き返せば体力が戻り、叩きのめして現実世界の自分にダメージを与え、血を吸うのをやめさせることだってジョン・ドゥには可能なはず。それをあえてしないというのは理解不能だ。瑠諏はふに落ちないまま由貴を抱きかかえた。すると、由貴が眠そうな顔でおぼろげに目を開ける。
「やぁ」
瑠諏はなぜかこぼれそうになる笑顔を隠すために声をかけた。
「きゃー」
由貴は絶叫して瑠諏の顔を両手で突く。離してくれという拒否行動を解除するには由貴を手放すしかなかった。
「自分の顔をよく見ろ」
変わり果てたジョン・ドゥが笑いながら言った。栄養を失った茶色い歯がポトリと一本落ちた。
「まさか?!」
瑠諏は入口の横にかけてある鏡で自分の顔を見た。映ったのは脂ぎった中年男。ジョン・ドゥ……だ。
過去のジョン・ドゥの台詞が脳を叩く。 “おれは人間でも吸血鬼でも大量の血を吸うと、その体を手に入れることができる ”
瑠諏は理解した。自分も親から生まれた純粋な吸血鬼ならば、相手の血を余分に吸うと体が乗り移る能力があることを……。
鏡越しに本物のジョン・ドゥを見ると手に赤いランプが光るマッチ箱程度のリモコンを握っていた。
起爆装置?!
「吸血鬼は自殺できないぞ!」
ジョン・ドゥ顔の瑠諏は大声を張り上げて、骨と皮だけになったジョン・ドゥに吸血鬼としての本能を喚起した。
すると、本物のジョン・ドゥが由貴に向かってとんでもない言葉を口走った。
「ア、アイ……シ……テル」
しかも、瑠諏の声色を使って。
由貴は以前の原型をとどめていない本物のジョン・ドゥと鏡の前に立つ偽者のジョン・ドゥを見比べ、そして、本物のジョン・ドゥの手を握った。
“愛してる ”の言葉の魔力は由貴の心を完全に奪った。
「魂は、お、おまえに……あ、あずけた……だから、じ……自殺、じゃない……ぞ」
本物のジョン・ドゥはジョン・ドゥ顔の瑠諏へ死の伝言を残した。
その台詞を聞いたとき、由貴は手を握っているのは本物の瑠諏じゃないと悟った。
カチッというスィッチを押す音がかすかに聞こえた。
強烈な爆発音と爆風が周囲を包んだ。