第四章 吸血鬼はうるう年に生まれる 8.卵が先?
タクシーから降りた瑠諏は、自分の左腕の裏側をもう一度確認した。わずかに見える “シケンカン”という文字。気づいたのはタクシーの運転手に棲家の住所を告げたとき、左手首のペイントの上から、カタカナの文字が前腕に刻まれてミミズ腫れになっていた。
自分でやったのだろうか?
単純に考えると “シケンカン ”は “試験管 ”のことを示しているのだろうか?
瑠諏の悩みは違う悩みが発生したことによりいったん消えた。薄暗い階段が地下へと伸びる自分の棲家の前で、見慣れぬ影を見た瑠諏は立ち尽くすしかなかった。入口のドア付近まで光が届いておらず、黒い影の正体がわからない。
瑠諏は事件現場から帰ってきたばかり。Dead leadves地区LJ通り五十三番地。村田自動車修理工場には男らしき焼死体があった。らしきというのは焼け縮んだFBIの写真付き証明証が見つかったからだ。
サトウは半分が茶褐色になった写真、焼け残りの黒いスーツの生地に見覚えがあり、由貴を連れ去った連中の一人に違いないと言っていた。
炭化して真っ黒コゲの死体からDNAを採取することは不可能。
サトウから許可をもらい瑠諏はふ菓子のようにカスカスになった骨を舐めてみたが舞台を見ることはできなかった。
「すいません」
「いいんだ。だいぶ疲れているようだな。家で休んだほうがいい」
瑠諏が意気消沈する姿を見てサトウは優しく諭した。
現場には時間にして十分もいなかったかもしれない。
タクシーの中でミミズ腫れの文字に悩まされ、家の前ではドアをふさぐように誰かが立っている。今日は悩みの種が増える一方だ。瑠諏は見詰め合っている時間が長く感じはじめ、相手は声をかけられるのを待っている。
「誰ですか?」
瑠諏が警戒しながら尋ねる。
「もう忘れたの?」
聞き返してきた声は女性のもの。頭に浮かぶのは篠田レミの姿。しかし、彼女が生きていれば四十代。声はかなり若い。
意識的なのか声の主は階段を二段上って影を払い、姿を現した。真っ白い肌と黒髪が印象的な若い女。
「宮路由貴?!」
瑠諏の口からその名前が出てきたのは、ぼんやりとした宮路由貴の記憶が事件現場でサトウと会話して、ある程度回復できていたからだ。かみ合わないながらも、昨日の宮路由貴との出来事を話しているうちに思い出した。
「覚えていてくれたんだ」
宮路由貴の顔がパッと明るくなる。
「仕返しにでもきたのかな?」
瑠諏は見てきたばかりの事件現場のことを頭に浮かべて訊いた。サトウは個人的見解と言いながら、連邦捜査官が宮路由貴を連行中になんらかのトラブルに巻き込まれたことから、残りの捜査官の安否も気にかけていた。
「違うわよ!ねぇ、しばらく匿ってくれない?」
由貴は憤慨したあと、急速に表情を変えて悲壮感を滲ませる。
「無理な相談です」
「ねぇ、お願い。私、ひどい目に遭わされたんだから」
「自業自得ですね」
瑠諏は冷ややかな視線を送る。
「警察に突き出すつもり?」
「そのとおり」
「警察は無力よ。どうせまた連邦捜査官に連れていかれるわ」
由貴は眉毛を下げ、いまにも泣きそうな顔になる。
「警察を呼びますから、それまで待ってください」
「嫌よ」
「それなら警察署まで付き添ってあげますよ」
「それも嫌」
由貴が子供のように駄々をこねるので、瑠諏はお手上げとばかりにため息をもらす。実力行使という言葉が脳裏をかすめると、由貴が思わぬことを言い出した。
「ねぇ、あなた親を知らないんでしょ?」
「どうして、そのことを……」
瑠諏は最後まで言葉がうまく出てこなかった。親を知らない……そんな個人的なことを知っているのは篠田レミくらいだ。
「家に入れてくれたら親が誰か教えてあげる」
由貴が取引を持ちかけてきた。
瑠諏はしばらく顎に手を当てて考え込む。
「吸血鬼なら誰もが知っていることなのよ」
由貴が棲家を訪れたタイミングとミミズ腫れの文字とは関連性があるような気がする。
「わかりました」
瑠諏はとりあえず由貴を棲家へ入れることにした。
「商売してるの?まさかね」
由貴が元カフェの店内を見回して自問自答する。
「私のことより、親について話してもらいましょうか」
「せっかちね」
由貴は唇を尖らせてスツールに腰を下ろし、瑠諏は腕組みをして聞く体勢をとった。
「三十年くらい前に小さな隕石が落ちてきたの。それを偶然拾った女の子が隕石を触っていると岩盤が剥がれて中から茶色い卵が姿を現したのよ。こっそり家に持ち帰ると卵からちっちゃい恐竜のような生き物が生まれて、女の子は秘密の地下トンネルでそれを育てたの」
「まさかその恐竜のような生き物が、吸血鬼の親だって言いたいんですか?」
「そうよ」
瑠諏は“馬鹿馬鹿しい“と思ったが、口に出すのは思いとどまった。
「本当の話よ。その生き物はうるう年の四年ごとに二個ずつ卵を産み落としたらしいわ」
由貴は瑠諏の目に浮かぶ不信の色を振り払うべく、説明を加える。
「具体的な数字を持ち出されても信憑性は感じません」
「信じるか信じないかはあなたの勝手よ。わたしたちが吸血鬼と呼ばれるのは血を吸うというだけで、古典的な怪物の名前をつけられただけなんだから。それにちゃんと鏡に映るでしょ」
由貴の話はB級映画のシナリオ程度にしか聞こえず、瑠諏は首を小刻みに振って跳ね返した。
「こっちは真剣に話してあげてるのに、そ、その態度はないんじゃない」
由貴は言葉をつっかえ、またしても泣きそうに目を潤ませる。会うたびに表情をコロコロ変える由貴に同情するわけにはいかない。瑠諏には聞かなければいけないことがある。
「連邦捜査官を殺したんですか?」
唐突な質問が気に障ったらしく、由貴は目力を入れて瞼を全開にする。
「殺してないわ!」
「信用に欠けますね」
「血を吸って映像を確かめないと信用できないんだ」
由貴が馬鹿にするように挑発する。
「そんなことありませんよ」
「過去の犯罪歴なんて、なんの役にも立たないんだから」
由貴はそっぽを向き、完全に不貞腐れてしまった。