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――小休止――
言ってしまえば、前部に記した『我等が抱く意思の証左』はかなり必死に考察したため、些か解りにくくなってしまったと思う。語り部たる私の至らなさを痛感したよ。
とはいえ私は人間だ。私は君であり君が私である以上、君が人間であるならば私も人間なのだ。だから、一休みがてら何も考えないで語ってみようと思う。
よし、方針はみなされた。
では、蛇足を始めよう。
そもそも蛇足は何故、蛇足と言うのだろうか。ヘビに足は要らない、つまり無駄なものを比喩したものだろう。だが考えてみて欲しい。ヘビに手足が生えた時の姿を。
そう。中国の遥か昔から伝わる伝説の神獣である龍になるではないか。とはいえ日本の古伝にも龍は出てくる。ちなみにこれはパクりだ。オリジナルは中国である。干支も然りだ。
蛇に手足を付けるのは無駄だから『蛇足』と揶揄した。それが蛇足の語源であるならば、何故、龍はその蛇足を体現したかのような姿なのだろう。
ここから、無駄も極めれば蛇足ではなくなる、という定理が見えてくるのではないだろうか。人々が『それは蛇足だ』と断ずるそれは本当に蛇足なのだろうか。もし蛇足であるなら、鯉の滝登り同様、登り詰めれば龍になれるのではなかろうか。
結論。
堪え忍べ、努力人よ。それは蛇足かもしれないが、蛇足であるなら龍にもなれる。




