この素晴らしき世界に、別れを
足音がどこかから聞こえてくる。
遠ざかっては消え、また別の方角から慌ただしく駆けていく足音と声とが近づいては過ぎていった。もう何度目か。足音がここで止まらないことだけを切に願う。
「はぁ……はぁ……っ」
鍵の掛かっていなかった物置小屋に身を潜めた哲とアリスは、まだ荒い息を整えようと静かに肩を揺らしていた。
「まいったな……迂闊に動けなくなっちまった」
慣れない町の出口がわからず西へ東へ走り続けた結果、追っ手が増えただけと状況は悪化していた。
「私が案内すればよかったわ……まさかあなたが道を知らないなんて思いもしなかった」
「…………、悪かったよ。市壁があるなんてね、完全に忘れていた」
哲の時代こそ町と町とのはっきりとした境界は地図上でしかわからないが、この世界ではそうではない。外敵から町を守るための防壁として出入り口の限られた石壁がぐるりと一周しているのだ。これを無視して町からの脱出は不可能に近い。
「それでも、さっきみたいに梯子を出したりはできないの? あれなら市壁だって……途中で見つかると危ないから?」
どんなピンチでも錬金術ならどうにかなる。それは哲が一番良く知っている。
「それがどうもな……さっきから変な感じがするんだ」
脱出に手間取った失敗より、こちらの要因が哲の不安を掻き立てていた。
魔力の元となる精神力が、シリルを発ってからほとんど回復していない。単なる使いすぎではなく、不気味なほど力が戻らないのだ。
「もしかしたら俺は勘違いをしていたのかもしれない……」
高純度の魔石なら精神力から魔力への変換ロスが極端に少ない。そのために大量の金貨を何もない空間から出現させても一時的には疲弊するが、しばらくすれば回復する……。
「そりゃないよな……何で疑問に思わなかったんだろう」
たとえ変換ロスが全く無く、精神力をそのまま魔力に出来たとして。
「たかだか一人分の精神力があれだけの金貨と同等なわけがない。なのにそれが出来ていた……」
その時は何ともないが、あとになってそのツケが遅行性の毒のように効いてくる。
「もしかするとこの魔石が吸っていたのは……俺のこれから、未来で得られる分を含めた精神力だったってことかもしれない」
長い一本の飴があったとしよう。
それを端から舐めていけばそれなりに長く楽しむことができる。が、瞬間的に得られる甘味の量は少ない。
一気に噛み砕いても良いが、精神力の場合はそれが途切れてしまうと本人が死んでしまう。絶えず舐め続けることしか許されない。だから、時間当たりに使える精神力には限界があるのだ。
それを。
側面から少しずつ削り取って口へ流し込む。
この魔石がしていたのはそういうことだったのではないか。あくまで過程だがこれ以外に思い浮かばない。
気付くのが遅すぎた。
もう気軽に魔術は使えない。せめてもう少し早ければと悔やむ。
そんな哲の独り言を聞いたアリスが不安げな声で問いかけた。
「もう魔法は使えないのね?」
「ああ、すまない。いつもはこうじゃないんだが……すまない」
「……あなたは悪くないわ。私をここまで連れ出してくれただけで……」
その先は口にしなかった。というより、思い付かなかったというほうが正しい。
それが何になるのかと、二人とも答えが出せなかった。
ここまで連れ出して、ここまできたのに逃げられない。その悔しさに哲は壁に拳を打ちつけた。
「くそっ!」
ドン、と振動の後に壁の埃が髪に降り落ちた。
情けない。余計にアリスを怯えさせ、自分は拳を痛めて。馬鹿ではないか。
こんなことをしている場合ではないのに。
頭を壁にもたげて脱出方法を考えていると、一枚板の向こうから聞きなれない動物の嘶く声がした。
――ヒヒーン、ブルル。
「?」「?」
顔を見合わせた二人は外の様子を小屋の窓から覗う。
「あれは……」
小屋の裏に繋がれていた馬はおそらくこの辺りに住む者の家畜だろう。だが、それが今は天からの施しにしか見えなかった。
「アキラ」
それまでと調子が違う声。
諦観の漂っていた彼女の顔には再び希望の明るさが灯っていた。
「私、――あれに乗れるわ。今度は私の番ね」
そう言ってまな板のような胸を精一杯大きく見せたのだった。
「アキラ、馬を驚かさないでね……」
「わかってるから、早くよじ登れ」
アリスの腰を抱き上げて馬の背に上らせる。本人いわく馬具の付いていない馬など初めて見たから、というのが言い訳だった。
「操舵のほうは大丈夫なんだろうな?」
自分はひらりとアリスの後ろに跨り、座りの感触を確かめた。この馬は荷馬らしく、手綱以外の馬具らしいものは付けられていない裸馬だ。
「馬鹿にしないで……頼むわよ」
馬の首筋を優しく撫でてからアリスは手綱を軽く打つ。するとゆっくりと足が動き、歩き始めた。
「大人しくて素直な子だわ。きっと大切にされているのね」
持ち主には悪いことをしたな、と言いかけて飲み込んだ。
こんな時に言うセリフではない。
「走れそうか?」
「……わからない。あんまり走らされたことがないのかもしれないわ。筋肉の形でわかるの。走れても他の馬で追いかけられたら……」
馬を心配する彼女に負け、哲もそれ以上は言えなかった。幸い今は周辺に人の気配は感じない。かっぽかっぽと二人を乗せた荷馬は町の出口を目指して歩く。
「わかった。追っ手がついた時は俺にまかせろ」
手元には時計塔を脱出する時に使用した弱装拳銃がある。弾倉内の残弾は十一発。九ミリの硬質ゴム弾を半自動で発射できる。ただ、弾薬は錬金術に依存しているので補充は無いものと考えなければいけない。
「もう大通りに出るわ。そうすれば南側の正面に町の入り口が見えるの。でも、きっとそこに見張りがいるから……」
「ここから走るわけだな?」
「……ええ。この馬がどれくらい走れるのかわからないけど」
「わかった。――その前にアリス、君は銃って知っているか?」
「え? ええ、それが何?」
「どんな銃だ? 銃身の先から弾と火薬を入れるものか、それとも……こういうやつか」
自分の拳銃を見せて尋ねる。
「……私が知っているのは先篭めの銃だけよ。あなたのそれは見たことも無い」
「そうか。安心した……が、気は抜けないな」
「…………? もういいかしら?」
「ああ、アリスは操舵に集中しろ。邪魔な人間は俺が片付ける」
馬の姿が大通りに現れる。石畳の続く左手側に門が見えた。この深夜に遠くのそれがはっきりと視認できたのは、いくつもの松明らしき炎の明かりが集まって昼間のように照らしていたからだ。
ごくり、と目の前の細い首が鳴った。緊張と、恐怖と……。この状況は幼い少女には荷が重すぎる。それでも彼女はやらなければならない。彼女にしか出来ないことなのだ。
「アキラ……」
声が震えている。ふりむいた少女の顔には恐怖を越えた先の笑みが浮かんでいた。
「私のせいであなたが死んだら、ごめんなさい」
激励してやるべきなのか。気の利いた言葉が浮かばない。
「アリス」
ならば――と、その紅唇を奪った。
「…………!」
「先払いだ。俺の命をくれてやる。自信を持て」
「あなたって人は……」
どこか可笑しそうな顔を背け、呼吸を一拍置いてからアリスは掛け声と共に手綱を強く打った。
それまで荷馬車を引くかの如くゆっくりと歩いていた馬が、驚いたように駆け始める。
「もっと! 頑張って!」
馬がその声に応えようと気張っているのが感じられた。不思議なことに、なぜこれほどまでに彼女の言うことを聞くのか。何かそういう『魅力』を持っているとしか思えない。
石畳を蹴る蹄の音に気付いた見張りが仲間を呼ぶ。
暗がりから出てきた者達の手には先篭め式のマスケット銃が。それがこちらを向く前に、哲は拳銃の引き金を引いた。
風船が次々と割れるような破裂音を立て、哲の銃弾が間断なく集団に目がけ放たれる。
彼らは驚いたことだろう。裸馬の背から身を乗り出した男の手元から、自分達の道具ではありえない攻撃を受けたのだ。その場に居た人間が皆、蜘蛛の子を散らすように再び暗がりへと消えていった。
次第に速度が出てくる。出口までは五十メートルも無い。あと数秒で通過する。
パン――カチッ!
「げっ」
牽制の弾幕を維持することに必死で残弾に気が回らず、弾が切れた。
しかしなんとか無事に出口を過ぎ、レティクの町を外側から見ることが出来た。
「――まだ終わりじゃないぞ」
「わかってるわよ」
こちらの銃撃が止むと後方からマスケット銃の射弾が襲い掛かってきた。一発毎の装填が必要な銃であり、命中精度もさほど脅威ではない。当たらないことを祈りながら馬を走らせ続けた。
銃口の炎が止んだ頃、哲はアリスに指示を出した。
「アリス、シリルという町はわかるか」
「ええ。そこへ行けばいいの?」
「そうだ。でかいツテがある」
シリルを治めるコシューク氏ならきっと助けてくれるはずだ。レティクでは市民の立場が貴族を上回れど、町単位の革命の影響など受けない他の町では依然貴族の立場は絶対である。あそこまで逃げ切れば助かる。
「わかったわ。しっかり掴まっていて!」
レティクからシリルまでの間には峡谷があり、そこを越えると哲のバイクが停めてある。峡谷の吊り橋を渡るのに重く不安定な二輪車では無理があったためだ。それに乗れば夜が明ける前にシリルに帰れる。
景色は町から平野、さらに森の中へと変わる。ここまでは道が続いているので追っ手が付くなら迷わずにここへ来るはずだ。
あと少しで峡谷に差し掛かる。気が引けるのは山々だが、吊り橋を落とせば追っ手はほぼ振り切れるだろう。
もうすぐだ――
ここで異変に気付いた。
「…………」
どうも腹部に違和感がある。熱を持っているような、ただ事ではない痛みを感じ始めた。
おそるおそる手を差し入れてみると、それはすぐに身を灼く激痛へと変わった。
「――――ぐっ!」
身を捩った反動で姿勢を崩し、哲は馬から落ちた。
「アキラっ!?」
すぐにアリスが気付いて馬を止め、自分も降りて駆け寄ってくる。
「どうしたの、大丈夫!?」
「……っ、アリス……!」
月の明かりを頼りに自分の手を顔に近づけると、ようやく事態を理解した。
「くっそ…………ツいてねぇやな……」
「血が……血がこんなに……止めないと……っ!」
へその真上から流れる出る血がすぐにアリスの両手まで真っ赤に染めてしまった。
「ぐ……がほっ――」
口からも赤いものが飛び出た。どうやら内臓まで傷ついているらしい。
「…………なんでここまで来て……くそ」
この傷は今いる世界の医療技術では手に負えないかもしれない。それ以前に、ここからきちんとした医療を受けられるところまで辿りつくこと自体が不可能ではないか。
となれば、生き延びる方法はただ一つ。
自分の世界に帰るしかない。
――アリスを置いて。
「アキラ……」
首に掛かる黄色い魔石を使えばすぐに向こうの、自分の世界に帰ることが出来る。そうすればこんな傷など現代医療に掛かれば御茶の子さいさいで治してくれるだろう。
――自分は助かる。これがあるからこそ、今回の師匠の頼みも渋々了承したのだ。
なのに。
「ねぇ……しっかりして……っ」
守りたいものが出来てしまった。
「アリス……よく聞くんだ」
「…………?」
「俺はもう馬に乗れそうにない。ここから先は一人で行くんだ。シリルに着いたらコシュークという――」
「ま、待って! だめよ! あなたを置いてなんて……」
「アリス」
「…………っ」
「安心しろ、俺は死ぬつもりはない。ただ、しばらく動けそうにないから、ついでに奴らの足止めをしようってだけさ」
「足止めだなんて……動けないのに?」
「忘れたのか? 俺は魔術師だぞ。動けなくたっていくらでも方法はあるさ」
「でも……さっき何かおかしいって…………――それに、それでもアキラを置いてなんていけない!」
「アリス……頼む、言うことを聞いてくれ」
「いやよ、いや……。――立って! アキラも一緒に行くのぉ……っ!」
泣きじゃくるアリスに胸を痛め、ふとした気配に後ろをふり返った。
遥か遠く、ここに繋がる道に微かな光点が見えた。恐らくは追っ手。
この上なく忌々しい奴らだ。
「アリス……! お願いだ、先に逃げてくれ。必ず後を追うから」
何度も何度も涙を拭いながらもアリスは顔を上げて言った。
「……約束して。必ず迎えに来るって……」
その言葉に哲は少女を抱きしめ、噛み締めて誓った。
「わかった。待ってろ、すぐに、絶対すぐに迎えに行くから……」
「…………うん」
体を離し、一回り小さな顔がさっと迫ってきて一瞬の出来事だった。
「――あなたは私の唇を二度も奪った男よ。必ず迎えに来て……これから先も守りなさい。いいわね」
そう言い残すとあっけにとられる哲を尻目にアリスは走り出した。そして少々手間取って馬に跨ると、最後に一瞥をくれた。
絶対に、と。視線だけが交わされる。
――暫しの別れだ。
去っていく蹄の音だけを聞きながら、哲は最後の錬金術を始めた。
「――よう、あんたが来たのか」
「…………貴様だけか。自分を囮に姫を逃がすなど、現実にやる者がいるとは思わなんだわ」
「そうかい。だが、あんたのそれは少し違うぜ? まるで俺がここでやられるみたいな言い草じゃないか」
「ふん……。また豆鉄砲を出すのか。こっちの銃とどちらが強いか比べてやろう」
「いいな、それがいい。――んじゃあ、いくぜ」
――カチ、キュルウゥゥゥゥン…………。
最後の力を振り絞って錬成したのは、悲しいことに人の命を奪う道具だった。
回転を始めたガトリング砲の銃身を止められる者はもう誰も居ない。
――アリス、ロナ…………あと師匠、すいません…………。
悪魔の咆哮が轟くその地獄の中で意識を失ってもなお、哲は射撃釦から手を離さなかった。
拙い作品ですが読んでくださっている方、励みになりますありがとうです。あと毎回話の長さがまちまちですいません。早く話を進めたくて、本当に描けた分だけ投稿しているので……。




