見慣れた天井
これが最終章になると思われます。目を通してくださっている方はもう少しだけお付き合いお願いします。
遠くから雨の音が聞こえる。
それは意識するほど近寄ってきて、ついには彼の目を覚まさせるほどはっきりとしたものになった。
「…………」
見慣れた天井。いつもこうして朝が来ていた。けれども、どうして今朝はこれほど気持ちが落ち着くのだろう。
視界が世界の輪郭をなかなか明確に捉えられない。ぼやっとした、それこそまだ夢の中にいる気さえしてくる。
――トン、トン、と。
あの足音がだれのモノなのかはすぐにわかった。それが止まり、軋む扉の音にそちらを見る。
「……気がついたようだな。具合はどうだ? 哲」
襟から膝までの真っ白な服装。日がな一日埃臭い一室に籠もって試験管や薬品と睨み合っている研究者のイメージそのものの格好をした、四十路の男。この人こそ哲の師、人生の恩人であり、全世界を顔パスで通る魔術師その人であった。
口を開くと喉がひどく乾いていて自分でも躊躇うほど掠れた声が出た。
「……し、しょう……」
「辛そうだな。無理に喋らなくていい。まずは話を聞け。――お前は帰ってきたんだ。私の魔術で時空を行き来することに成功した。……私の言っていることがわかるか?」
しばらく呆けた後に小さくはい、とだけ返した。
「今回は本当にご苦労だった。しばらくはゆっくり休むといい。家事は私がやる。腹は減ってないか? なにか持って来てやろう」
数秒かけてテキストだけ入ってきた言葉を理解し、首を振った。水が欲しかったが、それに勝る欲求が体を抱き締めている。
頭に霧が立ち込めているようで複雑な思考が出来そうもない。自分がなぜこうしているのかさえも上手く回答できなかった。
とにかく今は眠りたい――。
もう少し休めば治るような気がして、哲はまた大蛇のように鎌首をもたげて機会を覗っていた睡魔に意識を差し出し、再び安穏の中へと落ちていった。
……それからどれほど経ったのか、夢を見ていた。
暗い森の中。
涙を流して訴えかける少女の顔。
「…………!」
再び哲は天井を見ていた。そこはどこよりも落ち着ける部屋であった。そう、自分の世界である。
ようやくはっきりと思い出した。自分がしてきたことを。そしてこれからすべきことを。
今にも気を失いそうな精神で、ふらつく体に鞭を打つ。これほど心身が耗弱している理由には察しがつくが、まだわからないことはあった。
研究室兼リビングで書籍を広げていた師匠が顔を上げる。
「どうした?」
必死な形相で這うようにやってきた弟子に師匠は椅子に座ったままそう問いかけた。この人の中では何があっても魔術に対する関心の方が上回る。弟子が死にかけていようとお構いなしだ。
「……僕はなぜ、こっちに帰ってこれたんでしょうか。自分で魔石を使った憶えはありません」
あそこで果てるつもりでいた。それがなぜ、帰ってこれたのか。
「ああ、保険を掛けておいたんだ。お前の精神力が生命の維持に影響を出すレベルまで低下すると勝手に動くようにな。それに使うエネルギーの消耗に耐えられるかは賭けだったが」
「…………」
「それだけか? なら早くベッドに戻れ。いつまでも不労者を喰わせるほど私は偉大ではないぞ。お前には引き出したい情報が山とあるのに、回復するまでそれを待ってやると言うのだ」
あとで頭の中を覗かれるのは予想していた。写真なんかよりもよほどたくさんの情報を秘めている脳こそ師匠の一番の目当てだ。それにはやはり負担がかかるために猶予してくれているのだ。
「……あと一つだけ。頼みがあります」
「お前が、私にか?」
いい身分になったなと言わんばかりの笑いが返ってきた。もちろん冗談なのはわかっている。
「もう一度、あの世界に飛ばして下さい。代償はどんなものでも払います」
「…………そうきたか。そんなに楽しい世界だったか? 異世界とやらは」
「お願いします……!」
無理な願いをしているのは百も承知だ。それでも諦める選択肢は、ない。
「わかっているだろう? あの魔術は馬鹿みたいにコストが掛かる。代償と簡単に言うが――お前の寿命を削る結果になるかもしれんぞ?」
それで済むなら、と哲は引かない。
「構いません」
「それに今のお前は……ああ、気づいているかは知らんが。あの赤い魔石によって魔力をローンで払うような状態に陥っている。もともと魔力の少ないお前からは精神力という形で吸い出されるはずだ。それが今後、何年にも及ぶ。つまりその間は魔石があっても魔術はろくに使えないわけだ」
あの推測は正しかったらしい。未来での精神力をあてにした分割払い、ローンという表現は言い得て妙だ。
哲はただ繰り返す。
「構いません」
開いていた皮張りの本を閉じ、ふーっと長いため息が聞こえた。
「私がそれを断ったら、どうするつもりだね」
「……師匠は僕を完全に拘束して管理しなければまともに情報は引き出せないでしょう。それ以降も同じように小間使いにしたければ、洗脳をお勧めします。もちろん、全力で抵抗させてもらいますが」
それを聞いて高名な魔術師も降参したらしい。
「私がそんなことをする人でなしに見えていたのか?」
「いえ。師匠のことは心より尊敬しています」
「ふん、可愛げのない奴だ。……要求に対してだが、理由によっては……だな」
あの世界に行く理由。
正直に言えばどんな反応をされるかわからない。もう一度会いたい人達が居る。それを説得する文章を考えていると師匠が先に口を開いた。
「――女だろう?」
「え、あ……その……」
師匠は自分が居ない間に魔術とは別の読心術でも体得したのだろうか。
「図星か。そんなことだろうと思ったさ」
「……いけませんか」
取り出した煙草に、ライターのガスが切れていたので代わりに指を鳴らして火を点けた初老の魔術師は煙で遊びながらこう言った。
「男が動くのに、それ以上の理由は聞いたことが無いな」
「し――」
礼を言おうとした哲が安堵のあまり気を失ったのを見て、「これが俺の弟子か」と呆れた笑いを浮かべると偉大な魔術師は彼を担ぎ起こしてどこか嬉しそうに部屋を後にしたのだった。




