001:勝利と訃報と妊娠
2026.10.07 1/4回目
――王都の街に歓喜の声と安堵の声が湧き起こっている。
五月の温かな風に吹かれ、私の目の前をはらはらと舞い降りる花びらは綺麗だけれど、石畳に落ちた花びらは誰かに踏まれて見るに堪えない姿をしていた。
魔石鉱脈の利権争いを発端として始まった隣国との戦争が終わった。王都の街では出征していた騎士団の方たちが戻っており、一番大きな道で凱旋パレードが行われている。窓から祝いの花びらを撒く人に、久しぶりに会った家族と抱き合う人、勝利に湧いて王国の未来は明るいと口々に告げる人。
多くの方が勝利の立役者を見ようと集まった人波の中で私はただ不安を抱えていた。男爵家の当主であり、騎士でもある私の夫の姿がどこにもない。彼は騎士団で百人長を務めていたから、パレードの列のどこかにいるはずだ。一ケ月前に休暇で戻ってきて話していたことの続きをしなければと私はパレードの列に眉根を顰めた。
「アドルフ……どうか、無事で」
私の口からぼそりと声が漏れるけれど、誰も気にする人はいない。側に控えている私の護衛も側仕えも気付いてはくれなかった。
夫のアドルフは百人長を務めている。先月、休暇で帰ってきた時には『次は落ち着いて話そう』と私の手を握った。子供を持つことについて、五年の結婚生活で初めて正直に向き合った。
列が途切れても、褐色の髪と緑の瞳は見つからない。長い長いパレードの列を眺めていれば、いつのまにか最後尾の人たちが目の前を過ぎていく。
私の夫であるアドルフはいったいどこへ行ったというのだろう。もしかして怪我を負いパレードに出られなかったのだろうか。まだ戦地に残っているのだろうか。詳しい情報は秘匿とされているから、私が知る由もない。集まった人たちはパレードの列を追いかけて、王城前広場へと足を向けていた。ごった返していた人波は引いて、ぽつんと私たちだけが立っている。場から動かない私を見かねて側仕えのマーサが私に半歩近寄った。
「奥さま、戻りましょう」
「そう、ね。そうしましょうか」
マーサの声に私は無理矢理に笑みを作る。待たせていた馬車に乗り込んで、王都にある男爵家のタウンハウスへと戻りながら私はマーサに指示を出す。アドルフがどこにいるのか調べて欲しいこと、いつ彼が戻ってくるのかも分かれば教えて欲しいと。
馬車の中、対面の席に腰を下ろしているマーサは承知しましたと声を上げ、私は馬車の窓へと視線を向ける。生まれてずっと王都に住んでいる私にとって流れる景色は見慣れたものだ。ただ晴れているというのに、私の目に映る景色はどんよりとしたものだった。
十年前、商家の娘だった私に、十九歳のアドルフは一目惚れした。貴族でありながら身分を笠に着ることもなく、何度も私のもとへ通ってきては『好きだ』と繰り返した。根負けするように結婚して五年。時間が経つにつれ、惚れていたのは私のほうだった。
「惚れた弱みか」
私の口から漏れた言葉にマーサが『奥さま?』と首を傾げる。いつの間にか馬車は男爵家のタウンハウスに辿り着いている。馬車回りに馬車は止まっていた。
「いえ、なんでもないわ。行きましょう」
「はい」
左右にゆっくりと首を振る私にマーサが微笑む。馬車から降りて玄関ホールに入ると、私たちの迎えは誰もいない。戦争が起こってからタウンハウスの人員は必要最小限としていたが、アドルフが戻れば屋敷で働く者たちも増えるだろう。
執務室へと入り家宰と一緒に私は執務をこなしていく。戦争に勝ったのだから、いろいろと好転していくだろう。そしてアドルフと一緒に一ヶ月前の話をきちんと片付けて、夫婦として二人の道を歩んでいくはず。早くアドルフが無事に戻ってきますようにと願っていれば、パレードから五日が経っていた。
お昼前。執務室にマーサが訪れ、少し困り顔を浮かべている。どうしたのかと問えば私に客人が『話したいことがある』と言ってやってきたとのこと。前触れも出さず、客人が屋敷を訪ねてきたことに私もマーサも家宰も懐疑な表情を浮かべた。
しかし騎士団所属の騎士とのことだから、貴族の通例を知らないのかもしれない。私は客室に通すようにとマーサにお願いをして、家宰には同席して欲しいと伝える。
「行きましょうか」
そうして私は執務室から出て廊下を歩いて来賓室へと辿り着いた。扉の奥には騎士と名乗る人がいる。もしかすれば、アドルフのことかもしれないと期待と不安を抱えながら私は扉のノブを握った。
ゆっくりと扉を開けば蝶番の音が鳴る。三人掛けの椅子には私よりいくつか若そうな騎士団の衣装を纏った男性が腰を掛けている。私の姿を見るなり、椅子から静かに立ち上がった。衣擦れの音が聞こえてきたのは外套の音だろうか。丁寧に礼を執ったその人は私が対面に立てば、彼は言葉を紡ぐ。
「不躾な訪問をお許しください。私はヴァルター・フォン・アイゼンベルクと申します。この度、お伝えしたいことがあり、エレノア・フォン・ミュラーさまとのご面会を希望させていただきました」
灰銀色の髪と薄蒼色の瞳を持つ人だった。褐色髪で緑色の瞳を持つアドルフと同じ騎士団の衣装を纏っている。だというのに醸し出される雰囲気が違っていた。アイゼンベルク家といえば王国では有名な伯爵家だ。そんな大きな家に連なる方がどうしてありふれた男爵家に顔を出したのだろう。
「いえ、ご用件は?」
続けて私はどうぞと彼に着席を促す。家の者を同席させているが、若い男性が屋敷に入ってくると噂を流されてはたまらないと私は少し無作法な物言いを告げた。本当は改めて名乗るべきだけれど……胸騒ぎがして早くこの場を離れたかった。
ヴァルターと名乗った人は腰を下ろし、三人掛けの椅子に置いていた小箱と少し大きな箱を机の上に静かに置く。そして胸元から丁寧な所作で一枚の紙を取り出して小さな箱の隣に置く。ヴァルターの指が、小さな箱の上でほんの一瞬止まり私は目を顰める。
「こちらを」
彼の声に私の手が震える。見たくない、見てはいけないものだと一瞬で理解してしまった。お茶を用意してくれていたマーサも動きが止まり、家宰が息を呑む音も耳に届いた。
どうして、どうして、どうしてと心の臓の高鳴りが止まらない。そしてヴァルターは口を力強く閉じていた。なにかに耐えるように。はっと短く息を吐き出して、私は机の上にある紙きれに手を伸ばす。
――アドルフ・フォン・ミュラー男爵。戦死により二階級特進。
短く記された通知書にはそう記され、死亡した日時も機械的に書かれていた。だというのに私の目から勝手に涙が溢れて頬を伝う。アドルフの笑う声、アドルフのおどける姿。本を読んで泣いている姿に、洗髪剤を変えたかと首を傾げながら問う姿。
一ケ月前、休暇で戻っていた彼を私はまた再会できると笑って送り出したのに……好きだと何度も伝えていたけれど、愛していると私が口にすることは一度もないまま、神の下へと彼が旅立ってしまうなんて。せめて一目、彼の姿を眺めることはできないのかと目の前の薄蒼色の瞳を私は射抜く。すると彼は整った顔を苦虫を噛み潰したような表情に変える。
「誠に言い辛いことですが……アドルフ・フォン・ミュラー千人長のご遺体は回収されミュラー男爵領へ移送手続きが進んでおります。こちらの品は天幕に残っていた彼の遺品となります」
ヴァルターと名乗った人が小さな箱の蓋を開けた。そこには彼の婚姻指輪と愛用していた万年筆が入っていた。いつも身につけていたはずの婚姻指輪をどうして彼は天幕に置いていったのだろう。疑問が疑問を呼ぶけれど、溢れ出す涙が止まらない。
そしてまたヴァルターが小箱を開ければ、騎士団の階級章が収められていた。その階級は千人長。アドルフの以前の階級は百人長だから、五百人長を飛ばして千人長とは本当に出世したものである。
でも死んでから二階級昇進してなにになるのだという言葉を私はぐっと飲み込む。しんと静まり返った客室は誰もなにも口にしなかった。ただ少しだけ時間が流れて……――私は目の前のヴァルターに礼を執る。
「お伝え頂き、感謝申し上げます」
「いえ」
私の言葉に目の前のヴァルターがゆっくりと左右に顔を振る。おもむろに立ち上がった彼は騎士団の敬礼を執り、ドン、と床を鳴らして足を揃え真っ直ぐ前を見据える。
「王国と騎士団はアドルフ・フォン・ミュラー千人長の忠誠と功績を長く記録し、その名誉を永遠に讃えるものとします」
来賓室に響くヴァルターの声は私の耳には他人事のように届いていた。アドルフが亡くなったという実感は湧かぬまま、騎士団へ戻ろうとするヴァルターを私は玄関ホールまで見送る。
――ヴァルターが屋敷を訪れて数日が経っている。
私は体調を崩す日々が多くなっていた。アドルフを失った悲しみに身体が弱っているのだと心配したマーサや家宰に医者に診てもらうように勧められた。――そして。
『おめでとうございます。奥さま、ご懐妊なされておりますよ』
ふふと目を細める医者を前に、私は頭を殴られたような衝撃に襲われる。アドルフとの婚姻を果たして五年。今まで一度も子を授からず、陰では石女と囁かれていることも知っていた。嬉しい。そう思うはずだった。夫との間にできた、初めての子供なのだから。けれど私の胸に浮かんだのは喜びではなかった。
――どうして、今なの。私にはもう、夫がいないというのに。




