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それから十分後、パグはひとりで千佳のいるビルから自分たちの住処である雑居ビルへと歩いていた。力なく、ふらふらとしていて、失禁したままのズボンが濡れていることにも気づいていないみたいだった。虚ろな目で、口を半開きにしていた。言うことを聞かないと殺される…聞いたところでやはり殺される。絶望しかなかった。女は自分の目の前で消えていなくなった。でもちゃんとついて来ているらしい。忘れるなよ、という感じで時々、あの巨大なカミキリムシが背中をつつくからだ。いろいろと聞かれたけれどあまりよく覚えていない。ビルには何人いるとか、住処は何階だとか、そんなことを聞かれた気がする。なんと答えたのか…なにか間違ったことを話しているかもしれない。だけど、もうそんなこと気にしなくてもいいのかもしれない。死ぬんだ、もう死ぬんだ…そんなことを考えていると涙が出てきて、往来にも関わらずパグは啜り泣いた。その瞬間、背中に激しい痛みが走った。
「ただでさえ目立ってるんだから、これ以上目立たないで。走って、さっさとお家に帰るのよ…ボサッとしない!走って!」
パグは走った。走りながらも涙はとめどなく流れた。畜生、どうしてこんなことに…!もちろん、なにもかも自業自得なのだが、この男にそんなことが理解出来るはずもなかった。
入口のドアを開けて、茫然と突っ立ってるパグに、そこに居た男が話しかけた。
「マサアキ…どうした?いやっ、お前ほんとにどうしたんだ?なにがあった?」
パグことマサアキはもう一言も話すことが出来ず、そのまま後ろにばったりと倒れて息絶えた。極度の緊張の連続に心も身体ももたなかったのだ。マサアキ?おい!と、アスリートのような体形の男が飛び出してきてマサアキを起こそうとする。その首筋に、冷たい牙が突き付けられる。
「動かない。それ以上声出さない。そのまま私の質問に答えて。」
「…誰だ、おめえ…。」
やれやれ、と千佳はため息をつく。質問に答えろって言ってんのに、質問してきてどうするのよ。千佳は牙を男の首筋に立てたまましゃがみ、男の眼前に自分の顔を合わせ、頭部だけ擬態を解く。男は一瞬ぽかんとして、それからひっ、と小さな声を上げる。
「あなたは特にひどい扱いしてくれたわね。何回も何回も…。」
お前、死んだはずじゃ…、と体躯に似合わぬか細い声を出しながら男は尻もちをつく。死んだわよ。
「だからね、化けて出たのよ。」
千佳が全身の擬態を解いたときには、左腕はムカデに変化していた。
「ねえ、なんでいっつもムカデなのよ。」
ラインが横やりを入れる。今忙しいんだけど、と言いながらも千佳は答える
「ビジュアル的に。」
「簡潔な答えだわ。」
わかったらいい子にしててね、と千佳はママのような調子で言う。はーい、とラインは子供のような声を出す。千佳は右腕を元に戻し、左腕のムカデを突き付ける。
「みなさん中にお揃いですか?」
男は涙目になって何度も頷く。それでもプライドがあるのか失禁だけはしなかった。
「奥に何室あるの?」
三室です、と男が答える。そう、と千佳。
「ご苦労様、お友達が二人待ってるから早く行ってあげてね。」
ムカデの牙がゆっくりと差し込まれた。男はあっという間に全身に赤い浮腫を浮かべて死んだ。ナナフシの時と同じだ。
「ねえ、これってこういう設定なの?」
うーん、とラインは唸る。
「たぶん、サイズの問題じゃないかしらね。こんなサイズのムカデから毒を注入されたら、アレルギーがない人でもアナフィラキシーショックを起こすでしょうね。」
なるほどね、と千佳は答えながらもう一度擬態する。最初の部屋は応接室的な造りで、ソファーとテーブルと巨大なテレビが置かれていた。ガラスの、グローブほどもある灰皿は煙草の吸殻でいっぱいになっていた。まだ煙を上げている吸殻もあった。
「空気悪いわね。」
千佳はそう吐き捨てると、左手をカブトムシの角に変え、ガラスを叩き割る。奥の部屋がこちらを警戒したのがわかった。「見てこい。」「ウス。」そんな会話が聞こえた。聴力も上がっているようだ。今度現れたのは、ラグビー選手のような大柄で筋肉質の男だった。一番あっけなかった人だ、と千佳は思った。パグから聞いた話ではここに居るのはあの時の五人だけということだった。それなら、もうみんなまとめて始末しちゃおうかな、と、千佳は思った。一人ずつだとなんだか盛り上がりに欠ける。




