~ 午ノ刻 変異 ~
ホテルの東側は、思った以上に静かだった。外の雨音と雷の音を耳にしつつ、宗助と大輝は灯りのない廊下をゆっくりと進んで行く。
皐月の話では、東側には多数の舟傀儡が巣食っている可能性があるとのことだったが、今現在、宗助も大輝も怪物どもの姿を見てはいない。聞こえてくるのは、風が窓を叩く音と、自分たちの足音のみ。この、あまりに不自然な静けさが、返って不気味なものに思えるのは気のせいか。
再び外で雷が鳴ったところで、大輝がふと足を止めた。何事かと思い宗助が彼の方を向くと、大輝は手にしたランプで巨大な扉を照らし出していた。
「これは……」
そこにあったのは、古びた作りの大きな扉だった。客室や従業員室とは明らかに違う、いかにも重たそうな造りをしている。食堂に使われている物ともまた違い、凝った装飾の掘られた扉は、どこか神秘的な雰囲気を漂わせてさえいる。
「こいつは図書室だな。ここに来る前、七森から話に聞いた」
ランプの灯を持ったまま、大輝が扉を見上げるようにして言った。
「図書室? そう言えば志乃のやつが、古い本の整理がついてないって言ってたような……」
「ああ、そうだ。なんでも、前の持ち主が使っていたものを、そのまま本ごと引き取ったって話だぜ。貸し出しはしてないみたいだが、中で本を取って読むのは自由だそうだ」
「そうか……。こんなことにならなけりゃ、ゆっくりと本の一つでも読んでいたかったな」
「まったくだぜ。檜山辺りだったら、きっと喜んで入り浸っていただろうな……」
未だ消息のつかめない仲間の名前を口にして、大輝は少しばかり不安そうな表情になりながら呟いた。
BARで遊んでいた幹也と蓮、それに美南海とは別行動をとっていた千鶴とは、今もなお会えない状況が続いている。化け物たちの跋扈するこのホテルの中で、果たして彼らは無事でいるだろうか。
できることなら、彼らの無事を心から信じたい。しかし、信じたところで現実というのは残酷なもので、黙っていても彼らと出会えるわけでもない。
このまま固まって探索を続けていても、仲間たちと出会える確率は上がらない。そう考えた大輝は、大きく息を吸い込んでから、それを静かに吐き出しつつ宗助に向かって話し出した。
「おい、宗助。このまま二人で歩きまわってても埒が明かねえ。ここは一つ、手分けしてあいつらを探さねえか?」
「マジかよ!? 手分けって……途中で怪物に襲われたらどうするんだ? 美紅の話だと、俺たちを狙ってるのは、あの舟傀儡とかいう化け物以外にもいるって……」
「なんだよ、お前。ここまできて、急に怖気づいたのか? 言っとくけどな、俺はあんな女の話、全部まともに信じちゃいないからな。どうせ、化け物と本気でやり合うわけじゃないんだ。いざとなったら、大急ぎで逃げればいい話じゃないか」
「け、けどよ……。もしも、あの舟傀儡とかいう連中に、取り囲まれちまったらどうするつもりだよ。数で考えれば、連中の方が上なんだぜ……」
「だったら、なおのこと二人でいたって無意味じゃねえか。もしも連中が群れで襲ってきたら、どうせ二人でも敵いやしないさ」
いつになく強気な口調で、大輝は宗助に意見した。普段は理詰めで話すことの少ない大輝だが、今日に限って妙に正論をぶつけてくる。それは、大輝の中にある、仲間への想いがさせるものなのかもしれない。そのことを知っているだけに、宗助もそれ以上は何も言えず、ただ大輝の言うことに従う他になかった。
化け物に支配されたホテルの中を、手分けして個々に捜索する。一見して無謀な行為に思われるかもしれなかったが、宗助は宗助で、そのメリットも理解していた。
例えば、自分と大輝が別々に行動して、それぞれが仲間を見つけたとしよう。その時点で、互いの生存率は個々に上昇することになる。先ほど、大輝は一人でも二人でも一緒というような発言をしていたが、仲間がいれば多少は心強いのも事実である。
一方、自分と大輝が共に行動して、結果として仲間の誰かを助けられなかったとしよう。そのときは、きっと悔やんでも悔やみきれない。あのとき、自分たちが別々に行動していれば。そう、後から思ったとしても、それはまさしく後の祭りというものだ。
唯一の問題点を上げるとすれば、仲間を見つけるまでの自分たちの生存率が低下することだろうか。こればかりは、さすがに宗助にも大輝にもどうにもできない。ただ、一刻も早く仲間を見つけ出し、互いの無事を祈りながら進むしかない。
あの単細胞の大輝が、ここまでのことを計算に入れて話をしていたとは考えにくい。恐らく、その場の思いつきで言ったものなのだろう。もっとも、その考えを丸ごと否定するだけのものがあるわけでもなく、最終的には宗助も彼に従う形となった。
「それじゃあ、俺はこの先の廊下の探索を進める。お前はお前で、この図書室の中を探してくれ」
「ああ、わかった。でも、ヤバそうだったら、すぐに逃げろよ。連中、まともな人間じゃないんだ。力だけなら、俺やお前よりも何倍も強い」
「そいつはわかってるぜ。そんなことより、お前の方こそ気をつけろよ。あの女の言ってた話がどこまで本当かわかんねえけど……お前の持ってるお札程度で、あの化け物が倒せるとは思えないからな」
相変わらず、大輝は美紅のことを信用していないようだった。まあ、こんな状況では無理もないか。そう割り切って、宗助は目の前の重たい扉に手をかけた。
ぎぃっ、という木の軋む音がして、扉がゆっくりと開かれた。隙間から中を覗いて見ると、思った以上に暗い。未だ電源が復旧せず、外の明かりも射しこまないような部屋では、この暗さにも納得がいく。
この中には、果たして何が待っているのか。見たところ、舟傀儡の類が徘徊している様子はない。あの、ずるずると何かを引きずるような特徴的な音。それが一切しないことから、一応は安全な場所であると思われた。
大輝に軽く別れを告げ、宗助は滑り込むようにして部屋の中に入る。後ろで扉の閉まる音がして、宗助はなぜか大きな溜息をついた。
(それにしても暗いな……。さすがにこいつは、懐中電灯を点けないと駄目か……)
部屋に入った途端、突然闇が覆い被さってきた。暗闇に慣れてきたとはいえ、この暗さでは、さすがに一寸先も見えない。敵の存在も、仲間の存在もわからずに、ただ立ち往生してしまうだけだ。
仕方ない。不本意ではあったが、宗助は自分の持っていた懐中電灯のスイッチを入れた。大輝がここにいない以上、彼の持っているランプの灯りに頼るわけにもいかなかった。
淡い、黄色い光で辺りを照らすと、目の前にたくさんの本が収められた本棚が姿を現した。高い。ここから見ただけでも、本棚は天井まで届いているのがわかる。どうやら壁と一体になっているらしく、棚の中には一番上の段にまで、様々な本が置かれている。
これはまた、物凄いところに来たものだと宗助は思った。よく、外国の映画などでは、このような巨大な図書室が姿を見せることがある。イギリスだかフランスだか知らないが、とにかく、本の山とも呼べるほどに様々な書物を収めている、一種の倉庫のような場所だ。
こんな光景を、まさか日本で見ることになるとは思わなかった。これだけの数の本だ。平時に訪れれば、宗助たちの好奇心を満たす本の一冊や二冊、簡単に見つかったことだろう。
もっとも、今となってはそれさえも、儚い夢と消えてしまった。この、魔物の徘徊するホテルから脱出し、悪夢のような現実に終止符を打つこと。今はただ、そのためだけに動いていると言ってもいい。
気を取り直し、改めて図書室の中へ足を進めたところで、宗助は部屋の隅で、何かの動く音を聞いた。
(なんだ……?)
固い、何かと何かがぶつかるような音。その音の性質からして、舟傀儡の類ではないだろう。あれは知性もへったくれもない、見た目同様の化け物だ。
そっと、音の下方へ、宗助は脚を忍ばせて近づいていった。先ほどの音は空耳か。それとも、誰か自分の他に、この部屋に隠れている者が存在するのか。
また、音が聞こえた。皐月と初めて出会ったときのことを思い出し、宗助は少し足早に音のする方へと近づいた。
間違いない。この部屋には、自分の他にも生存者がいるのだ。もしかすると皐月のように、こちらの姿に怯えて出てくるのを躊躇っているのかもしれない。
本棚の脇をすり抜けるような形で、宗助は図書室の奥に進んで行った。埃の匂いと紙の匂い。図書室特有の空気が鼻をつく。その空気を掻き分けて更に進むと、本棚は奥でL字型に曲がっていた。
あの先に、例の音の主がいる。舟傀儡ではないとわかってはいるが、それでも宗助は、なぜか自分が酷く緊張していることに気がついた。
この場にいるのは、果たして本当に生存者なのか。もしかすると、舟傀儡とはまったく別の怪物がいて、自分は既にそいつの罠に嵌ってしまっているのではないか。
だんだんと、嫌な想像が頭の中で膨らんできた。それでも、ここまで来た以上は、もう後戻りするわけにもいかない。
右手に懐中電灯を、左手には美紅から貰った護符を忍ばせて、宗助は本棚の角を曲がる。同時に懐中電灯を真っ直ぐ正面に向け、その先にいる者の姿を照らし出した。
「おい! そこにいるのは誰だ!?」
本棚の影でうずくまる一体の影。その影に向かって、宗助は光りを向けながら叫んでいた。
薄暗がりの中、床にまで届きそうな長い髪と、白地のワンピースが姿を現す。そのスカートの中から覗いているのは、決して丈夫そうではないか細い脚。最後に、部屋の隅で震えるその者の顔が目に入ったとき、宗助は思わず安堵の溜息を吐いて胸を撫で下ろした。
「なんだ、志乃か……。いるならいるって、ちゃんと初めから返事しろよ……」
「えっ……? も、もしかして、椎名先輩……?」
「ああ、そうだよ。それよりも……お前、大丈夫か? どこか、怪我とかしてないか?」
「は、はい……。私は平気です……」
そう言いながらも、志乃の声は震えていた。暗闇の中、いきなり現れた宗助に驚き、怯えているのか。それとも、未だ頭の整理がつかず、混乱してしまっているのだろうか。
何はともあれ、とりあえずは志乃を落ちつかせなければいけない。幸い、この図書室には化け物の姿もない。宗助は目の前で座り込んでいる志乃に手を差し伸べると、未だ足取りのおぼつかない彼女の腕を取り、そのまま引き上げるようにして立ち上がらせた。
「えっ……? ちょ、ちょっと……!?」
いきなり立ち上がったことで、バランスを崩したのだろうか。志乃が、その体重を宗助の方に預けて来た。慌てて受け止めると、思ったよりも軽い。いきなり抱き締めるような形になってしまい、宗助は思わず志乃の肩をつかむと、自分から引き離して身を引いた。
「ご、ごめん、志乃。なんか……その……」
別に、そこまで悪いことをしたわけでもない。こんな状況なのだから、仕方のないことだ。そう、頭の中で自分に言い聞かせながらも、宗助は己の理性を辛うじて繋ぎとめるので精一杯だった。
暗闇の中、男女が二人。こんなときでなければ、そのまま誰もが羨むような展開に持って行けたかもしれない。もっとも、今はそんなことを考えている場合などではなく、一刻も早く、志乃と一緒に安全な場所や残りの仲間を見つけることの方が重要だったが。
「あ、あの……。椎名先輩」
「なんだ? 話があるなら、悪いけど後にしてくれないか? 志乃もわかっているとは思うけど……ホテルが今、大変な状態になってるんだ。他の連中のことも探さないと、いつ、どこで化け物に襲われるかわからない」
「それは、私もわかっています。でも……少しだけ、休ませてくれませんか? 色々と逃げ回っていたら、なんだか疲れてしまって……」
志乃が、その顔をやや下に向けながら、申し訳なさそうに言っていた。こんな状況では、自分は確実に足手まといになる。そう言わんばかりの表情で、宗助の方を見つめてきた。
「仕方ないな。でも、本当にちょっとだけだぞ。あまり同じ場所に留まっていると、また化け物たちが集まってくるかもしれないからな」
そう言いながら、宗助は懐中電灯を握っているのとは反対の手を、何気なく志乃の方へ差し出した。志乃はそれを無言で握り返すと、少しだけ照れくさそうな顔をしながら、何も言わずに頷いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
蝋燭の火が一本だけ灯る薄暗い部屋の中で、その男はゆっくりと目を覚ました。
頭が痛い。それに、腹と胸がやけに気持ち悪く、妙な吐き気が断続的に込み上げてくる。
いったい、自分はどうなってしまったのか。それ以前に、ここはどこだ。覚束ない記憶を頼りに、男は静かに起き上がって辺りの様子を見回した。
間違いない。どうやらここは、自分が仕事場として使っている部屋だ。と、いうことは、自分は今までこの場所で、長い夢でも見ていたのだろうか。
暗闇に目が慣れて来るにつれ、だんだんと男の記憶が蘇ってきた。ホテルの廊下で宿泊客を襲う別の客と、それを止めようとする従業員。だが、その客は従業員にも襲いかかり、終いには従業員までもが怪物と化した。
白目をむき、だらしなく涎を垂らし、理性も知性も失ってこちらへ向かってくる人の群れ。男は恐れを成して逃げ出したものの、相手は多数、しかも四方八方からにじり寄ってくる。
結局、最後は自分の部屋の近くまで逃げ切ったものの、残念ながらそこで相手につかまった。そして、口移しに何かを身体の中に入れられた後、それからの記憶がまったくない。
思い出す内に、あの怪物に襲われたときの感触が蘇り、男は震え上がって身体を抱えた。あんな薄気味悪いものが、この世の生き物のはずではない。これは何かの悪い冗談か、さもなければ酷い悪夢の一種だ。そう、男が思ったときだった。
「う、うわっ!!」
次の瞬間、自分の目の前に現れた者の顔を見て、男は思わず叫び声を上げた。幽霊のような白い肌と、白金色の髪、そして血のように赤い瞳をした女が、こちらをじっと見つめていたのだから。
「あら、気がついたのね? 気分はどう?」
男が声を上げるなり、その女が軽い口調で訊いてきた。どうやら人間であることは確かなようだが、それでも男は警戒の色を崩さずに、距離を取りながら女に尋ねた。
「な、なんだね、君は? この私に、何か用かね?」
「ええ、そうよ。時間がないから、単刀直入に訊くわ。このホテルに電気を送っている部屋があるでしょう? それ、どこにあるのかしら?」
「で、電気を送っている部屋だと……。そんなものを訊いて、どうするつもりだ!?」I
目覚めた途端に妙なことを尋ねられ、男はかなり動揺しているようだった。それでも、その女、犬崎美紅は自分の調子を崩さずに、あくまで淡々とした口調で話を進める。
「決まってるでしょ? このホテルの電源を復旧させるのよ。この暗闇の中じゃ、化け物どもの方が有利だわ。そのくらい、あなたにもわかるんじゃない?」
「ば、化け物だと……。それでは、あの狂った客や従業員たちは、夢なんかでは……」
「そうよ。残念だけど、全部現実。現に、あなただって、さっきまでは化け物にされていたんだから」
そう言って、美紅は蝋燭を片手に男の足下を指差した。見ると、その先には、先ほど男の口から吐き出された海洋生物の死骸が転がっていた。
ひっ、という悲鳴を上げて、男が更に小さくなった。どうも、この男は他の人間と比べても、度胸のない部類に入るらしい。このまま下手に脅かしても、逆効果なのではないかと美紅は思った。
「悪いけど、私には時間がないの。放っておけば、今にホテル中の人間を化け物に変えられてしまうわ。そうなる前に、なんとかここから逃げ出して、外に助けを呼ばないとね」
本当は、既に殆どの客と従業員が、舟傀儡にされている可能性がある。そのことについては、美紅はあえて男に告げることはしなかった。
本当のことを話しても、どこまで信じてくれるかはわからない。それに、例え信じてもらえたところで、目の前の男に何かができるわけでもない。今はただ、目的のために、目の前の男から必要な情報と道具を手に入れる。それだけだ。
尻もちをついたままの姿勢の男を見降ろすようにして、美紅は男の側に近寄った。そのまま腰を落とし、顔を男の目線に近づけたところで、再び怯えている男に問う。
「ねえ、もう一度訊くわ。このホテルの電気は、どこから供給されているの? それと、その部屋に入るための方法は?」
「えっ……。あ、ああ、そのことか。非常時の予備電源は、温室の地下にある。温室だったら、中庭を抜けた先にある部屋だ」
「なるほど、温室か……。だったら、その温室に入るための方法は?」
「専用の鍵があるが、今はここにない。いつも、温室の植物の手入れを任せている従業員が、自分の部屋に保管しているはずだ」
「やれやれ……。どうやら、当てが外れたみたいね。ここに来たのは、無駄足だったかしら」
男の言葉に、美紅が肩をすくめながら立ち上がった。ここは支配人の部屋。ここに来れば、ホテルにある部屋の鍵の殆どが手に入る。そう思って舟傀儡の群れを退けながら来てみたものの、どうやら期待外れだったらしい。
こうなったら、その温室の手入れをしている従業員の部屋まで行くしかない。だが、もしもその従業員が鍵を持ち歩いていて、更には舟傀儡にされていたらどうだろう。こんな広いホテルの中を彷徨う舟傀儡を探しだし、果てはそのポケットから鍵だけを奪う。いくらなんでも、そこまでの余裕は今の美紅にない。
残念ながら、電源の復旧は諦める他にないか。なんとかして、今のままの状態から七人岬の本体を探しだし、それを祓う他にないのか。
部屋の扉に手をかけて、美紅は男を残し外に出ようとした。これ以上は、この部屋に用はない。そう考えての判断だ。
ところが、そんな美紅の後ろから、先ほどの男が反対に声をかけてきた。何事かと思い振り向くと、そこには男が銀色の鍵を持って立っていた。
「少し待ちたまえ。もしや君は、今から温室の管理人の部屋まで行くつもりかね?」
「いいえ。残念だけど、それは諦める他になさそうね。鍵がないんじゃ入れないでしょうし……仕方ないから、一人で化け物どもの始末でもつけてくるわ」
「なんと……。君のような若い娘に、そんなことができるのかね?」
「馬鹿にしないで。化け物になったあなたを助けたのは私よ。こう見えても、その辺の男よりは数段役に立つと思ってるわ。こと、こんな状況下ではね」
「なるほど。その自信がどこから来るのかは知らんが、ならば私も、その自信に賭けてみることにしよう。温室に行くつもりなら、この鍵を持って行きたまえ。きっと、君の役に立つ」
男の手で、銀色の鍵が鈍く光った。蝋燭の光を反射して輝くそれは、どこかアイスピックやドライバーを思わせる形をしている。少なくとも、美紅が今までに見たことのある家の鍵などとは、大きく形を異にしていた。
「これは、このホテルのマスターキーだ。この鍵ならば、ホテルにある殆どの部屋を開けられる。万が一のときに備えて、この部屋に残しておいて正解だったよ」
「なによ、それ。そんなものがあるなら、出し惜しみしないでさっさと出しなさいよね」
「いや、申し訳ない。だが、こう見えても私はこのホテルを七森社長から任される支配人だ。いくら非常時とはいえ、マスターキーを簡単に他人の手に渡すわけにはいかん。そのことは、わかってくれんかね?」
「へえ、支配人さんか。私の見立て、やっぱり外れていなかったようね」
マスターキーを受け取りながら、美紅は礼を述べる代わりににやりと笑った。
彼女が支配人の部屋に来た理由。それは、このホテルの各所にある、様々な扉の鍵を手に入れること。そのために、あえて舟傀儡にされてしまった、支配人と思しき男を助け出した。
舟傀儡を人間に戻すには、それ相応の霊力を必要とする。人間と、それから海洋生物の肉体よる二重のフィルターを通り抜け、その向こう側にある七人岬の力を討ち祓わねばならないからだ。これから先、どんな相手が待っているのかわからない以上、力の無駄遣いは極力避けたい。美紅が男を助けたのは、まさに苦渋の決断とも言えることだった。
鍵を手に入れ、美紅は改めて部屋の扉に手をかけた。ドアノブを回して扉を開いてみたが、そこに舟傀儡の気配はない。先ほど、それなりに痛めつけてやったからだろうか。この近くを徘徊していたものを含め、今はどこか別の場所に行っているようだった。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわ。でも……電気が戻っても、下手に外に出て動き回ったら駄目よ。あの妙な連中に襲われて、また化け物の仲間にされたくはないでしょう?」
「ああ、まったくだよ。そう言うお嬢さんも、気をつけてな」
「お嬢さんじゃないわ。犬崎美紅よ。運が良かったら、またどこかで会いましょう」
「支配人の村瀬だ。こんなときでなければ、ご挨拶に名詞の一枚でも渡しているところだがね……」
美紅と話している内に、徐々に落ち着きを取り戻してきたのだろうか。村瀬と名乗った男は、ややもすると皮肉っぽいと思われるような笑みを浮かべ、去りゆく美紅に言った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
里村大輝がホテルの東側に足を踏み入れたとき、そこには誰もいなかった。聞こえてくるのは、外の雨の音と自分の足音、それに風と雷の音ばかり。以前、自分たちの前に現れた怪物も、海洋生物の群れも姿を見せていない。
いくらなんでも、これはおかしいと大輝は思った。皐月という少女の話を信じたわけではなかったが、それでもこの静けさは明らかに不自然だ。ホテルの西側で再三にわたって化け物に襲われたことを考えると、ここまで何にも遭遇しないということが、逆に不安を駆り立てる。
もしかすると、自分は待ち伏せをされているのではないか。敵がいないと安心したところで、いきなり後ろから首を刎ねる。その隙を、今もこの暗闇のどこかで、化け物たちがねらっているのではあるまいか。
(へっ、馬鹿らしい。なに、独りでビビってんだよ……)
頭の中に浮かんで来た雑念を振り払い、大輝は心の中で呟いた。あの化け物どもが、知性を持って人を嵌める。そんな高度な芸当など、到底できるはずもない。今までの行動から考えても、あれは単純に目に着いた者を襲う、理性も知性もないただの化け物だ。
化け物どもが、この東側にいない理由。それは大輝にもわからない。他の生存者を探してどこかへ行ってしまったのか、それとも元から東側には、そこまで化け物がいなかったのか。
どちらにせよ、これは好機だ。化け物がいないのであれば、その分だけ探索がしやすくなる。今の内に、探せる場所は全部探しておくに越したことはない。
左側に立ち並ぶいくつもの扉を見て、大輝は静かに首を振った。あそこは駄目だ。あれは従業員たちが使っている部屋で、一般の客が泊まる客室ではない。試しに扉の一つを開けようとしてみたが、案の定、鍵がかかっていた。
念のため、全ての扉を確かめながら、大輝は薄暗い廊下を真っ直ぐに進んで行った。最後に、着き辺りにある扉にさしかかったところで、大輝はそれが今までの扉とは違ったものだと理解した。
この先は、洗濯物を干すための物干し場に通じている部屋だ。このホテルに来たとき、志乃が説明してくれた。本当であれば海で遊んだ後の水着を洗うために向かったであろう部屋に、まさか仲間を探すという理由で訪れることになろうとは。
なんだか妙な気分になりながら、大輝は油断なく扉を開けた。当然だが、鍵の類はかかっていない。奥に化け物が待ち構えているかと思ったが、中を覗いても何の気配もしなかった。
足音を立てないように注意して、大輝はそっと部屋に入る。瞬間、周りの空気が変わったことに気づき、大輝は思わず肩を震わせて身構えた。
「……っ!? なんだよ、これは……」
部屋の空気が、どんよりと湿っていた。だが、湿っているのは空気ばかりではない。
天井、床、そして壁。部屋の至るところが、何かでびっしょりと濡れている。外から雨が入ってきたにしては、濡れ方が妙に不自然だ。その上、あちこちから強烈な磯の香りがして、大輝は以前、ホテルの西側で海洋生物の群れに襲われたことを思い出した。
まさか自分は、あの得体の知れない生き物たちの巣窟に迷い込んでしまったのか。来てはいけない場所に来てしまったことを感じ、大輝は今来た道を引き返そうと試みる。が、次の瞬間、部屋の奥で何かが動いたことに気づき、大輝は金属棒を片手にランプの灯りを向けた。
「だ、誰だ!!」
叫んだところで、相手が化け物なら意味がない。そう思って武器を構える大輝だったが、果たして、部屋の奥から現れた者は、大輝の考えていたような化け物ではなかった。
ピシャ、ピシャ、という水音と共に、暗闇の中から一人の人物が姿を現す。肩まで降りた長髪と、細身で背ばかり高い身体つき。ランプの光に照らし出されたその姿を目の前にしたとき、大輝の口から安堵の溜息が零れ落ちた。
「真嶋か……。なんだよ、脅かすなよな」
大輝の前に現れた者。それは、彼が探していた仲間の一人、真嶋幹也に他ならなかった。蓮と一緒にBARで遊んでいたはずだが、こんな場所に隠れていたのか。それにしても、まったくもって嫌な登場の仕方をしてくれる。もう少しで、化け物と間違えて頭を棒で叩き割ってしまうところだった。
「なあ、真嶋。お前、今は一人なのか? 檜山は……それに、坂本のやつはどうした?」
仲間が見つかったことで安心したからだろうか。大輝は幹也に向かって矢継ぎ早に尋ねていた。今、このホテルがどのような状況にあるのか。他の仲間は無事なのか。知りたいことは、山ほどある。
だが、そんな大輝の様子に反し、幹也は至って冷静だった。否、冷静というには少しおかしい。どちらかというと、大輝の言葉などまったく聞こえていない。そんな風にも受け取れる態度だった。
「なんだよ、真嶋。お前……こんなときまで、格好つけてスカしてんじゃねえよ」
普段から、どこか軽薄な空気の漂う幹也のこと。もしかすると、彼は自分をからかっているのはないか。そう思って、再び幹也に尋ねてみようとしたところで、大輝もいよいよ相手の異変に気が付いた。
幹也は笑っていた。普段、軽いノリで見せる笑顔ではなく、まるでこちらを嘲笑するような不敵な笑み。その瞳はどんよりと紫色に濁り、吐き出す息は生臭い、魚の腐ったようなそれだ。
これは幹也ではない。しかし、今までに出会った怪物とも違う。では、この場にいる幹也の形をした者は、いったい何だ。
気がつくと、恐怖に足がすくんでいた。そればかりか、知らない内に壁際に追い詰められ、もう後がない。その間にも、幹也の姿をしたそれは、じりじりと大輝に近づいてくる。
「なんなんだよ、真嶋……。お前……いったい、どうしちまったんだよ!?」
声をかけても無駄だということは、大輝にもわかっていた。ただ、そうしなければ、今の自分を覆う恐怖に押しつぶされそうで仕方がなかった。
ふと横を見ると、今しがた自分が入ってきた扉が目についた。思わずその扉に手を伸ばそうとした大輝だったが、次の瞬間、そんな彼の手を何かが掠めた。
「うぁっ……!!」
鋭く刺す様な、それでいて焼けつくような激しい痛み。手にした棒を取り落とし、大輝は自分の手首を改めて見る。そこには火傷のような傷がはっきりと残っており、さらには手元にあったドアのノブが、煙を上げて溶けていた。
いったい、これは何なのだろう。自分の身に、何が起きているのか。わけもわからぬままに正面を向くと、そこには幹也が先ほどの不敵な笑みを崩さずに立っている。その顔はいつしか人間のものではなくなっており、口の隙間から鑢のような鋭い牙が顔を覗かせていた。
幹也の姿をした何者かが、大輝の前で深々と息を吸い込んだ。すると、その呼吸に合わせて背中の筋肉が盛り上がり、着ていた衣服が見る見る内に避けてゆく。その全身は魚のような鱗に覆われ、両腕もまた鋭い爪を持った異形の姿に変化した。肘の部分には鋭い棘の生えた鰭ができ、更には首筋に亀裂が入り、それが割れて鰓のような器官が形成される。
黒板を引っ掻いたときにするような、耳障りな声を上げて幹也が吠えた。眼球が裏返り、顔面が縦に避け、鼻が顔の筋肉に取り込まれてゆく。口は大きく耳まで避け、その中から鋭い牙が無数に顔を出し、最後は頭頂部に巨大な鰭が出現する。
数秒と経たない内に、幹也はその姿を不気味な半魚人に変貌させていた。その変身をまざまざと見せつけられた大輝は、思わず空いている方の手で、込み上げる吐き気を押さえて口を覆った。
自分の目の前で、顔見知りの姿が崩れて異形の怪物となる。そんな光景を目の当たりにして、平常心を保っていられるわけがない。
これは幹也ではない。幹也の皮を被った化け物だ。そう、頭の中で割り切って、大輝は落とした棒を拾おうと手を伸ばした。こんなもので勝てるとは思わないが、丸腰で立ち向かっても殺されるだけだ。最悪、勝てないにしても、なんとか逃げ出す隙を作らねば意味がない。
そう思って大輝が金属棒に手を伸ばした瞬間、半魚人が大きく口を開けて何かを吐きだした。それは大輝が拾おうとした金属棒に命中し、白い煙を上げて見る間に棒が溶けだしてゆく。
先ほど、大輝の腕を掠め、ドアノブを溶かしたものの正体。それは、幹也の姿をした怪物が、口から吐き出したものだったのだろう。金属を容易に溶かしてしまうことからして、恐らくは強力な酸の類だろうか。だとすれば、あれをまともに食らってしまえば、見るも無残な白骨死体の出来上がりだ。
武器を失い、最早戦う術さえ残っていない。万事休すといったところだったが、大輝はまだ、心の底では諦めていなかった。
怪物と自分の距離は、数メートルと離れていない。これだけ近くにいれば、あの酸でこちらを簡単に溶かせるはずだ。もしくは、その両手に備えた鋭い爪で、瞬く間に首筋を刈ることもできるだろう。
では、そんな状況にも関わらず、目の前の怪物が大輝を殺さない理由は何か。考えられることは、ただ一つ。
(こいつ……遊んでやがるのか?)
こちらを殺さず、純粋に甚振ることを楽しんでいる。ネコがネズミを散々に遊んでから殺すように、こいつはこちらが苦しむのを見て喜んでいる。
全てを諦めかけていた大輝の心に、ふつふつと怒りの感情が湧いてきた。同時にそれは、彼を生へと繋ぎ止めるための原動力となる。
こんなところで、玩具同然に弄ばれた揚句、殺されてたまるものか。じりじりと迫る半魚人を前に、大輝は壁伝いに横へ移動してゆく。少しでも気を抜けば、次に相手が何をしてくるかわからない。その緊張感が、返って大輝を冷静にさせる。
半魚人の口が大きく開かれ、その中から再び酸が吐き出された。それが顔にかかる寸前、大輝はなんとか身を翻して攻撃をかわす。壁の溶ける嫌な匂いがして、大輝の鼻腔を刺激した。
やはり、相手は遊んでいる。現に今も、その気になれば大輝に酸の直撃を食らわせることができたであろうに。怪物の、あまりに余裕な態度に腹が立ったが、それは同時に大輝にとってのチャンスだった。
相手が自分を甘く見ているからこそ、付け入る隙もまた存在する。そう思って足下を見ると、そこには洗濯用の粉石鹸が積んであるのが見えた。恐らく、この場所に設置された洗濯機で使用するためのものだったのだろう。
もう、賭けるにはこれしかない。大輝はすかさず粉石鹸の入った箱を取ると、それを勢いよく怪物の頭目掛けて投げつけた。白い粉が辺りに撒き散らされ、それは怪物の顔に覆い被さるようにして降り注ぐ。
再び、耳をつんざくような甲高い声がした。突然の反撃に驚いたのか、それとも、やはり石鹸が目に沁みるのか。
どちらにせよ、このチャンスを逃すわけにはいかない。大輝は顔に着いた粉を払う怪物を他所に、目の前にある階段を走って昇った。
この上に上がれば、そこは三階。高い所に逃げるのが、果たして正しいことなのか。今は、そんなことを考えている余裕はない。
水浸しにされた部屋を後に、大輝は三階への階段を駆け上がる。後ろを振り返っている暇などない。あの怪物がどうなったかなど、確かめている余裕も無い。
三階へ上がると、そこは小さな個室になっていた。目の前には、外に出るための一枚の扉。これを抜ければ、あの怪物から逃げられる。
扉に手をかけ、大輝は祈るような気持ちで取っ手を回した。この扉の向こうは物干し場。一応は外に通じる場所だけに、例の如く海藻に覆われているかもしれない。だとすれば、もしかすると扉は固く封印されているかもしれない。
もし、ここで扉が開かなかったら、自分は階下の怪物に追い詰められて殺されることになる。こんな狭い部屋では、逃げる場所も隠れる場所も無い。追い詰められたが最後、そこに待つのは死の現実のみ。
(頼む……! 開いていてくれ!!)
そう、大輝が心の中で叫んだとき、カチッ、という金属音がして扉が開いた。
地獄に仏とは、まさにこのことを言うのだろう。大輝は扉が開くや否や、後ろも見ずに外へと飛び出した。
外に出た途端、大輝は大粒の雨と強い風による洗礼を受けた。そういえば、外は激しい嵐だった。物干し場も例外ではなく、叩きつけるような雨が降り、容赦なく大輝の身体を打つ。
このままでは、今に風邪をひいてしまう。それに、ぐずぐずしていると、下にいた怪物が追いかけて来ないとも限らない。
風に揺れるランプの灯りを頼りに、大輝はそっと物干し場から下を覗いてみた。
高い。思った以上に、ホテルの三階から下までは距離がある。こんな場所を飛び降りて逃げられる者などおらず、ここからの脱出は諦めねばならないようだった。
(それにしても……)
眼下に広がる暗闇に吸い込まれそうになりながら、大輝は心の中で呟いた。
(なんで、この場所だけ、扉が封印されていなかったんだろうな……)
外に通じる扉は、全て海藻でがんじがらめにされている。あの、犬崎美紅という女の話によれば、怪物がこちらを逃がさないようにするための措置らしい。しかし、そうであるならば、物干し場の扉がこうも容易く開いたのはなぜだ。封印するなら封印するで、ホテルの外に通じる出入り口を全て封じなければ意味がないというのに。
やはり、あの女の言っていることは間違いだったのか。妖怪がどうしたという話をしていたが、この騒ぎはそんなものとは関係ない、もっと別のところに原因があるのではないか。
美紅に対する疑念から、大輝はふとそんなことを考えた。そして、彼が再び新たな脱出路を探そうと振り返ったとき、その目の前に巨大な塊が降ってきた。
ドスッという重たい音と、物干し場で水の跳ねる音。その二つが混ざり合い、大輝の緊張が一気に高まる。目の前に落ちて来た黒い影。それは、あの二階のコインラインドリーで見た、半魚人の化け物にそっくりだった。
「おいおい、冗談だろ……」
突如として目の前に現れた化け物に、大輝はそう言って後ずさった。今、自分の前にいる化け物は、あの幹也が変身したものとは似て異なる。目玉は黄色ではなく赤く光り、その身体も頭一つ分だけ大きい。肌の色も薄暗く、暗緑色に近い緑色をしていた。
雷鳴が轟き、その音を合図に怪物が吠える。その叫びに呼応するようにして、壁に張り付いていた海藻が次々に伸びて行く。それは大輝が先ほど出て来たばかりの扉を封じ、更には物干し場から三階の廊下へと続く出入り口も封印した。
「くそっ! しまった……!!」
気がついたときには、もう既になにもかもが遅すぎた。自分は怪物の魔の手から逃れたと思っていたが、逆にまんまと策に嵌ってしまったらしい。
あの、幹也に化けていた半魚人の真の狙い。それは大輝を、この物干し場に誘導することだった。なぜ、大輝をここに追い詰めて、わざわざ仲間に襲わせるのか。その理由まではわからないが、少なくとも、本気で攻撃してこなかったことへの説明はつく。
半魚人の手が大きく振りかぶられ、大輝は身体を捻るようにして左に転がった。振り降ろされた爪は大輝がいた場所を大きく抉り、物干し場の手すりに深い傷ができていた。
渾身の一撃を避けられて、怪物が憎々しげな顔をして大輝を睨む。その顔は魚そのものだというのに、相手が何を考えているのか、大輝にもはっきりと伝わってきた。
続く第二撃を放つ前に、怪物は再び天に向かって吠えた。すると、今度は扉を封印していた海藻が外れ、それは大輝の手や足に絡みついてくる。
「ち、畜生! 離せ! 離しやがれ!!」
大声で叫び、もがき、更には持てる全ての力を使い、大輝は海藻を振り解こうと暴れた。が、どれほど叫ぼうと、暴れようと、今の大輝はクモの巣に捕えられた哀れな獲物に過ぎない。彼の手足に絡みついた海藻は、もがけばもがくほどに、その手首や足首を執拗に締め付けてくる。
激しい雨と風の中、赤く光る瞳だけが揺れている。徐々に近づくその足音は、まさに死刑執行の秒読みに等しい。
やがて、完全に大輝を己の間合いに捕えたところで、その怪物は大輝の胸目掛け、容赦なく左腕を突き出した。鋭い爪が一点に集束し、人間の常識を越えた怪力によって繰り出された一撃は、大輝の胸板をいとも容易く貫いた。
ゴボッ、という音がして、大輝の口から大量の血が溢れ出した。その瞳は徐々に光りを失い、大輝は最後に己の軽率さを後悔した。あの女、犬崎美紅の言っていた通り、談話室で大人しく待機していればよかったと。
漆黒の空より降り注ぐ大粒の雨が、大輝の胸から溢れ出る血を洗い流してゆく。その間にも、怪物は自らの腕を更に深く大輝の身体に突き刺して、その奥で脈打っていた心の臓を握り潰す。
最後に全身を軽く痙攣させ、里村大輝の瞳から完全に光が消えた。だが、それと同時に怪物もまた、その身体に変化が現れ始めた。
全身を鱗に覆われた屈強な肉体。暗緑色の色をしたそれが、徐々に萎んで干からびてゆく。まるで、大輝の身体に中身を吸い出されるようにして、怪物の身体は風船のように萎んでゆく。
それは、あまりに不可思議で、同時に禍々しい光景だった。かつて、里村大輝であったものの体内に、怪物の力が流れ込んでゆく。それにより、怪物は己の全てを大輝へと植え付け、自らは土塊のようになって消えてゆく。
やがて、その全身が完全に朽ち果ててしまったとき、怪物は砂のようになって大輝の足下に崩れ落ちた。そして、朽ち果てた怪物の身体が雨に流され始めたのを合図に、大輝の瞳が再び大きく開かれた。
嵐の中、新たな生を授かった大輝は、ゆっくりと立ち上がって顔を上げた。その瞳には、既に人間の色と輝きはない。あるのは底知れぬ深い闇を湛えた、どす黒い血のような色をした深い赤。あの、犬崎美紅の瞳を更に邪悪にしたような、渇望に溢れた瞳だった。
己の身体の具合を確かめるようにして、大輝は二、三度、その手を握ったり閉じたりした。その側には、いつの間に現れたのだろうか。半魚人の姿から人のそれに戻った幹也が、例の薄笑いを浮かべて立っていた。
変身によって服が破れ、今や腰回りにズボンが残っているだけの姿は、どこか滑稽に映るものがある。もっとも、怪物に成り果てた今となっては、そんなことはあまり関係のないことだったが。
天より降り注ぐ大雨を全身に受け、幹也と大輝が大きく吠える。ガラスを擦り合わせた様な不快な音がして、幹也と大輝の瞳が、それぞれ不気味な黄色と赤色に輝いた。