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~ 巳ノ刻  絶望 ~

 暗い、埃の匂いのする部屋の中で、檜山蓮はポケットからライターを取り出して火を点けた。


 赤く燃える炎が辺りを照らし、蓮は自分たちのいる場所がどこかのかを確認する。辺りに散乱しているのは、飾られていない絵や様々な道具。どうやら倉庫のような場所らしく、部屋の広さに反して窮屈に感じられる場所だった。


「倉庫か……。これはまた、随分と奥まった場所に逃げ込んでしまったな」


 逃げたつもりが追い詰められた。その事実に苦笑しながらも、心の中では決して笑ってなどいなかった。


 展示室で自分たちを襲ってきた、半魚人のような謎の化け物。その魔の手から自分と、そして千鶴を逃すために、幹也は独り囮となった。


 何の武器も持たない幹也が、果たしてあの怪物から逃げ切ることができるのか。その答えは、蓮にも十分にわかっている。あんな化け物を相手にして、無事でいられる人間などいるはずがない。


 だが、それだからこそ、蓮は幹也の気持ちを無駄にしたくはなかった。普段は軽薄そうな態度を装っているが、幹也が仲間を想う気持ちは人一倍強い。中でも自分の惚れた相手に対する想いの強さは、蓮も今までの付き合いから知っている。


 幹也の行動を、無意味な物にしてはならない。そう、自分に言い聞かせて、蓮は隣にいる千鶴を見た。


「坂本……」


 蓮の足下で、千鶴は顔を手で覆って泣いていた。普段の気丈な様子からは、決して想像できない脆い姿。それを見てしまった蓮の心に、一抹の罪悪感のようなものが浮かんできた。


「どうして……。どうして、幹也を置いて逃げたのよ!!」


 突然、千鶴が蓮につかみかかってきた。涙に濡れた顔のまま、千鶴は蓮の胸倉をつかんで問いただす。


「すまないな、坂本。でも、あの状況では仕方がなかったんだ……。真嶋の気持ちを無駄にしないためには、こうするしか……」


「嘘よ! だったら、檜山先輩は、どうしてこんなに平然としていられるの!? あいつが……幹也が、死んじゃったかもしれないのに!!」


「それは……」


 自分だって、平気なわけではない。そう言いたかったが、言葉が口から出てこない。


 何も言えない蓮に向かい、千鶴はその顔をにらみつけたまま扉に向かった。今は箒の柄をひっかけて入口を封印しているが、千鶴はそれに手をかけて、怪物のいる展示室に戻ろうとする。


「よせ、坂本! それを外したら、あの化け物が入って来る!!」


「どうせ同じよ! こんなところに隠れていたって、すぐに見つかるわ!!」


「だからって、死に急ぐような真似をしてどうするんだ! ここは一度身を隠して、逃げるチャンスを……」


「うるさいわね! いくら先輩だからって、幹也を見捨てて逃げるような人に言われたくないわよ!!」


 もう、蓮が何を言っても無駄だった。千鶴は蓮の腕を振り解き、扉を開けようと棒に手をかけた。それを見た蓮は、何も言わずに千鶴の肩をそっと叩く。そして、鬱陶しそうに振り向いた千鶴の頬を、何の躊躇いもなく引っ叩いた。


 乾いた音が、倉庫の中に響き渡る。いきなり平手を食らうなど思っていなかったのだろう。さすがの千鶴も目を丸くして、憎まれ口も言えなくなっていた。


「いいかげんにしろ、坂本……。真嶋が……あいつがどんな気持ちで、俺にお前のことを託したのか……。お前には、それがわからないのか?」


「な、なによ……。だから、なんだっての!?」


「あいつは、お前に死んで欲しくなかったんだよ。だからこそ、自分から囮を引き受けるような真似をしたんだ。それなのに、お前はそんな真嶋の気持ちを無視して、自分から死のうってのか? だとしたら……いくらお前が後輩でも、それに女でも、俺はお前のことを許さない」


 いつになく真剣な眼差しで、蓮は千鶴に向かって言い放った。眼鏡の奥で、一点の曇りもない瞳が光って見える。その言葉と、彼の平手による一撃を受けて、千鶴もようやく落ち着きを取り戻したようだった。


「とりあえず、あの化け物が入って来られないようにバリケードを組もう。この部屋にあるガラクタを使えば、事は足りるはずだ」


 ライターの火を片手に、蓮はそう言って千鶴から離れた。床下に火を向けて辺りを探ると、油性のマジックが転がっているのが見てとれた。


(これは使えるな……)


 心の中で呟いて、蓮はマジックを拾い上げる。キャップを外して匂いを嗅ぐと、まだ仄かにインクの香りが残っている。


 これならば、蝋燭代わりになるだろう。油性マジックはアルコール分を含むため、地震のような緊急時の際は、灯りの代わりを務めることができる。以前、何かの本で読んだ知識を思い出し、蓮はライターの炎をマジックの先端に移した。


 一瞬、何かの焦げるような匂いがして、マジックの先に明かりが灯る。それを掲げて千鶴の方へ向き直ると、蓮は千鶴の手を取って、その中にマジックを握らせた。


「明かりはそっちで確保していてくれ。俺はバリケードで扉を固める」


 同意など確認している暇はない。蓮は千鶴の手にマジックを押し付けると、その明かりを頼りに部屋の中のガラクタを拾っては扉の前に組んでゆく。


 使われなくなった椅子や机、誰が描いたのかもわからない絵画、それに、埃を被った石膏像。様々な物を積み上げて、蓮は扉を封印する。途中、箒のようなもので全体を支え、最後に部屋の奥にあった長机を立掛けて完成とする。


 時間にして、十分はかかっていないはず。が、随分と体力を消耗してしまった気がしてならない。普段、力仕事などし慣れていないためか、思ったより疲労が激しかった。


 だが、とりあえずはこれで、あの怪物が部屋に入って来ることだけは防げるか。一仕事終え、蓮は額の汗をそっと腕で拭う。そのまま何気なく部屋の隅に目をやったところで、彼の瞳が大きく見開かれた。


「あれは……」


 思わず、言葉が漏れていた。蓮の瞳の見つめるその先には、展示室へと続く扉とは、また別の扉が姿を現している。


 ガラクタに邪魔されて、部屋に入ったときには気づかなかったのだろう。ここに入ったときに使った扉とは違い、向こうは普通のドアノブがついた扉だった。


 あの先は、果たしてどこに繋がっているのだろう。それは蓮にもわからないが、このまま倉庫に閉じこもっていても仕方がないことくらいは理解している。


 どの道、追い詰められていることには変わりない。蓮はその場を千鶴に任せると、ガラクタの奥から姿を見せた扉にそっと手をかけた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 談話室。ホテルの二階に設けられた小さな部屋の前に、宗助は再び戻って来ていた。


 美紅の話では、あの皐月という少女は彼女の知り合いとのことだ。ならば、あんな部屋に隠れているよりも、美紅と一緒にいた方が安全だろう。そう考えて、宗助は渋る大輝をなんとか説得し、ここまで美紅を案内した。


 武器も、仲間も、それに脱出経路さえも確保できていない状況。事態はまったく好転していないが、それでも宗助には一抹の希望があった。


 隣にいる女の瞳が、闇の中で赤く光っていた。犬崎美紅。その特異な容姿もさることながら、彼女は舟傀儡を数体まとめて倒すだけの実力を持ち合わせている。正直、こんな状況下では、自分などよりよっぽど頼りになると思えてくる。


「ここが談話室か。この先に皐月ちゃんと、あなたのお友達がいるってわけね」


「ああ、そうさ。いくらなんでも、女の子を同行させるわけにはいかなかったからな。二人には悪いけど、部屋に残ってもらっていたんだ」


 事情を手短に説明し、宗助は談話室の扉の前に立つ。恐らくは、向こう側から鍵がかかっていることだろう。


 まずはこちらの存在を、相手に知らせた方がよかったか。そう思い、宗助が扉を軽く叩こうとしたとき、彼は何やら妙な違和感を覚えて手を引っ込めた。


(これは……)


 扉が開いている。しかも、中途半端に半開きな状態で。


「美南海! 皐月ちゃん!!」


 頭の中を、嫌な予感が駆け廻る。次の瞬間には、宗助は二人の名を呼んで、部屋の扉を開け放っていた。


「そ、そんな……」


 懐中電灯の明かりが、部屋の中を淡く照らした。だが、そこにあったのは、かつての談話室の姿ではない。およそ二人がいたときには考えられないほどに、部屋の中は酷く荒らされて散らかっていた。


 ひっくり返ったソファーの横に、これまた火の消えたランプが倒れている。窓ガラスは割られ、外からは雨と風が激しく部屋に拭き込んでいる。窓を覆っていた海藻は部屋の中にまで侵入し、その先端が天井や床に達したところで、ようやく成長を止めていた。


 壁に明かりを向けると、そこには大きな爪跡のような傷が走っていた。当然、四人でこの部屋にいたときは、こんな物はついていなかった。


 割れた窓から吹き込む雨と風が、嘲笑うかのようにして宗助の頬を打つ。ガラスの割れ方からして、外から何かが侵入して来たのは明白だ。その、侵入して来たものがなんなのか。はっきり言って、想像できないし、したくもない。


 自分たちのやったことは、全て無駄だったのか。このホテルの中に、もう安全な場所などどこにもないのか。


 絶望。その二文字だけが、宗助の頭の中を回っていた。それは大輝も同じようで、先ほどまでの強気な雰囲気は影を潜めていた。


 だが、そんな中で、美紅だけは冷静に辺りの様子を窺っていた。割れたガラスの破片、壁についた爪跡、それから散乱した道具や外の様子。余すところなく見て回ると、手にした木刀を肩に担いで言った。


「さあ、行くわよ。いつまでも、こんな場所で遊んでいる場合じゃないわ」


「遊んでいるって……あんた、この状況がわかんないのかよ!? 美南海も、皐月ちゃんも、二人とも殺されちまったかもしれないんだぞ!!」


「慌てないで。確かに、二人は何者かに襲われたのかもしれないわ。でも、この部屋には争った跡も血痕もない。だから、希望を捨てるのは、まだ早いんじゃない?」


「そんなこと言ったって……それで、二人が無事だっていう保証なんて、どこにも……」


「だったら、あなたはここで諦めるの? まだ生きているかもしれないお友達を見捨てて、このまま怪物の餌食になるのを待つ? 申し訳ないけど、私はごめんだわ」


 慰めも同情も無い口調で、美紅は宗助に向かって言い切った。その赤い瞳の奥には、未だ消えぬ希望の灯が揺らめいている。最後の最後まで、決して諦めることをせずに立ち向かう。そんな信念を秘めた、熱い炎のような色だった。


「とりあえず、まずは電源の確保が優先ね。私はともかく、この暗闇の中では、あなたたちより敵の方が上手よ」


 未だ立ち尽くしたままの宗助と大輝を無視し、美紅は淡々とした口調で話を進める。その言葉を言い終わらない内に、彼女は自分の外套のポケットから、数枚の護符と泥団子のようなものを取り出した。


 取り出した護符と団子状の物体を、美紅は宗助の手に強引に握らせた。護符は上質の紙に梵字で何かが書かれており、その辺の神社で売られているような大量生産品とは違った物々しさがある。団子の方は、これは子どもが砂場で作った泥団子とでも言えばいいのだろうか。形は酷く不格好で、少しばかり火薬のような匂いがした。


「ちょ……なんだよ、これ? なにかのお守りか?」


「いいえ、違うわ。これは、あなたたちが怪物から身を守るための武器よ。素人にも使える退魔具だから力は弱いけど、護身用くらいには役立つわ」


「護身用って……まさか、俺たちにも怪物と戦えって言うのか!?」


「そうよ。私はこれから、このホテルの電源を復旧させるために動くつもりなの。悪いけど、その間はあなたたちのことを守っている余裕なんてないからね。だから、万が一のときに備えて、一応の武器だけでも渡しておこうと思って」


 困惑する宗助を他所に、美紅はさらりと言ってのけた。こんな護符と泥団子で、本当にあの怪物、舟傀儡と戦えるのか。どうにも胡散臭さが抜けず、宗助も大輝も手渡された物をなんとも言えぬ表情で見つめている。


「えっと……犬崎さん、とか言ったよな。こんな紙切れと泥団子で、本当にあの化け物が退治できるのか?」


 札と美紅の顔を交互に見ながら宗助が尋ねる。美紅の力は宗助も間近で見せられたが、それでも自分があのように戦えるかと問われれば、それは否だ。美紅の言う霊能力の是非は別にしても、あそこまで無駄のない動きで、何人もの舟傀儡を相手に戦え抜ける自信はない。


 だが、そんな宗助の気持ちを見越してか、美紅は相変わらず表情一つ変えようとはしなかった。彼らに渡した札と団子。その二つを指差して、独り勝手に説明を始めた。


「まず、誤解して欲しくないんだけど……あなたたちに渡したのは、あくまで護身用の武器よ。もしも怪物に襲われたとき、それを使って逃げるためのもの。それ以上でも、それ以下でもないわ」


「護身用か……。でも、俺たちは別に、あんたみたいな霊能力者ってわけじゃないぜ。こんなお札なんか渡されても、役に立つかどうか……」


「それは大丈夫よ。その護符は、使用者の力に関係なく効力を発揮するようなものだから。舟傀儡の身体にでも貼り付ければ、しばらくの間、動きを止めるくらいはできるでしょうね」


「動きを止めるって……完全に倒せないのかよ!!」


 今まで会話に参加していなかった大輝が唐突に叫んだ。武器を渡され、これで安心できると思った矢先に、聞かされた効力があまりにお粗末だったこと。そのことが、彼の焦りと憤りを加速させていた。


「残念だけど、なんの力も持たないあなたたちじゃ、その護符を使って逃げ回るのがせいぜいね。でも、さすがにそれだけじゃ心許ないでしょうから、大サービスでオマケもつけておいたわよ」


 そう言って、美紅は宗助と大輝の手に握られている泥団子に視線を移した。ちょうど、ピンポン玉くらいのサイズがある、なんとも不格好な土塊の塊。見た目以上の強度があるのか、ちょっと突いた程度では崩れそうにない。が、それでも妙に粉っぽく、握っているだけで手がザラついてくる。


「それは、霊的な相手に対して効果を発揮する目くらましなの。一定以上の衝撃が加わると、強い光が発生して相手を怯ませるわ。舟傀儡みたいなのが相手なら、まとめて失神させるくらいはできるわよ」


「失神って……結局、これもコケ脅しかよ……」


 大輝の肩が、がっくりと落ちた。もう、これ以上は話を聞く気も起きない。そう言わんばかりの表情で、その場に転がっているソファーの上に座り込んだ。


 犬崎美紅から渡された武器は、どちらも舟傀儡を倒すためのものではない。まあ、舟傀儡は七人岬に操られているだけであり、元々は人間である。憑依さえ解ければ元に戻ることを考えると、こういった動きを封じる道具の方が、返って遠慮なく使えると考えてのことかもしれない。


 もっとも、そうは言えど、所詮はコケ脅しのハッタリだ。舟傀儡の中に巣食う、彼らの大元とも言える存在。七人岬に操られた海洋生物を倒すための術を、今の宗助たちは持ち合わせていない。


 これから先、美紅と別れて、自分たちは無事にホテルを脱出できるのだろうか。宗助の不安は未だ消えなかったが、ここは美紅を信じるしかない。


 今しがた入ってきたばかりの扉を開け、美紅が廊下へと一歩を踏み出す。その後ろ姿を見た宗助は、ハッとした表情で顔を上げ、彼女のことを引き留めた。


「あ、あの……」


「どうしたの? まだ、私に何か聞きたいことがある?」


「いや、そうじゃないんだ。ただ……さっきは、ちょっと悪かったって思ってさ。本当は、俺たちがしっかりしないといけないのに、なんか取り乱しちゃって……」


「なんだ、そんなこと。それなら別に、気にしないわ。私はこういった状況にも慣れているけど、あなたたちは、あくまで普通の大学生なんだしね」


 宗助に背を向けたまま、美紅はさらりと言ってのける。外から窓を抜けて入ってきた風が、美紅の白金色の髪に触れて揺らした。


「それじゃあ、私はちょっと行ってくるわ。二人とも、妙な責任感じて無茶なことしたら駄目よ。まずは自分の安全を第一に考えて、やたらに動き回らないようにね」


「ああ、わかったよ。色々と、ありがとうな、犬崎さん」


「美紅でいいわ。あなたこそ、自分が狙われているっていう自覚を持って、無謀な行動は控えるのよ」


 まるで姉か保護者のように、美紅は宗助に向かって言った。最後、彼の前から去る際に、少しだけ後ろを向いて、赤い瞳で彼を見ながら。


 雷鳴が轟き、その光が一瞬だけ闇の中にいる美紅を照らす。白色の肌に赤い瞳。闇の中に漂う幻影のように、その二つがぼんやりと浮かび上がる。


 木刀を握る手に力を込めて、美紅は光りの射さない廊下の奥へと向かって歩き出した。目指すは一階にあると思われる、このホテルの電源を司る場所。例え主電源が落ちていたとしても、せめて予備電源さえ復旧させれば、少しは勝手も変わるはずだ。


 窓ガラスを叩く風の音と、大地を穿つ雨の音。それらの激しい音に混じり、廊下を歩く美紅の足音が、徐々に遠くなっていった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 廊下に出ると、そこは一面の闇だった。時折、窓から射し込む稲妻の光が床を照らすものの、それも一瞬のこと。すぐに光りは失われ、廊下は再び暗闇に包まれる。


 目印も無く、灯りも無い。そんな暗黒の世界の中を、犬崎美紅は確かな足取りで歩いていた。闇の中、彼女の赤い瞳だけが、僅かな光りを反射して煌々と輝いている。それは時に、獲物を狙う夜行性の肉食獣を思わせる鋭さを持ち、敵の襲撃を油断なく警戒して回る。


 先天的な病のせいか、それとも内に秘めた強大な霊能力の副作用か。美紅の瞳は、日中の太陽の光の下では、その力を十分に発揮しない。反面、光りのない暗闇の中でこそ、その真の力を十二分に発揮する。


 深夜の森を、獲物を探して飛ぶふくろうのように、美紅の瞳は目の前にある全てを鮮明に捕えていた。自分が今、どのような場所にいて、廊下の作りがどうなっているのか。目の前にある物体は何で、辺りに敵の気配があるか否か。


 光などなくとも、今の美紅には全てが見える。日中はぼやけて見えにくかった景色でも、今は手に取るようにはっきりとわかる。その瞳はときに、普通の人間では捕えることのできない、向こう側の世界・・・・・・・に生きる住人たちの存在までをも見極める。


 石像の倒れていた廊下を抜けたところで、美紅はしばし足を止め、辺りの様子を窺った。


 今、彼女がいる場所は、一階に続く西階段のある廊下だ。西階段は一階と二階を繋いでいるだけで、三階までは伸びていない。その代わり、階段の上は吹き抜けのような造りになっており、上を見上げると三階の天井が顔を覗かせる。


 もともとは、同じ場所に隣接した部屋の、暖炉の煙を抜くために設けられた場所だったのだろう。吹き抜けに煙を垂れ流しているわけではないのだろうが、構造上、階段を増設できなかったに違いない。


 もっとも、今の美紅にとって、そんなことはどうでもよかった。この場所は、三階で宗助たちに襲いかかった、舟傀儡の本体が群れていた場所に繋がっている。やつらが遠くへ逃げていないというのであれば、いつ奇襲されてもおかしくはない。


 舟傀儡の本体は、七人岬の力を宿した小型の海洋生物だ。一匹ずつでは大した力を持たず、美紅でなくとも余裕で捻りつぶすことができる。


 だが、もしもそれが群れとなり、いきなり死角から襲いかかってきたらどうだろう。さすがの美紅も、その攻撃の全てを防ぎきる自信はない。そして、一匹も体内に侵入を許してしまえば、最悪の場合、自分もまた舟傀儡の一人として、七人岬に操られる存在に成り果ててしまう。


 吹き抜けの上を見上げるような形で、美紅は天井に目をやりながら歩を進めた。右手に握る木刀に力を込め、そっと足音を立てずに階段を下る。


 先ほどから、辺りには何の気配もない。あの、宗助たちを襲った海洋生物の群れは、どこかに逃げ出してしまったのだろうか。


 いや、油断は禁物だ。なにしろ、相手は人間の常識を越えた、怪物の力を持った生き物たちだ。連中が、ときにこちらの常識を覆すような行動をとることは、美紅も仕事柄、今までの経験から知っている。


 階段を下り終え、一階に辿り着いたところで、美紅は急に辺りの空気が変化したことに気がついた。暗く湿った、磯の香りのする風が鼻先をくすぐり、ホテル全体を包んでいる陰の気が、一際強まったような気がした。


(この先にいるわね……)


 敵の気配を感じ取り、美紅は廊下の先へと目を凝らす。赤い瞳が大きく見開かれ、その瞳孔の中に、闇の奥で蠢く者たちの姿が映し出される。


 階段を降りて左側、洋館の中央に続く廊下の奥に、美紅は複数の舟傀儡が待ち構えているのを確認した。次なる獲物を探して彷徨っているのか、それとも主である七人岬の命を受け、何らかの目的を持ってこの場に集まってきているのか。


 どちらにせよ、あれを突破せねば先に進めそうにはない。美紅は手にした木刀を構えると、暗闇に支配された廊下を一直線に駆け抜ける。


「せいっ!!」


 瞬間、空気を切り裂く音と共に、舟傀儡に木刀の一撃が放たれた。相手が気づく前に、後ろから一気に畳み掛ける。多対一の戦いにおいては、奇襲こそが最も有効な先方となる。


 案の定、美紅の乱入によって、舟傀儡たちは一斉に取り乱した素振りを見せた。理性を失い、思考らしきものの片鱗さえ感じさせなくなっても、多少は感情が残されているのだろうか。


 木刀を相手の首筋に叩きこんだまま、美紅はその刀身に意識を集中して力を込めた。刀身に刻まれた梵字が赤く発光し、その力は木刀を通じて舟傀儡の体へと流れ込む。美紅の力を流しこまれた舟傀儡は、口から泡を拭きだしたまま、だらしなくその場に倒れ込んだ。


 霊木刀れいぼくとう。それは所持者の霊能力に感応して力を増す、退魔武器の一種だった。実態を持たない霊的な存在に対し、刀のような物理的な攻撃は通用しないことが多い。だが、刃の有無に関係なく、強い霊力を込めた物体であれば話は別だ。


 足下に倒れている舟傀儡の頭を蹴飛ばして、美紅は次なる襲撃に備え武器を構え直した。今度の相手は、元はホテルの従業員だろうか。白目を剥いた制服姿の女が、口から涎を撒き散らしながら美紅に襲いかかる。


「甘い!!」


 繰り出された女の腕を横に飛ぶことでかわし、美紅はその首筋に霊木刀を叩き込んだ。剣先が相手に触れた瞬間、やはり同様に自分の力を相手に流し込んで気絶させる。美紅の一撃を食らった女は一瞬だけ身体を震わせたが、すぐに床に這いつくばって、そのまま動かなくなってしまった。


「これで二匹か……。正直、きりがないわね、これじゃ」


 廊下の奥から更に集まって来る舟傀儡の姿を見て、美紅は辟易した様子で言った。


 舟傀儡は、その特性上、普通に戦って倒すことが難しい。人間の肉体と、それから体内に潜む七人岬の力を宿した海洋生物。それら二つがフィルターとなり、七人岬の呪縛に対して直接力をぶつけることが困難になる。


 では、一体ずつ呪いを解除して行けばよいかというと、そういうわけにもいかない。解呪にはそれ相応の時間と霊力を消耗するため、群れで襲いかかって来る相手に対してのんびりと呪いを解いている暇などない。


 憑依された人間を極力傷つけず、かつ相手の動きを止めること。そのためには、相手に霊木刀のような武器で触れて、直接力を流し込むしかない。解呪まではいかないのだろうが、それでも体内にいる海洋生物を気絶させる程度のことなら可能なはずだ。今の美紅が彼らにしてやれることは、そのくらいしか見当たらない。


 このまま戦っていてもじり貧だ。それに、いくら舟傀儡を倒したところで、本体である七人岬を倒さなければ意味がない。


 こうなったら、一か八かだ。美紅は群がる敵の中に身を躍らせると、その隙間を塗って一直線に駆けだした。


 獲物がこちらに向かってくるのを見て、舟傀儡が一斉に吠えた。本能のままに、美紅を仲間に取り込もうと、一斉に手を伸ばして襲いかかる。が、美紅はその手を紙一重で避け、代わりに木刀の先を容赦なく相手の腹に突き立てた。


 ぐにゃっとした、水風船を突いたような感触が手に伝わり、美紅は思わず不快な表情を露わにして木刀を引いた。吹き飛ばされた舟傀儡は後ろにいた者達をも巻き込み、廊下に一瞬だけ道ができた。その僅かなチャンスを、美紅は決して見逃さない。


 倒れた舟傀儡の頭を踏みつけるようにして、美紅は敵の間をすり抜けるようにして駆けた。その行く手を無数の手が阻もうとするが、それらが美紅の身体を捕えることはない。


 腰を低く屈め、相手の攻撃をかわしたところで、美紅は振り向きざまに強烈な回し蹴りを放って見舞った。予想もしなかった相手の反撃を受け、一番近くにいた舟傀儡が横薙ぎに吹き飛ぶ。そして、美紅はさらに身体を捻ると、続く二発目の蹴りを、やはり自分の側にいた舟傀儡の腹部に見舞った。


 肉と肉がぶつかる鈍い音がして、女の舟傀儡が宙を舞った。その身体は壁に叩きつけられ。ずるずると下に落ちて行く。が、痛みなどまったく感じていないのだろうか。すぐにその場で立ち上がると、再び美紅の方を見て低い唸り声を上げた。


 やはり、このままでは勝機が見えない。とくに体力という点では、相手の方が数段上だ。完全な操り人形と化している舟傀儡は、その体力もまた無尽蔵と考えていい。


 再び動き出した舟傀儡を前に、美紅は躊躇うことなく廊下を蹴って逃げ出した。あんな数を相手にしていては、今にこちらの方が先に力尽きてしまう。それに、例え無限の力があったとしても、時間を無駄遣いするわけにはいかなかった。


 曲がりくねった廊下を抜け、美紅は聖堂の脇を北に走った。幸い、こちら側に舟傀儡はいないようで、一度包囲網を抜けると後は楽だった。


 聖堂の真横、なにやら立派な扉が備え付けられた部屋の前で、美紅はゆっくりと立ち止まって扉を見た。そこに書かれている支配人室の四文字を見て、美紅は自分が目的の場所に辿り着いたことを理解した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 談話室。


 破られた窓から吹き込む風雨を頬に受けながら、宗助と大輝は未だ部屋の中にいた。散乱した椅子やテーブルと、それに壁に残された巨大な爪跡。いったい、どれほどの力を持ってすれば、ここまで無残に部屋を荒らすことができるのだろう。


「なあ、大輝……。その……大丈夫か?」


 綿の飛び出したソファーを起こし、宗助はそれに腰かけて言った。彼の傍らでは、再びその身に火を灯されたランプが煌々と光りを放っている。


 先ほど、美紅が部屋を出て行ってから、大輝はずっと黙りこくったままだ。普段の彼からはおよそ考えつかない、妙に複雑な顔をして立ち尽くしている。ちょうど、壁紙が破れた部分を隠すようにして、大輝はそこに寄りかかるような形で背を預けていた。


「おい、宗助」


 突然、今まで一言も喋らなかった大輝が口を開いた。その声は随分と不服そうで、明らかに苛立っているのが宗助にもわかった。


「なんだよ、大輝。俺、お前に何か、悪いことしたか?」


「いや、そうじゃない。ただ……お前は本当に、あの女のことを信じられるのか?」


「あの女? もしかして、美紅のことか?」


「ああ、そうだぜ。悪いけど俺は、あの女を本当に信用したわけじゃない。あいつはこんな物を渡してくれたが、俺は俺で自分の身を守るぜ」


 そう言って、大輝はポケットから数枚の護符と泥団子のような物体を取り出した。去り際に、美紅が宗助と大輝に渡してくれたものだ。


 霊的な者を退ける閃光弾に、舟傀儡の動きを止めるための護符。もしも美紅の言っていることが正しければ、護身用の武器としては棒きれよりも役に立つ。


 だが、今の大輝にとってすれば、それは単なるガラクタ以外の何物でもなかった。なにしろ、いきなり目の前に現れてわけのわからないことを説明された揚句、妙な道具を押し付けられて、自分の身は自分で守れと言う。霊能力者だかなんだか知らないが、そんな者の言うことを鵜呑みにするほど大輝も単純ではない。


「このガラクタは、お前にやる。あいつの言っていることが、どこまで本当か知らねえけど……こんなもんで身を守れるってんなら、俺だってこうまで逃げ回ったりしないぜ」


 悪態を吐きながら、大輝は宗助に美紅から貰った道具を押し付けた。そして、宗助が武器としていた金属棒を手に取ると、そのまま談話室の外に続く扉に手をかけた。


「おい、待てよ! 大輝……お前、どこへ行くつもりなんだよ!?」


「そんなの決まってんだろ? 俺は俺で、他の仲間を探す。あんな女の言っていることを馬鹿正直に信じて、このままじっとしているなんて御免だね」


「あんな女って……いくらなんでも、その言い方は酷いんじゃないか!? あの人が……美紅が俺たちを助けてくれたのは、紛れもない事実なんだぞ」


「ふん、どうだかな。確かに、あいつは俺たちを助けてはくれたさ。でも、その後の長話に付き合った結果、美南海たちは化け物に襲われたんだ。そのくせ、こんな状況になったってのに、顔色変えずにホテルの探索に出ちまうんだぞ。あれを異常と言わないってんなら、世界中の人間が、逆に全部異常者ってことになっちまうんじゃないか?」


 金属棒を片手に、大輝が宗助に軽蔑するような眼差しを送ってきた。その、あまりに強烈な威圧感に、宗助は何も言い返すことができなかった。


 いったい、大輝はどうしてしまったというのだろう。普段、仲間に見せている、気さくな態度が今はない。まるで血に飢えた獣のように、その苛立ちを隠すことなく表に出している。こと、美紅に関しては、まったく信用できない相手として疑っているようだった。


「俺は諦めないぞ、宗助。美南海も、それに他の連中も、絶対に生きてるはずなんだ。だから俺は、あいつらを探しに行く。あの女がなんと言おうと、俺は勝手にやらせてもらうからな」


「ちょ……待てよ、大輝! その扉の向こう側は、ホテルの東側だろ? 東側は危ないって、皐月ちゃんも言ってたじゃないか!!」


「へえ、そうかい? そういうお前は、いつからオカルトマニアになったんだ? あんな女どもの言うことを真に受けるなんて……正直、お前の方がどうかしてるぜ」


 もう、話すことなど何もない。そう言わんばかりの口調で、大輝はホテルの東側へと続く扉を開けた。


 扉を開けた瞬間、むっとする磯の香りと生温かい空気が部屋の中に入ってきた。間違いない。これは、今までにも幾度となく嗅いだ匂い。あの、舟傀儡どもの口から発せられる、薄気味悪い淀んだ息の匂いだ。


 やはり、この先は皐月の言っていた通り、舟傀儡の巣窟になっているのだろう。そう考えると、宗助はどうしても気が引けてしまい、それ以上は足を踏み出せなくなっていた。


「なあ、大輝……。お前、本当に一人でも行くつもりか?」


「そんなの決まってるだろ? 俺はお前と違って、他の連中を見捨てたりしねえ。佐藤も、他の連中も、絶対に生きてるって信じてんだよ。だから、こんな場所でいつまでも縮こまっているつもりはねえ。自分だけ助かっても、後で後悔するような真似だけはしたくないからな」


「大輝……」


「お前が来ないってんなら、俺一人でも東側の探索に行くぜ。佐藤の他にも、探さなきゃならねえやつは沢山いるんだからな」


 いつの間にか、大輝の声は宗助を叱咤するようなそれに変わっていた。その片手に金属棒を、もう片方の手に火の点いたランプを持ったまま、何ら躊躇いのない口調で話していた。


 淡い、オレンジ色のランプの光の向こうで、宗助は大輝の顔を改めて見た。そこにあるのは、揺るぎない決意の込められた二つの瞳。この部屋を出る前、美紅が宗助に見せていたものと、どこか似ているものがある。それを目の当たりにした瞬間、宗助は目の前の友人が、何を考えているのかを理解した。


 大輝がこうまでして、頑なに探索を強行しようとする理由。それは、自分の手でこの悪夢から仲間を助けたいという気持ちに他ならない。例え生存が絶望的であっても、自分の身が危険に晒されることになろうとも、仲間を見捨てて自分だけ逃げるような真似はしたくない。


 やはり大輝は、いつものままだと宗助は思った。この極限の状況下で冷静な判断ができなくなってしまったのかと思っていたが、どうやらそれは、自分の取り越し苦労だったようだ。


 普段は単細胞な熱血漢だが、それ故に、大輝が仲間を想う気持ちは人一倍強い。最高学年であることも相俟って、大輝は大輝なりに、自分の責任というものについて自覚していたのかもしれない。


 もう、迷っている暇はない。ここで自分が逃げ出せば、それは他の多くの仲間を裏切り、大輝も危険に晒すことになる。


「大輝……。やっぱり、俺もお前と一緒に行くぜ。俺だって、美南海が死んだなんて思っちゃいないし……それに、皐月ちゃんや、他にも無事に逃げ伸びた人達も助けなきゃならないからな」


 自分で驚くほど、簡単に言葉が口から出た。こうなっては、もう後戻りなどできはしない。


 美紅からもらった道具をポケットに押し込み、宗助もまた懐中電灯を手に立ち上がる。この先、どんな化け物が待っているのか、それは宗助にも大輝にもわからない。


 だが、ここで何もしないでいれば、それは美南海や皐月を見殺しにすることに繋がってしまう。ならば、今の自分たちが取るべき行動はただ一つ。このホテルのどこかに彼女達が逃げ伸びていると信じ、仲間を探しながら脱出経路を見つけることだ。


 廊下の奥から、再び生温かい風が吹いてきた。ぐずぐずしていると、ここもいつ、舟傀儡の集団が押し掛けて来るかわからない。


 金属棒に、それから美紅から渡された諸々の道具。宗助と大輝はそれぞれの手に灯りと獲物を持ち、まだ見ぬホテル東側へと足を踏み入れた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 支配人室に入ると、そこには誰もいなかった。


 相変わらず、部屋の中に灯りはない。美紅は油断なく部屋の扉を閉めると、その赤い瞳で辺りを一通り見て回った。


 この騒ぎにも関わらず、部屋の中は随分と落ちついた様子だった。談話室とは違い、机がひっくり返っていることもなければ、椅子やベッドも軒並み無事だ。


 扉の鍵をそっと締めながら、美紅は改めて部屋の中を見回した。


 おかしい。あれだけの騒ぎがあったのにも関わらず、この部屋には舟傀儡の気配がない。まともに争った跡がないことを考えると、既に支配人は舟傀儡の仲間にされ、その辺の廊下を当ても無くうろついているということだろうか。


 木刀を握る力を緩めずに、美紅は部屋の中で鍵を置いてある場所がないかどうかを探して回った。なにしろ、このホテルは広い。その上、いくらパニックが起きているとはいえ、ホテルの中を自由に行き来するためには、従業員しか持っていない様々な鍵が必要だ。


 美紅がこの部屋に来た目的。それは、電気を供給している部屋がどこにあるのかを調べ、さらにその部屋の鍵を手に入れることだった。事情を説明してわかってもらえるとは限らないが、それでも従業員の誰かに会えれば可能性はある。それが支配人ともなれば、鍵を手に入れるのも容易だろうと考えていた。


 だが、そんな美紅の考えを嘲笑うかのようにして、支配人室の中は空っぽだった。部屋の床に散った数枚の書類以外は、取り立てて見る様なものもない。暗がりでも美紅の眼はよく見えたが、勝手のわからない部屋を漁るというのは、どうにも動きがぎこちないものになってしまう。


 やはり、どこか別の場所に逃げ出してしまったのか、それとも既に舟傀儡へと変えられてしまったのか。半ば諦めに近い気持ちで、美紅が探索を終えようとしたときだった。


 突然、激しく扉が開く音がして、美紅は思わず後ろを振り返った。そこにいたのは、タキシードを身に付けた一体の舟傀儡。その後ろにある、扉の開かれたクローゼットを目の当たりにしたとき、美紅は敵がどこに潜んでいたかを瞬時に理解した。


 地の底から湧き出るような呻き声を上げながら、舟傀儡が美紅に襲いかかる。真正面から対峙して敵わない相手ではなかったが、今回ばかりは反応するのが遅すぎた。


 量肩をつかまれ、押し倒されるような形になって、美紅は舟傀儡につかまれたまま床に倒れ込んだ。目の前には、目と鼻の先に舟傀儡の顔がある。その口からは生臭い、魚の腐ったような息が溢れ出し、美紅は思わず顔をしかめて目を逸らす。


「あ……あ……あ……」


 最早、人の言葉さえ話せなくなった舟傀儡が、その口を大きく開いて美紅に迫る。喉の奥からは触手にまみれた異形の生き物が顔を見せ、それが徐々に舟傀儡の口から這い出して来る。


 舟傀儡は、己の体内にある海洋生物を植え付けて、他の人間を舟傀儡に変えてしまう。そうやって、徐々に仲間を増やしながら、七人岬の勢力を確実に拡大してゆくのである。


 既に、舟傀儡の口から姿を現した生物は、その半身を口内からはみ出させて美紅に迫っていた。全身、触手の塊のような生き物で、その先端がそれぞれ不規則に動き回っている。触手の先が自分の唇に触れたことで、さすがの美紅も背中に鳥肌が立つのを抑えられなかった。


 このままでは、自分も遠からず舟傀儡の仲間にされる。そうなれば、この危機を救える者は、今のホテルには存在しない。


 完全に上を取られる形で抑え込まれながらも、美紅は最後の力を振り絞って、外套のポケットをまさぐった。その中から取り出されたのは、梵字の書かれた一枚の護符。あの、宗助や大輝に渡したものと、同様の力を持ったものだ。


 身体を捻って手を伸ばすと、美紅は取り出した護符を、海洋生物が顔を覗かせている舟傀儡の口に貼り付けた。その途端、相手の口元から白い煙が立ち上り、舟傀儡は声にならない声を上げて苦しみ出した。


「残念ね……。でも、今ここで、あなた達の仲間にされるわけにはいかないの。それに、どうやらあなたは、私が探していた人みたいだからね」


 悶絶する舟傀儡を他所に、その拘束を振りきった美紅が言った。軽く、埃を払うようにして立ち上がると、彼女は霊木刀を構えて舟傀儡と対峙する。


 先程は、クローゼットの中に潜んでいた相手に気づかずに、思わぬ奇襲を被ることとなってしまった。別に、油断をしていたわけではない。ただ、このホテルに満ち溢れる陰の気が、美紅の想像している以上のものだったというだけだ。


 七人岬の放つ強烈な負の波動とでも言えばいいのだろうか。それがあまりに強過ぎて、舟傀儡の気が読めなくなっていた。あまりに強い陰の気は、ときに他の陰の気を隠す役割を果たしてしまう。木を隠すのであれば森の中。その言葉通りに、舟傀儡の放つ微弱な陰の気を、今の美紅には感じ取ることができなかった。


 これはいよいよ、頼りになるのは自分の目だけになってきたか。気を引き締め直し、美紅は未だ床で苦しんでいる舟傀儡を睨みつけた。


 護符の力で動きを封じられているものの、別に死んでしまうというわけではない。だが、このまま放っておいたところで、舟傀儡はいずれ力を取り戻してしまう。


 迷っている暇などなかった。どのみち、選択肢は一つしかない。美紅は手にした霊木刀を逆手に持ち返ると、その先端を舟傀儡の腹に向かって、躊躇うことなく突き立てた。


「ぐぇっ……!!」


 潰されたヒキガエルのような声を立てて、舟傀儡が口から泡を拭きだした。その泡で護符が剥がれ、更には中から様々な海洋生物が吐き出される。ゴカイ、イソギンチャク、それに先ほど美紅に襲いかかった際に現れた、触手の塊のような生き物。ケヤリムシと呼ばれる少々変わった生き物までが、続々と男の口から飛び出して来た。


 男の口から飛び出した、何とも得体の知れない姿をした海洋生物たち。シュノーケリングをして海の中で見れば神秘的な生き物なのかも知れないが、今はただ、七人岬の手先として、人を舟傀儡に変えるだけの存在だ。


 床にひしめく奇妙な生き物たちを、美紅は冷ややかな目で見つめながら踏み潰した。この生き物たちに罪はない。そう、わかっていても、今はこうして潰す以外に方法はない。


 やがて、倒れている男の顔に赤味が戻ってきたところで、美紅は部屋にあるソファーに腰かけて様子を窺った。


 舟傀儡を人間に戻す方法。それは、霊木刀のような道具を用いて、強力な気を相手の体内に送り込むことだ。ただし、これはかなりの力を消耗するために、そう易々と行えるわけでもない。普通であれば、あの廊下で戦った舟傀儡たちのように、気絶させる程度の気を送ることが精一杯だ。


 だが、この男に限っては、美紅は気絶させて終わりにするつもりなど毛頭なかった。この部屋で、恐らくは七人岬の命令なのであろうが、美紅が来るのを待ち伏せするようにして潜伏していた舟傀儡。その服装からしても、ホテル関係者であることは一目瞭然だ。ならば、この男に訊けば、もしかすると鍵の在り処がわかるかもしれない。


 もっとも、男が目を覚ますのを待っていては、下手をすれば夜が開けてしまう。さすがにそこまで待っている余裕はなく、美紅は面倒臭そうにして、再びソファーから立ち上がった。


「ごめんなさい。でも、私には時間がないの。悪いけど……少々、強引な手を使わせてもらうわよ」


 そう言って、美紅は男の胸元に手を添えると、その掌に自分の意識を集中した。そして、その掌を男の胸に押し付けた瞬間、未だ白目を剥いている男の身体が、ビクンと痙攣して動き出した。


 癒しの気を送り、相手を回復させるヒーリングなどとは程遠い。霊脈れいみゃくと呼ばれる、相手の霊的な気の流れを探り、そこに自分の力を強引に流し込むという気つけ法。かなり乱暴なやり方だとは思ったが、それでも美紅は、一刻の時間も惜しい気持ちでいっぱいだった。


 ゴホゴホと咳込みながら、男が海水の混ざった唾液を吐き出して目を覚ます。そんな男の姿を横目に、美紅は部屋の隅から非常用の蝋燭を見つけ出して取り出すと、その先端に火をつけて、男の顔を照らし出した。

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