~ 辰ノ刻 犠牲 ~
宗助と大輝が談話室を出たとき、そこには誰もいなかった。
暗い、先の見えない廊下の奥で、あの怪物が蠢いているのではないか。そう思った二人だったが、なぜか怪物の気配がしない。ただ、建物の外から聞こえてくる、雨と風の音がするだけだ。
今、宗助たちがいるのはホテルの三階。談話室を出てすぐの階段を上り、細い廊下を歩いている。
辺りの様子を窺いながら、宗助は懐中電灯で廊下の先を照らした。階段を抜けて右に行けば、二階へ続く別の階段に出る。だが、そちらへ行くことは、同時に二人を襲う危険が増すことにも繋がるだろう。
右側の通路を使って行けるのは、ホテルの東側。皐月の話では、東側には西側以上に化け物がうろついている可能性があるとのことだった。そんなところに、ほとんど丸腰の状態で飛び込めばどうなるか。考えただけでも恐ろしい。
やはりここは、左側に行くしかないだろう。宗助と大輝は無言で頷き、足音を忍ばせながら廊下を進んだ。
この先に待つ者は、果たして何か。このホテルに潜んでいるのは、本当に自分たちが遭遇した怪物だけなのか。
先の見えない廊下を進むにつれて、どうにも嫌な考えが頭の中に湧いてくる。ホラー映画などでは、必ず怪物の親玉のようなやつが現れるのがお約束だ。最初に出会った怪物は単なる雑魚に過ぎず、話が進むに連れて、もっと強力で恐ろしい怪物が姿を現すのだ。
あの、人間ともゾンビともつかない奇妙な怪物だけでも、今の宗助たちには十分な脅威である。なにしろ、肝心の武器といえるような物は、宗助が大輝に手渡した金属棒しかない。脱出に必要な武器さえも自前で用意しないといけない辺り、現実とはかくも厳しいものだと宗助は思った。
これが映画かアニメなら、主人公は都合良く武器を携帯しているはずだ。しかし、この平和な日本で、何の変哲もない大学生の自分たちが、武器など所持しているはずもない。
最初から、生き残れる可能性は低いのだ。迫りくる敵をバサバサと倒し、派手なアクションを決めて出口に向かう。そんなゲームのような芸当は、自分たちにはできはしない。だとすれば、ここは思っている以上に慎重に動かねば、今に無残な最期を遂げることにも繋がりかねない。
廊下が左右に分かれている場所に差し掛かり、宗助と大輝はそれぞれが右と左に顔を向けて様子を窺った。
――――ズルッ……。
特徴的な、何かを引きずるような足音。それを聞いた大輝の身体が、本人の考えとは関係なく震えた。
「おい、宗助。あっちは駄目だ」
「ああ。皐月ちゃんの言っていた通り、東側には化け物がうようよいるみたいだな」
懐中電灯の明かりを消し、宗助が頷く。大輝が見ていたのは、今しがた通ってきた廊下から見て右側。ちょうど、三階の東側に行くための廊下だった。
武器もない状態で、あの怪物とやり合うのは危険すぎる。ここは皐月の言っていた通り、西側から探索を進めるしかない。
そっと、足音が立たないようにしながら、宗助と大輝は廊下を左に曲がって歩いて行った。T字になっていた場所から離れるにつれ、先ほどの引きずるような音もまた遠くなってゆく。どうやら、相手に気づかれないままに、なんとかやり過ごせたようだ。
ほっと、安堵の溜息をついて、宗助は胸を撫で下ろした。が、すぐに大輝に背中を押され、気を取り直して前に進んだ。
このホテルは、今や化け物の徘徊する恐るべき場所になっている。いつ、どこで襲われるかわからない以上、下手な油断は命を縮める。
ふと、廊下の窓へと顔を向けると、そこはやはり無数の海藻で覆われていた。時折、外で雷が鳴り、海藻の隙間から入る光が廊下を照らす。その明かりを頼りに歩を進めながら、宗助たちはさらに廊下の奥へと歩いてゆく。
それにしても、あの海藻はいったい何なのだろう。なぜ、こんな場所まで海藻が伸びているのか、それは宗助にもわからない。ただ、こちらを絶対に逃がさないという強い意志。急に電気が消えたことも含め、それだけはしっかりと感じ取れる。
気がつくと、懐中電灯を握る手が汗ばんでいた。電灯の光は、今はつけていない。周りに化け物がうろついているとわかった以上、下手に明かりを灯せば自分の場所を相手に知らせているだけとなる。
生温かい風が脇を通りぬけ、宗助と大輝は思わず顔を上げた。風は二人の手前、暗闇の広がる廊下の先から吹いてくる。
建物の中に風が吹く。いったい、これはどういうことだろう。どこか壁に穴でも空いて隙間風でも入り込んできているのか。
いや、それにしては、風の匂いがあまりにも変だ。海辺の近くにあるホテルとはいえ、いくらなんでも磯の香りが漂ってくるというのは不自然極まりない。
この先には何かがある。そう思うと、どうしても調べずにはいられない。恐怖心もあったが、同時に人間には、抑え難い好奇心というものもあるのだ。
再び風が吹き、宗助と大輝の頬を生温かい潮の香りが通り抜けた。それを合図に、二人は意を決し足を踏み出すと、そのまま廊下の先に向かって歩き出す。
廊下を進んでゆくと、それに伴って風も強くなってきた。強いとはいえ、それでも所詮はそよ風程度。ただ、鼻をくすぐる磯の香りだけは、廊下を抜ける風以上に強まっていたが。
「おい、宗助。あれ、見ろよ……」
光の射さない廊下でも、動いている内に目が慣れる。薄暗がりの中、微かに見えるその先には、吹き抜けのような場所が広がっていた。
「なるほど。さっきの風の正体はこれか。それにしても、あの磯の香りはなんだったんだ?」
吹き抜けから身を乗り出すようにして、大輝がその下を覗いて言った。下には二階から一階へ続く階段があるはずだが、今は明かりもなく見ることができない。ただ、暗く深い闇だけが、奈落の底のように口を開けて広がっているだけだ。
とりあえず、この風は怪物の類ではなさそうだ。ひとまず安心して探索を続けられることに、宗助は再び胸を撫で下ろしてその場に座る。まだ、そこまで歩いたわけではないにも関わらず、思いの他に精神がすり減っている。
いったい、明け方までどれくらいの時間がかかるのだろう。自分たちはそれまでに、無事にこのホテルを脱出することができるのだろうか。
もう、こうなったら、いっそのこと太陽が顔を出すまで談話室に立て籠ってやろうか。今は闇に包まれていても、明るくなれば動きようもある。あの怪物も、さすがにドアの鍵を壊してまで入ってくるだけの力はない。なんとか連中をやり過ごし、朝になったら全員で逃げる。そんなことを考えたときだった。
ボトッ、という音がして、何かが宗助の足下に落ちて来た。この雨で、ホテルの天井が雨漏りでも始めたのだろうか。訝しげな顔をしながら落ちて来た物に目をやると、それは闇の中で微かに蠢いていた。
いったい、これはなんだろう。辺りに怪物の気配がないことを確認し、宗助はそっと懐中電灯の明かりをつける。が、次の瞬間、その電灯の先に照らしだされた物を見て、思わず言葉に詰まってしまった。
「げっ……。なんだよ、こりゃ……」
そこにいたのは、魚の釣り餌に使うような奇妙な形をした生物だった。目の無い頭部にムカデのような身体。全身をくねらせ、口から小さな牙を出し入れしながら、それは宗助の足下に這ってくる。
「くそっ! なんだって、こんな場所にこんなもんがいるんだよ!!」
あまりに場違いな、そしてあまりに気持ちの悪い生き物の姿に、宗助は毒づきながら大輝の方へと目をやった。こんな物が天井を這っていたのに、大輝は気づいていないのか。そう思って顔を上げると、そこには吹き抜けの壁を見て、硬直している大輝の姿があった。
「おい、大輝。そんなところで、何やって……」
そこまで言って、宗助もまた言葉を飲む。懐中電灯に照らしだされたその先の壁は、何やら得体の知れない海洋生物でびっしりと覆われていた。
「なあ、宗助……。これ……いったい、何だ?」
いつもは強気な大輝の声が、このときばかりは震えていた。無理もない。本来ならば海の底、砂の上を這っているような生き物たちが、ホテルの壁や天井に所狭しと張り付いている。しかも、それらは全てが一つの意思を持っているかのように、皆一様に同じリズムで揺れている。
「うへぇ……。なんだ、この気色悪い連中は……」
懐中電灯を手にしたまま、宗助はゆっくりと立ち上がって後ろに下がった。大輝もそれに続く。が、決して壁に背は向けず、生き物たちから目を離さずに引き返す。
果たして、そんな大輝の行動は正しく、次の瞬間に壁にいた生き物たちが一斉に動き出した。ゴカイやフナムシ、その他にもたくさんの生き物がいたが、そのどれもが同様に壁を這い、一斉に二人の方へと向かってきた。
「なっ! なんでこっちに来るんだよ!!」
そう叫んだときには、既に大輝は廊下を走り出していた。それに気づいた宗助も、慌てて後を追う。
怪物に気づかれるかもしれない。そんなことは関係無しに、二人は大慌てで廊下を駆けた。近くの部屋に逃げ込もうとか、何か武器になるような物を探そうという気は起きなかった。
相手は化け物ではなく、あくまで単なる海洋生物。だが、その数が多過ぎる。例え数匹を潰したところで、その全てを潰す前に、自分たちの方が生き物に集られてしまうだろう。一匹ずつでは大した力を持っていなかったとしても、あそこまで集団で来られては話が別だ。
あれは、普通の生物ではない。それは宗助や大輝にもわかる。見た目が気持ち悪いのもそうだが、それ以上に、あの生き物たちには何かがある。あんな一糸乱れぬ機械的な隊列を組んで襲ってくるなど、いくらなんでも聞いたことがない。
そう、余計なことを考えていたのが災いした。
「うわぁっ!!」
先行する大輝が悲鳴を上げ、手にした棒を振り回す。その先にいるのは、白目を剥いて口から涎を垂らした奇怪な男。あの、宗助に初めて襲いかかってきた怪物と、同じ種類のものだった。
これは、果たして人間なのか。それとも、既にこの世の者ではなくなってしまった、人間の慣れの果てなのか。その、どちらともつかない奇怪な男が、大輝の棒につかみかかったまま吠えている。
「くそっ! 離せってんだよ、この野郎!!」
悪態を吐きながら、大輝が怪物を押し返そうと懸命に奮闘している。が、いかに腕っ節が強い大輝とはいえど、やはり怪物相手では分が悪い。その上、今度は宗助の後ろから、あの海洋生物の群れが迫って来る。
ゴカイ、フナムシ、カニやナマコ、果てはイソギンチャクのような、本来は自力で歩くことさえできない生物までが、大挙して廊下を這っている。昼時に見たら、どこかシュールで滑稽な様子に笑うこともできただろう。もっとも、こんな状況下では、それら海洋生物の群れでさえも十分に脅威だ。
何か、あいつらを一掃できるような武器はないか。宗助が廊下を角へ目をやると、そこにあったのは細長く赤い金属でできた筒。非常用に置かれた消火器だ。
「これだ!」
そう言うが早いか、宗助は消火器に飛びついて栓を抜いていた。軽い振動が伝わった後、本体から伸びたホースの先から白い泡が迸る。宗助はその泡を、迫りくる気味の悪い生き物たちに嫌というほどぶちまけた。
「このっ! こっちに来んなよ!!」
消火器から出る泡が、ホテルの廊下を白く染め上げる。その泡に包まれた生き物たちは、皆一様に廊下を転げ回り、身体をくねらせて苦しんだ。
これなら行ける。このまま消火器で相手を蹴散らして行けば、逃げるための道も開ける。
宗助は再びホースを構え、その先端を生き物たちの群れに向ける。だが、そう思った矢先にホースの先から出る泡は勢いを失い、やがてちょろちょろと口先から水をこぼすだけになった。
「くそっ! この、役立たずめ!!」
泡の中で苦しむ生き物たちに向かって、宗助は空になった消火器を投げつけた。その間にも、生き物は奥から次々にやってくる。泡の撒き散らされた床を避け、今度は壁を伝って宗助と大輝に迫る。
「うわぁぁぁぁっ!!」
何かが倒れるような音と共に、後ろで大輝の叫ぶ声がした。見ると、大輝が怪物に押し倒され、今にも襲われんばかりの状態になっていた。
このままでは、大輝が怪物に殺される。宗助は大輝の側へと駆け寄ると、その上に覆い被さっている怪物の頭を躊躇うことなく蹴り飛ばした。
ゴムボールを蹴ったときのような感触が爪先に残り、宗助は思わず足を引っ込めて大輝を見た。幸い、怪我はないようだ。が、それは相手も同じこと。頭を蹴られた程度では倒れずに、すぐさま起き上がって二人に迫る。
「う……うぅぅぅ……」
呻き声が、重なって聞こえた。先ほど大輝を襲っていた怪物の後ろから、さらに二体の怪物が姿を現していた。
前からは怪物、後ろからは得体の知れない生き物。正に絶体絶命の状況だ。
金属棒と懐中電灯を構え、宗助と大輝は最後の抵抗を試みる。こんな場所で、なにもできずに怪物に殺されてたまるものか。例え、バッドエンドを迎える運命であっても、最後の最後まで抗ってやる。
いよいよ覚悟を決め、大輝が叫びながら棒を振り上げた。そのまま怪物に突撃し、宗助も後に続く。対する怪物も、獲物が自分から向かってきたことに喜んだのだろうか。口から生臭い息を吐き出しながら、やはり宗助たちの方に向かってくる。
(こうなりゃ、もうヤケクソだ!!)
大輝の手にした棒が空を切り、怪物の頭に振り降ろされた。真正面から怪物を捕えたそれは、そのまま行けば間違いなく、相手の頭を叩き割るだろう。
だが、そう確信して振り降ろされた棒は、果たして怪物の頭を割ることはなかった。
金属と金属がぶつかる鋭い音と共に、大輝の手から棒が叩き落された。衝撃で手が酷く痺れ、大輝は思わず自分の腕を押さえて床を見る。
そこに転がっていたのは、ゴルフボール大の金属球だった。恐らくはこれが飛んできて、大輝の手から金属棒を叩き落としたのだろう。では、いったい誰が、何のためにこんな真似をしたのか。大輝はおろか、それは宗助にさえもわからない。
これはいよいよ、更なる敵の登場か。このまま完全に追い詰められて、自分たちは成す術もなく怪物の餌になってしまうのか。
武器無しの大輝と宗助に向かい、怪物の手がぬぅっと伸びた。このままでは殺される。そう思って目を瞑る宗助と大輝。その瞬間、再び何かが空を切るような音がして、続いてドサッという音が廊下に響いた。
「えっ……?」
宗助と大輝が目を開けると、そこには先ほどの怪物が倒れていた。全身を痙攣させ、その口からは相変わらず涎を垂らしているものの、起き上がって襲いかかってくる様子はない。
いったい、これは何だ。今、自分たちの前で何が起きている。あまりに急な展開で、頭の回転がおいついてゆかない。その間にも残る二体の怪物が床に倒れ、辺りは急に静かになった。
「おい、宗助……。これ、いったいどうなってんだ?」
「さ、さあ……。ってか、俺に訊くなよ、そんなこと」
倒れた怪物の身体に目をやりながら、宗助たちは壁に背をつけた状態で話していた。いつの間にか、あの海洋生物たちの姿も消えている。怪物が倒されて、とりあえずは撤退したということなのだろうか。
廊下の奥から、何かがこちらに近づいて来るような音がする。引きずるような足音ではないため、あの怪物ではない。油断なく音のする方へと顔を向けると、その闇の中から、やがて一人の女が姿を現した。
「ふぅ……。とりあえず、片付いたみたいね。そこの君たち、大丈夫?」
闇の中から現れた女が、挨拶もなしに宗助たちに言った。その姿を見た宗助は、思わず目を丸くして息を飲んだ。
燃えるように赤い瞳に、白金色の美しい髪。脱色されたような白い肌を持ち、夏だというのに黒い外套で全身を覆っている。片手には梵字のような物が刻まれた木刀を持ち、その文字が闇の中で赤く光っていた。
背中には、これは何かの武器だろうか。やはり梵字のような物が書かれた白布にくるまれた、一振りの棒のような物が背負われている。棒を包む布の先は、そのまま襷のような形で、女の胸元で結ばれていた。
「あっ……。あんたは、確か……」
今日、海から帰って来た際に、ロビーで見た女のことを思い出した。あのとき、サングラス越しにこちらを睨み返してきた女。その女が、今、自分たちの前に立っていた。
「君、そういえばロビーで会ったわね。お久しぶり……とでも言えばいいかしら?」
床に転がった鉄球を拾いながら女が言った。どうやら向こうも、宗助のことを覚えていたようだ。もっとも、その言葉の雰囲気からして、決して好意的な感情を抱いているわけではなさそうだが。
やはり、自分が興味本位で、変な視線を送ったのが原因か。思わず相手から目を逸らした宗助だったが、女は宗助に構うことなく、その手を引いて廊下を歩きだした。
「お、おい! あんた……どこへ行こうって言うんだよ!?」
「話は後よ。とにかく今は、安全な場所に逃げましょう。もう一人のお友達にも、そう言ってくれない?」
「安全な場所って……。まあ、確かに、それはそうだけどさ……」
この女は、いったい何者なのだろう。暗闇の中、大輝の手から寸分狂わぬ狙いで武器を叩き落とし、果ては怪物を三体もまとめて始末する。いったい、どんな特殊訓練を受ければそんなことができるのか、宗助は改めて女に問いただしてみたい気分になった。
「さあ。とりあえず、この客室で話しましょうか。お友達の方も、それでいいわよね?」
女は宗助と大輝を廊下の突き当たりにある客室に案内すると、そのまま部屋の扉をゆっくりと開いた。使われていない客室は施錠されているはずだったが、それでも扉は普通に開けられた。
いったい、彼女はなぜ、自分たちを助けたのだろう。疑問に思うことは山ほどあったが、宗助はあえて、今それを訊くことはしなかった。
とにかく今は、あの怪物から逃げることが先決だ。ただ、それだけを考えて、宗助と大輝は女に誘導されるがままに奥の客室へと足を踏み入れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
名も知らぬ絵画や彫刻が陳列された部屋で、幹也たちは暗闇の中を必死に逃げ回っていた。
水の滴る音と、空気を切り裂く鋭い音。二つの音が部屋に響き、幹也たちを確実に追い詰めてゆく。
「くそっ! なんなんだよ、こいつは!?」
懐中電灯で相手の位置を探りながら、幹也が叫んだ。あの、天井から落ちて来た半魚人のような怪物。あれはいったい何なのか、それは幹也にもわからない。ただ、あの怪物が決して自分たちに友好的な存在ではないことだけは、その場にいる誰もが気づいていた。
ヒュッ、という音がして、再び幹也の頬を何かが掠めた。熱い。思わず手で触れてみると、何やらぬるっとしたものが指につく。完全に避けたつもりだったが、どうやら怪物の鋭い爪先が頬に触れていたようだった。
「伏せろ!!」
暗がりの中、蓮が叫ぶのと怪物の手が繰り出されるのが同時だった。
瞬間、幹也は大きく横に飛退き、先ほどまで彼がいた空間を鋭い爪が貫通する。勢い余った一撃は壁にかかっていた絵をも貫き、激しく紙が破れるような音がした。
「このっ! いいかげんにしろ!!」
再び幹也に向かって爪を振りかざした怪物に、蓮が近くに置いてあった彫像を持って殴りかかった。彫像は酒瓶くらいの大きさをしており、ボーリングのピンのような形をしていた。誰が、どんな意味を持って掘った物かは知らないが、鈍器としては最適だ。
石と石がぶつかったときのような、鈍い感触が蓮の手に響く。生物の身体にしては、妙に固く無機質な感触。全身を覆う鱗のせいなのか、それともこの怪物は、蓮の知る生物の常識が通用しない相手なのか。
その、どちらかもわからぬ内に、怪物は蓮の方を振り向いて口を大きく開いた。人間でいう後頭部に直撃をさせたのに、まるで効いていない。なにかしたか。そう言わんばかりに、怪物は涎を垂らしながら蓮に牙を向ける。
「蓮! 逃げろ!!」
頬の痛みに耐えながら、今度は幹也が叫んだ。が、その言葉が終わりきらない内に、怪物は鬱陶しそうに腕を横に古い、そのまま蓮の身体を薙ぎ払った。
腕の直撃を食らった蓮の身体が宙を舞い、部屋の隅まで吹き飛ばされる。その細身で均整の取れた身体からは想像できないくらい、怪物の力は強かった。
駄目だ。このままでは、三人とも殺される。
幹也の本能が、ここから逃げ出すように告げていた。この暗闇の中、こちらは懐中電灯の明かりだけを頼りに逃げ回るだけ。対する怪物は、暗闇の中でも目が見えるのだろうか。主に幹也に狙いを定め、実に的確に攻撃を繰り出して来る。
蓮を吹き飛ばし、怪物は改めて幹也の方に迫ってきた。水かきのついた足が床を踏むたびに、床が濡れて水の跳ねる音がする。その音が徐々に近づいてくる様は、正に今の幹也にとっては、死の宣告を受けているに等しい。
迷っている暇などなかった。そのまま相手に背中を向けて、幹也は一目散に逃げ出した。背を向けた瞬間にやられるかもしれないなど、今の幹也には考えている余裕さえなかった。
細長く横に伸びた展示室の中を、懐中電灯を持ったまま幹也が駆ける。壁にかかっている絵には様々な種類の物が存在したが、そんなものを鑑賞しているような場合ではない。
突然、目の前に白い壁が広がったのを見て、幹也は自分が部屋の奥に追い詰められてしまったことに気が付いた。後ろからは、例の水気を含んだ足音が、規則正しいリズムで近づいて来る。
こちらを仕留めるのに、走る必要さえないということか。怪物が人間の言葉を喋れたならば、きっとこう言っていたことだろう。「お前達などいつでも殺せる」と。
「畜生……。こんなところで、ゲームオーバーかよ……」
皮肉を込めた口調で言ったものの、幹也の声は震えていた。ふと、横を見ると、壁際に小さな扉が見える。あそこからなら、逃げられるかもしれない。そう、幹也が考えたときだった。
闇を切り裂き、怪物の鋭い爪が伸び、幹也の顔面を鷲掴みにした。声を上げる暇さえもなく、幹也の身体は徐々に空中へと持ち上げられてゆく。腕に手をかけ、足をバタつかせて抵抗するが、怪物の力の前には幹也の力など赤子同然だった。
このままでは、自分は殺される。ここで自分が死ねば、その次は千鶴と蓮だ。
自分の仲間を、恋人を、こんな怪物に殺させてなるものか。そう思った幹也が苦し紛れに腰に手を伸ばすと、なにやら固い物に指が触れた。
(こ、こいつは……)
幹也の腰で揺れている小さな物。それは、幹也がこの旅行に来る際に持って来た小さな折り畳み式のナイフだった。
こんな物が、果たしてこの怪物に通用するはずがない。そうわかっていても、何もしないで殺されるよりはマシだろう。
半ばちぎり取るようにして、幹也は最後の力を振り絞り、自分のズボンからナイフを取った。そして、未だ余裕の笑みを浮かべている怪物の腕に、躊躇うことなくそれを突き刺した。
ぬるっとした感触が指先に伝わり、幹也の放った一撃は怪物の腕の上を滑った。固い鱗と粘性の高い液体によって、ナイフの歯は見事に弾かれてしまった。
人間というものは、窮地に陥ると返って冷静になれることもあるのだろうか。起死回生の一撃が決まらなかったとはいえ、幹也は意外にも落ちついている自分がいることに気がついた。
腕に刺そうとしても効果はない。ならば、より急所と思われるような場所に、その刃先を突き立ててやる。
痺れる腕に渾身の力を込め、幹也は再びナイフを握り締める。今度は腕などではなく、狙うのはより刃が通りやすそうな場所。半魚人の首元で上下している、あの鰓のような部分だ。
「うがぁぁぁぁっ!!」
顔をつかまれたままの状態で、幹也が吠えた。伸ばされた腕の先で光る銀色の刃が、闇の中で躍動する鰓に向かって伸ばされる。緑色をした皮膚の隙間から覗く赤い部分にそれが達したとき、生温かく不快な感触が幹也の手に伝わった。
――――キュェェェェェッ!!
思わず耳を覆いたくなるような奇声を発し、怪物は幹也を放り出した。壁に叩きつけられ、半ばむせ返りながらも、幹也はなんとか気力を振り絞って起き上がる。
鋭い爪を突き立てられ、その表皮を抉られたからだろうか。こめかみの部分に、焼けるような痛みが残る。頭から無数の赤い滴が垂れているのは、見なくても十分にわかる。
ふらつく足取りで立ち上がった幹也の肩を、誰かが横から手を出して支えた。見ると、いつの間にか蓮が隣に来て、彼の肩を支えていた。その横では頬を伝わる血を、千鶴がハンカチで拭いている。普段見せている気丈な様子は、今の彼女からは感じられなかった。
「大丈夫、幹也。あんた、こんなに血が……」
「平気さ。この程度……別に、死ぬ程ってわけじゃない」
「で、でも……」
「大丈夫だって言ってんだろ。それよりも……あそこに扉を見つけた。お前は蓮と一緒に、早くこの部屋から逃げるんだ」
なおもハンカチで血を拭こうとする千鶴を制し、幹也はゆっくりと立ち上がった。その指が示す先にあるのは、部屋の奥にある灰色の扉。スライド式の、横に開くタイプのものだ。
あの先に逃げ込むことが、果たして得策なのかどうか。今、それを考えている時間はない。こうしている間にも、目の前の怪物は既に体勢を整え終えている。暗闇の中、その不気味な瞳が怪しげな色に輝き、壁際に追い詰められた幹也たちを捕えた。
全身をぶるっと震わせて、怪物が鰓を激しく動かした。その中から、赤黒い粘液状の塊と共に、幹也が突き刺したナイフが排出される。床に吐きだされたそれは、どろどろとした薄気味悪い液体の中で、既に使い物にならないほどにまで歪んでしまっていた。
やはり、この程度の攻撃では怪物を倒すまでに至らなかったか。残された時間が僅かしかないことは、幹也も十分に承知していた。
「もう一度言うぜ、千鶴。お前は蓮と一緒に、あの扉の向こう側に逃げろ。その間、俺がこの化け物を引きつけておくからさ」
「ちょっ……なに、馬鹿なこと言ってんのよ! あんた、私の彼氏なんでしょう!? だったら最後まで恋人らしく、ちゃんと私のこと守りなさいよ!!」
「悪いけど、そんな映画のヒーローみたいな真似、俺にはできないんだよ。俺がヘタレだっての、お前が一番よく知ってるだろ?」
そう言いながら、幹也は千鶴の手をそっと握った。その手が微かに震えているのに気づき、千鶴もそれ以上は何も言えずに言葉を飲んだ。
本当は、幹也とて怖いのだ。いきなりホテルが停電し、気がつけば辺りは化け物だらけ。しかも、その化け物から逃げ出した先に待っていたのは、より強大な力を持った別の怪物。
戦って勝てるなどとは思っていなかった。このまま三人で逃げ切る。それもまた難しいということは、今の状況から考えても十分にわかる。
怪物の口が大きく開かれ、その中から鋭い牙が顔を覗かせた。瞬間、幹也は懐中電灯を蓮に渡して走り出すと、そのまま怪物の横をすり抜けて部屋の入口に向かう。
「ちょっと、幹也! 待ちなさいよ!!」
後ろから、千鶴の叫ぶ声が聞こえる。だが、その声にも振り返ることなく、幹也は真っ直ぐに部屋を走る。
自分の後ろから、怪物の追いかけて来る足音が聞こえた。やはり、この怪物は自分を狙っている。蓮や千鶴など、他にも獲物はたくさんいるにも関わらず、こちらだけを執拗に狙ってきている。
怪物が何を考えて自分を狙うのか。そんなことは、今の幹也にとっては関係のないことだった。自分が死ぬのも怖いが、それ以上に、千鶴が目の前で殺されるようなところを見たくない。
彼女は確かに口が悪く、どこか棘のある部分も持ち合わせていたが、それでも幹也にとっては大切な相手だ。表だって惚れた相手に甘えるような素振りを見せないものの、その言葉の裏に隠された本心を、幹也は知っている。
惚れた弱みを握られているから従っているわけではない。自分はただ、自分の意思で彼女を守りたいと思う。その一心で、幹也は自ら囮となる覚悟を決めた。
部屋の入口に当たる大扉の前に立ち、幹也はそっと後ろを振り返る。先ほどから、部屋の中には自分の足音しかしていない。しかし、暗闇の中で姿は見えないものの、相手がすぐ後ろまで迫っている気配だけはしっかりと感じ取れた。
「さて、と……。あいつの前ではヘタレた姿しか見せられなかったからな。最後くらい、ちょっとは男らしいところを見せておかないと、さすがに格好がつかないぜ」
誰に言うともなく、幹也の口からそんな言葉がこぼれた。足下に転がっている彫像の破片を拾い、幹也はそれを構えて油断なく相手の気配を探る。
敵は右から来るか、それとも左から来るか。まともに戦って敵う相手ではないのだろうが、幹也とて、ただで死んでやるつもりは毛頭ない。
ポタッ、という音がして、幹也の足下に何かが落ちた。思わず肩を震わせて床を見ると、天井から何かが滴り落ちている。
魚の死体と磯の匂いを混ぜ合わせたような生臭い匂い。それが幹也の鼻腔を刺激した瞬間、彼は相手がどこにいるのかを瞬時に悟った。
彫像の破片を握ったまま、幹也の首がゆっくりと上に傾いてゆく。その視線の先に二つの黄色い光が見えた瞬間、部屋の中に激しい血飛沫の飛び散る音がした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
女に案内されて宗助たちが入った場所は、荷物の散らばった客室だった。
よほど慌てていたのだろう。開け放たれたスーツケースの中身は散乱し、部屋のあちこちに転がっている。中には格闘したような痕もあったが、不思議と血痕はない。この部屋に泊まっていた者は、怪物に襲われて慌てて逃げ出したのだろうか。部屋の鍵が開いていたことからして、恐らく、それは間違いない。
「さて……。とりあえず、ここなら安全そうね」
備え付けられたベッドの上に腰かけて、女が言った。懐中電灯の明かりに照らされた白金色の髪が、その光を反射して美しく揺れる。
「なあ……。あんた、いったい何者なんだ? それに、このホテルでは、何が起きているんだ?」
半ば強引に部屋に引っ張られてきたからだろうか。宗助が少々苛立った様子で女に言った。それは大輝も同じようで、腕を組んだまま壁にもたれかかり、女を睨んでいる。
「まあ、そう慌てないことね。物事には順番ってものがあるから、まずは一つ一つ説明しないと」
「そんな悠長なこと言ってる場合かよ! こちとら、いきなりホテルが停電したと思ったら、わけのわかんねえ怪物に追いかけ回されてんだぞ!!」
あくまで自分のペースを崩さない。そんな女の態度に、今度は大輝が吠えた。それでも女は顔色一つ変えずに大輝を見ると、ほとんど馬鹿にしたような口調で話を続けた。
「だから、慌てるなって言ってるでしょ。こんなときに頭に血を昇らせても、悪い方向に話が進むだけよ」
「んだと!? だったら、てめえはこのホテルで起きていることが、一から十まで説明できるってのかよ!?」
「ええ、そうね。少なくとも、あなたたちよりは状況をつかんでいるつもりよ」
「へえ、そうかい。けどな、それだけでデカイ顔されたんじゃ、こっちだって納得できねえんだよ。俺たちは、他の仲間だって探さなきゃならないんだ。こんなところで、いつまでも油を売ってる暇はないんでね」
「そう。それなら、あなた一人で仲間を探したら? もっとも、このホテルにいる怪物たちをあなたが全部退けて、ちゃんと生き残れるならの話だけど」
苛立ちを隠しきれない様子で女に食ってかかる大輝だったが、女も負けてはいなかった。大輝の言葉をさらりと流し、より現実的な反論をぶつけてくる。この緊迫した状況の中、一人だけここまで冷静でいることが、余計に大輝の神経を逆撫でする。
だが、ここで言い合いをしていても始まらないことは、お互いにどこかでわかっていた。仕方なく、二人の間に割って入るようにして、宗助が女の前に立つ。女のことを全て信用したわけではなかったが、ここはこちらが引くべきだと思った。
「いいかげんにしろ、大輝。お前のいいたいこともわかるけど、まずはこの人の話を聞いてみようぜ。何かを決めるのは、それからでも遅くない」
「なんだよ、宗助。お前まで、そんなこと言いやがって……他の連中のことが、心配じゃないのかよ?」
「そういうわけじゃない。でも、このままホテルの中を彷徨っていても、結果は同じだろ? それに、この人は俺たちと違って、あの怪物たちを倒すだけの力も持ってるんだしさ」
「へっ、勝手にしろ。言っておくが、俺はまだ、その女のことを信用したわけじゃないからな」
そう言うと、大輝は女の座っていない方のベッドに寝転んで、そのまま鼻息を荒げながら眠ってしまった。たぬき寝入りなのだろうが、なんというか、甚だしい態度の悪さだ。
「なんか、申し訳ないな。大輝のやつ、頭に血が昇ると、いつもあんな感じで……」
宗助が申し訳なさそうに頭をかいて、女に謝った。もっとも、女は別に気にしていないといった様子で、完全に大輝のことは無視していたが。
「それじゃあ、まずは自己紹介しておくわね。私は犬崎美紅。仕事は……あなた達にわかるように言うと、霊能力者みたいなものかしら?」
その女、犬崎美紅が、しばし言葉を選びながら宗助に言った。白金色の髪に赤い瞳。その人間離れした容姿を改めて見ると、女の言葉にも自然と納得してしまいそうになる。
「霊能力者? ってことは、あの怪物たちは、幽霊か妖怪みたいなものなのか?」
「そうね……。厳密にはちょっと違うんだけど、そんな認識で構わないわ。あいつらは≪傀儡≫と呼ばれる者の一種でね。より強力な力を持った霊的な存在が、下等な幽霊を操って、人間に憑依させたものなのよ」
「霊的な存在……? 憑依……?」
いきなり専門的な言葉を投げかけられて、宗助の顔に戸惑いの色が浮かんだ。その様子に、美紅は心の中で「しまった」と呟くと、また言葉を選びながら話を続けた。
「ごめんなさい。この手の話に詳しくない人に、急に話すようなことじゃなかったかしら?」
「いや、別に構わないさ。それよりも、その≪傀儡≫ってやつは、いったい何なんだ? なんか、幽霊を人間にとり憑かせるみたいなこと言ってたけど……」
「ええ、そうよ。≪傀儡≫というのは、幽霊を人間に憑依させて、操り人形みたいにした存在なの。所詮は人形だから知性は低いけど、あれを倒しても根本的な解決にはならないわ。霊体を操っている元凶を倒さない限り、あれは決して活動を止めないの」
「だったら、その元凶ってやつを倒せばいいんじゃないのか? あんたが本物の霊能力者なら、そういったことだってできるんだろ?」
「それがね……。問題は、そう簡単に解決するほど簡単じゃないのよ)
はぁっ、という溜息を吐いて、美紅はそっとベッドから立ち上がる。そのまま窓辺に向かって歩を進めると、窓を覆っていたカーテンを何も言わずに左右に開く。
雷鳴が轟き、眩い光が一瞬だけ部屋の中を照らす。カーテンが開け放たれているにも関わらず、雷の光は細かく千切られたような形でした部屋に入って来ない。窓ガラスを覆う、青黒い色をした海藻のせいだ。
「ねえ、あなた。話は変わるんだけど……」
美紅が、窓ガラスに張り付いた海藻を横目に宗助に尋ねた。
「七人岬の伝説って、聞いたことあるかしら?」
「七人岬? いや、知らないな」
「そう。この地方では、けっこう有名な話なんだけど……まあ、知らないって言うなら仕方ないわね。私も人から話を聞いただけで、本物には出会ったことはないし」
こんな時に、美紅はいったい何の話を始めるつもりなのだろうか。まさか、このホテルを覆う怪奇な現象が、美紅の言う七人岬とやらに関係のあるものだとでも言うのか。
「七人岬っていうのはね、常に七人で行動すると言われている海の妖怪よ。元は船乗りだったとも、平家の落人だったとも言われているけど、正体はわかっていないわ。ただ、連中の数は常に七体で、欠けることもなければ増えることもない」
「欠けることも増えることもない? どういうことだ、それは?」
「やつらは一種の呪いに縛られたような存在なの。自分が成仏するためには他の誰かを殺さないといけないんだけど、今度はその殺された人が七人岬に取り込まれてしまうのよ。だから、やつらの数は常に七人。欠けることも、増えることもないってわけね」
「なるほどな。でも、その七人岬と、今の状況になにか関係があるのか?」
「それは、私にもわからないわ。ただ、七人岬は普通の幽霊なんかとは、ちょっと違っているみたいでね。例えば、さっきの≪傀儡≫だけど、あれだって普通の≪傀儡≫とは随分と異なった存在なのよ」
窓辺から離れ、美紅が宗助に向かいあうようにしてベッドに腰を降ろした。何やら重たい金属音がして、宗助は彼女の着ている外套の中に、先の鉄球のような武器がいくつも入っていることを察した。
「あの≪傀儡≫は、正しくは≪舟傀儡≫と言うの。主に、海に巣食う魔物が使う≪傀儡≫で、自分の僕となる海の生物を人間に寄生させて操るのよ」
「人間に寄生……ってことは、あの怪物や、俺たちを襲ってきたイソメの群れなんかは……!?」
「そう。連中は全部、七人岬が操る≪舟傀儡≫よ。あの海洋生物に身体の中に入られたら最後、後は七人岬に操られる、単なる人形と化してしまう。でも、人間であることには変わりないから、むやみに殴ったり傷つけたりすれば、本体を倒したときに操られていた人も死んでしまうわ」
「なるほどな。それであんたは、大輝が怪物の頭を叩き割ろうとしたとき、それを阻止したってわけか」
廊下で美紅が大輝の持っていた金属棒を叩き落としたことについて、宗助は改めて納得した。こんな状況で妖怪の伝説を話し出す霊能力者など、普通は信用におけないものだ。が、しかし、それでも彼女の言っていることだけは、妙に筋が通っているのも確かだった。
「連中は超能力みたいな技は使えない代わりに、海の生き物を操る力に長けているわ。ホテルを海藻で覆ったのも、宿泊客や従業員を舟傀儡にして操っているのも、全ては自分たちが狙った獲物を逃がさないようにするため。七人岬は、狙った獲物は決して逃がさず追い詰めるのよ。執拗に、決して諦めず、どんな手を使ってでもね……」
狙った獲物は逃がさない。その部分を殊更強調して、美紅は宗助の顔を覗きこむ。燃えるように赤い瞳で見つめられ、宗助は思わず顔を引いて後ろに下がった。
「な、なんだよ……。俺の顔に、なにかついてるのか?」
「いいえ。ただ……私の見立てでは、やつらの獲物はどうやらあなたたちね。私にも、よくわからないんだけど……あなたや、そこのベッドで寝ている彼の中から、不自然な気を感じるのよ。人間のものではない……どちらかというと、魔性の者に近い気がね」
「ま、魔性の者!? 言っておくけど、俺や大輝は、別にあんたみたいな霊能力者なんかじゃないぞ」
「それは、私も承知しているわ。ただ、だからこそ気になるのよ。あなた達の中にある何かが、七人岬と共鳴している。それだけは、確かなんだけど……」
そう言って、美紅は口元を隠すようにしながら、そのまま言葉を切ってしまった。後に残された宗助は、ただ茫然と立ち尽くしたまま美紅のことをみつめている。
再び雷が鳴り、外が一瞬だけ明るくなった。雨はますます激しくなっているようで、窓ガラスを叩く雨音が、遠ざかる雷鳴に変わって宗助の耳に響く。
自分や大輝が、七人岬に狙われている。その理由がなんなのかは、美紅にさえもわからない。だが、仮にそれが本当だとすれば、事態はいよいよ他人事では済まされないものになってきたのではないか。
美紅の言う七人岬がどのような存在なのか、宗助には未だ見当もついていなかった。ただ、狙った獲物は逃がさないという以上、これからも自分たちが化け物に襲われ続けるということだけは確かだ。
いったい、自分はこれからどうすればいい。仲間は本当に無事なのか。脱出するための方法は見つかるのか。何もかも先が見えないまま、状況はどんどん悪化しているような気がしてならない。
「犬崎美紅さん、だったよな。俺たちは、これからどうすればいいんだ? もし、あんたの言うことが本当なら、このホテルの中にいる以上は、安全な場所なんて……」
「ええ、そうね。でも、まだ希望を捨てるのは早いわよ」
美紅がベッドから腰を上げ、その側に置いてあった木刀を拾った。あの、梵字が刻まれた、舟傀儡を気絶させたときに使っていたものだ。
「確かに七人岬は恐ろしい相手だけど、やつらにも欠点はあるわ。例えば……連中は相手の気配を探る能力には優れていないの。だから、ホテルに閉じ込めたのはいいけれど、未だにあなた達の居場所を突きとめられてはいない」
「そうか……。だから連中は、舟傀儡なんてものを使って、俺たちを捕まえようとしているのか」
「そういうことよ。やつらは決して完全無欠の神なんかじゃない。付け入る隙は、いくらでも存在するわ」
迷いも躊躇いもない、はっきりとした口調。その声に、宗助は自分が暗闇と怪物を恐れていたことが、妙に恥ずかしいことのように思えて来た。
この人と一緒にいれば、大丈夫かもしれない。そんな期待が、宗助の中で膨らんで行く。が、そう思った矢先、今度は大きな欠伸とともに、大輝がわざとらしく腕を伸ばして宗助に言った。
「与太話は終わったか、宗助。まったく……こんな状況で、随分と悠長に話をしていられるもんだぜ」
大輝が大きな伸びをしながら、面倒臭そうにベッドから起き上がる。宗助とは違い、彼の方は未だに美紅の話を信用していないようだった。もっとも、いきなり霊能力者を名乗る者に妙な話をされたところで、その全てを信じろというのも難しいことではあるのだが。
「お喋りが終わったんなら、俺はそろそろいくぜ。他の連中を探さなきゃならないし、談話室に残してきた連中も気になるからな」
「そうだな。美南海と皐月ちゃんだけじゃ、万が一のことがあったときに心配だしな」
大輝の言葉に、ここは宗助も頷いた。美紅の言うことをまるで信じていないのは気になったが、確かに大輝の言うことも一理ある。女二人、それも一人は幼い少女でしかないことを考えると、こうしていつまでも部屋に隠れているわけにはいかない。
そう、宗助が考えたとき、今度は美紅が二人の間に割って入った。一瞬、むっとした表情を浮かべた大輝だったが、美紅はそんなことにはお構いなしに、その赤い瞳を宗助に向けて訊いてきた。
「ねえ、あなたたち。今、皐月って言ったけど……それって、このくらいの小さな女の子のことかしら?」
「えっ? あ、ああ……。俺が、二階の部屋で見つけたんだよ。このままじゃ危ないってことで、談話室に避難させておいたんだけど……。もしかして、あんたの知り合いなのか?」
「そうよ。この騒ぎではぐれちゃったんだけど……どうやら、一応は無事みたいね」
今まで張り詰めていた美紅の顔に、一瞬だけだが安堵の色が浮かんだ。あの、鋭い眼差しと険しい表情の裏には、こんな穏やかな顔が隠されていたのか。そう思わせんばかりに、美紅の見せた顔には宗助を魅了するなにかがあった。
「ねえ、あなたたち。悪いけど、皐月ちゃんのいる場所まで、私を案内してくれるかしら? その代わり、あなた達の護衛は私が引き受ける。そういうことで、構わない?」
半ば一方的に、美紅が宗助に同意を求めてきた。大輝は未だ納得していない様子だったが、宗助としては、これを断る理由はない。
「ああ、わかった。それと、俺の名前は椎名宗助だ。こっちのやつは、里村大輝。二人とも、旅行でこのホテルに来た大学生さ」
「椎名宗助君ね。短い間になるかもしれないけど、よろしくね」
手を差し出すようなことなどせず、美紅が軽く苦笑しながら宗助に言った。不器用ながらも、これが美紅にとっての、精一杯の友好の現れなのだろう。
この暗闇の中、ホテルを丸ごと一つ封印してまで自分たちを狙う伝説の怪物、七人岬。武器もろくに手に入れることができないまま戻ることには若干の不安が残ってはいたが、それでも宗助は、この美紅という女の力に賭けてみようという気持ちで部屋を出た。