第87話 死者の名は家名の飾りではない
ヴァルグレイン侯爵が拘束された翌朝。
白樹の森の大広間には、人間王国から正式な使節団が到着していた。
王国法務官。
王国記録局長。
王国貴族院の監察官。
そして、ヴァルグレイン侯爵領の臨時管理官。
彼らは皆、硬い顔をしていた。
死者名簿改竄。
偽造資料の提出。
未判明死者の場所の侵奪。
禁術による死者残響への偽名接続。
どれも、単なる貴族家の不祥事ではない。
邪神戦争後の世界が、死者をどう扱うのか。
その根本に関わる事件だった。
大広間の中央には、三つの資料が置かれていた。
一つ目は、ヴァルグレイン侯爵家の改竄帳面。
二つ目は、地下礼拝堂の術式記録。
三つ目は、南方砂漠補助陣地関連残材。
補助柵の一部だった木片である。
その木片には、もう残響はない。
セレスティアが術式を斬り、ミレーヌが未判明者として読み上げ、ルシェルが記録したことで、眠りへ戻った。
だが、事件の証拠としては残されていた。
王が、静かに口を開いた。
「始めよう」
人間王国の法務官が前へ出る。
「人間王国は、ヴァルグレイン侯爵家に対する処分案を提示いたします」
ルシェルは記録板を構えた。
ミレーヌは死者名簿の写しを抱えている。
セレスティアは、黒星、閃白、解白を携え、壁際に立っていた。
今日は剣を抜く日ではない。
法と記録を見届ける日だった。
法務官は読み上げた。
「第一に、ヴァルグレイン侯爵本人について」
「邪神戦争死者名簿への不正申請」
「偽造または改竄された資料の提出」
「侯爵家記録帳の改竄関与疑い」
「禁術師を用いた死者残響への偽名接続」
「世界連合死者名簿保全令違反」
「王国禁術取締令違反」
「以上により、王国法廷へ送致」
大広間は静かだった。
誰も異議を挟まない。
法務官は続ける。
「第二に、ヴァルグレイン侯爵家について」
「爵位の一時停止」
「王国貴族院における議席停止」
「復興支援事業への参加停止」
「死者名簿関連事業への関与禁止」
「戦争記録、家系記録、領地記録の全面監査」
「領民保護のため、領地運営は臨時管理官の監督下に置く」
ミレーヌが、少しだけ息を吐いた。
領民まで罰しないための措置だ。
セレスティアも、それを聞いて静かに頷いた。
罪を犯したのは侯爵と関与者である。
領民ではない。
復興を支えていた者たちまで潰してはならない。
法務官はさらに続けた。
「第三に、関与した禁術師について」
「王国禁術取締令違反」
「死者残響干渉」
「魂流攪乱未遂」
「術式器材の押収」
「禁術師資格の永久剥奪」
「法廷送致」
ルシェルが全て記録する。
筆音だけが響く。
人間王国の記録局長が前へ出た。
「記録局としては、追加措置を提案します」
王が促す。
「述べよ」
「ヴァルグレイン侯爵家提出資料は、破棄せず保存します」
ドワーフ代表が頷いた。
「偽造事例としてか」
「はい」
「よし」
記録局長は続ける。
「当該資料には、明確に次の注記を付します」
彼は紙を読み上げた。
「本資料は、死者名簿追加根拠として不適格」
「後年改竄疑い資料」
「該当箇所に削除痕あり」
「元記載不明」
「エルディオ・ヴァルグレインの名は、現時点で七十年前の邪神戦争死者として確認できず」
「使用目的は、偽造防止教育及び記録鑑定訓練に限る」
ルシェルは頷いた。
「妥当です」
記録局長はルシェルを見た。
「ルシェル殿下の鑑定報告を、王国記録局の標準教材に加えたい」
ルシェルが少し驚いた顔をした。
「私の報告を、ですか」
「はい」
「若い記録官に、何を見落としてはならないかを教えるためです」
ルシェルは一瞬だけ沈黙した。
そして、静かに頭を下げた。
「死者の場所を守るために使われるなら、許可します」
記録局長も頭を下げた。
「感謝します」
王がセレスティアを見る。
「セレスティア」
「はい」
「何かあるか」
セレスティアは、少し考えた。
そして、前へ出た。
大広間の視線が集まる。
剣神セレスティア。
だが、今日は裁く神ではない。
死者の眠りを守った現世神として、言うべきことだけを言う。
「ヴァルグレイン侯爵家が、復興に尽くした記録は消さないでください」
人間王国の使節団が顔を上げた。
セレスティアは続ける。
「物資を出したこと」
「領民を食わせたこと」
「街道を整えたこと」
「橋を直したこと」
「それらが事実なら、記録してください」
法務官が頷く。
「もちろんです」
「ですが」
セレスティアの声が静かに低くなる。
「死者名簿の不正申請も、禁術も、同じように記録してください」
「はい」
「功績を消して罪だけにしない」
「はい」
「罪を消して功績だけにしない」
「はい」
「どちらも残してください」
王国記録局長が深く頭を下げた。
「承知しました」
セレスティアは、改竄帳面を見た。
「そして、元の削られた記録について」
「はい」
「分からないままにしてください」
ミレーヌが頷く。
ルシェルも静かに頷いた。
「何かが書かれていた可能性はある」
「はい」
「けれど、何が書かれていたかは分からない」
「はい」
「ならば、分からないと記録してください」
「はい」
「そこに、都合のよい名を入れないでください」
「はい」
セレスティアは、大広間全体を見た。
「未判明とは、空欄ではありません」
その言葉は、既に何度も言われていた。
だが、今は一層重かった。
「未判明は、まだ名を取り戻せていない誰かの場所です」
「その場所を、家名の飾りにしてはなりません」
「死者の名は、石碑の装飾ではありません」
「爵位を支える柱でもありません」
「復興利権への入口でもありません」
「剣神との縁を装う証でもありません」
セレスティアは、静かに言った。
「死者の名は、死者のものです」
大広間は静まり返った。
誰も言葉を挟まない。
セレスティアは続ける。
「生者は、その名を預かるだけです」
「正しく分かれば記録する」
「分からなければ、分からないと守る」
「削られたなら、削られたと残す」
「偽られたなら、偽られたと教訓にする」
「それが、忘却せず、ということです」
ミレーヌの目に涙が浮かんでいた。
ルシェルは、筆を止めていた。
記録しなくても、その言葉を覚えている顔だった。
人間王国の法務官が、深く頭を下げた。
「王国は、その方針に従います」
王が頷いた。
「世界連合も同じだ」
海の巫女が言った。
「海の民も」
竜の使いが低く言う。
「竜の谷も」
ドワーフ代表が鼻を鳴らした。
「グランガルドもだ」
草原の族長が腕を組む。
「草原も異議なし」
山の隠れ里の長も頷いた。
「同意」
こうして、ヴァルグレイン事件の処分方針は定まった。
だが、会議はそこで終わらなかった。
ルシェルが、新しい書面を出した。
「再発防止策を提案します」
王が言う。
「述べよ」
ルシェルは読み上げた。
「死者名簿保全規則改定案」
「第一、死者名簿への追加申請は、少なくとも二系統以上の資料または証言による裏付けを必要とする」
「第二、家伝、家系図、口伝のみを根拠とする追加は、原則不可」
「第三、未判明者欄への追加は、既存の場所、役目、人数、時代用語、補給線、陣地配置との照合を必須とする」
「第四、資料に削除痕、綴じ直し、墨の差異、筆跡不一致がある場合、該当箇所は不明記録として保全する」
「第五、偽造または改竄が疑われる資料は破棄せず、偽造事例として保存する」
「第六、死者名簿に追加された名を、爵位、復興利権、軍事的名誉、宗教的権威の根拠として用いてはならない」
「第七、死者の名を政治的利益のために利用した場合、世界連合は調査権を有する」
「第八、死者名簿保全官を各地域に設置する」
大広間が少しざわついた。
王が問う。
「死者名簿保全官」
「はい」
「役目は」
「死者名簿、記録碑、未判明者欄、追加申請資料の保全です」
「はい」
「地域ごとの記録官だけでは、貴族家や地元権力の圧力を受ける可能性があります」
「その通りだ」
「そのため、世界連合に属する保全官を置き、地域をまたいで照合できるようにします」
人間王国の記録局長が頷いた。
「必要です」
法務官も言う。
「王国単独では、貴族家の圧力を排除しきれない場合があります」
ルシェルは続ける。
「保全官は、死者名簿への追加を急がせる者ではありません」
「はい」
「むしろ、急がず、間違えず、分からないものを分からないまま守る者です」
セレスティアは、その言葉に静かに頷いた。
王が言った。
「承認する」
各代表も同意した。
こうして、死者名簿保全官の制度が生まれた。
その中心には、ルシェルの名前が置かれることになる。
だが、ルシェルは誇らしげではなかった。
むしろ、責任の重さを受け止めるように、静かに記録していた。
会議の終わりに、王妃エルフィリアが口を開いた。
「一つ、よろしいでしょうか」
王が見る。
「何だ」
「死者名簿保全官の食事についてです」
大広間が一瞬止まった。
セレスティアは母を見た。
ルシェルも筆を止めた。
王妃は、真面目だった。
「各地域を回り、古文書を確認し、証言を聞き、時には権力者と対峙する役目です」
「はい」
「過酷な職務です」
「はい」
「食事と休息の規定を入れなさい」
ルシェルは、少しだけ目を瞬かせた。
そして、筆を取った。
「死者名簿保全官の職務規定に、食事及び休息の確保を明記します」
王妃は頷いた。
「よろしい」
ゴルドの通信が突然開いた。
「いい規定だ」
セレスティアは額に手を当てた。
「親方、会議中です」
「聞いてる」
「なぜ」
「死者の名と飯の話だからだ」
ドワーフ代表が笑いをこらえている。
ゴルドは続けた。
「飯を抜く記録官は、まともな鑑定ができねぇ」
ルシェルが真面目に頷いた。
「一理あります」
「一理どころじゃねぇ」
王妃も頷いた。
「その通りです」
セレスティアは、少しだけ遠い目をした。
死者名簿保全官制度の創設に、食事規定が入る。
白樹の森らしいと言えば、白樹の森らしい。
会議後。
ヴァルグレイン事件に関する正式通達が各地へ送られた。
ヴァルグレイン侯爵本人、禁術師、関与家臣は法廷へ送致。
侯爵家は爵位一時停止。
貴族院議席停止。
復興支援事業参加停止。
記録監査実施。
領地は臨時管理官監督下へ。
侯爵家の正当な復興貢献記録は残す。
ただし、死者名簿改竄疑い及び禁術使用も同時に記録する。
エルディオ・ヴァルグレインの死者名簿追加は不可。
削除痕のある元記載は不明記録として保全。
探索継続対象。
忘却せず。
死者名簿保全官制度を創設。
死者の名は、家名の飾りではない。
この通達は、人間王国だけでなく、世界各地へ送られた。
その日の夕方。
グランガルドのゴルド工房では、新しい看板が掲げられていた。
バルド・ガルガンドが、父の横で文字を整えている。
ゴルドは腕を組み、文句を言っていた。
「もっと太く書け」
「読める方が大切です」
「太い方が伝わる」
「父上の字は太い以前に荒いのです」
「それがいいんだ」
「公式通達ではありませんが、読む者はいます」
「だから荒くていい」
結局、看板はこうなった。
死者の名は、家名の飾りじゃねぇ。
分からん名は、分からんまま守れ。
削られたなら、削られたと残せ。
バカ姫は神罰を下さない。
ルシェルの坊主が記録で斬る。
飯を抜く記録官は信用するな。
バルドは、最後の一行を見て少し黙った。
「父上」
「何だ」
「最後の一行は必要ですか」
「必要だ」
「死者名簿保全官制度に関係しますか」
「する」
「どう関係しますか」
「腹が減ると字が汚くなる」
バルドは、しばらく父を見た。
「父上は、満腹でも字が荒いです」
「お前、最近よく言うな」
「ゴルド工房の後継として、記録性も考えるべきかと」
「生意気言うな」
だが、ゴルドは看板を直さなかった。
弟子たちが看板を読み、笑いながら頷いた。
その看板の写しは、なぜか翌日には白樹の森へ届いた。
ルシェルが見て、少し固まった。
「ルシェルの坊主が記録で斬る」
セレスティアが横から覗き込む。
「親方らしいですね」
「飯を抜く記録官は信用するな」
王妃エルフィリアが、静かに頷いた。
「正しいです」
ルシェルは、否定できなかった。
ミレーヌは笑っていた。
セレスティアも、少しだけ笑った。
その日の夜。
白樹の森の食堂。
いつものように食事が並んでいた。
スープ。
パン。
豆の煮込み。
果実。
干し肉。
セレスティアは干し肉を見た。
硬い。
まだ噛んでいないが分かる。
だが、今日はその硬さが少し安心できた。
事件は重かった。
死者の名を偽り、記録を削り、眠った残響に偽名を押しつけた。
だが、世界は剣神に神罰を求めるのではなく、法と記録で裁く道を選んだ。
それは、小さくない一歩だった。
ルシェルが、食卓で言った。
「姉上」
「はい」
「死者名簿保全官の初代統括を任されることになりそうです」
「そうですか」
「重い役目です」
「はい」
「ですが、やります」
セレスティアは、静かに微笑んだ。
「あなたならできます」
ルシェルは少しだけ目を伏せた。
「記録で斬ると言いましたから」
「はい」
「斬った後も、守らなければなりません」
「その通りです」
ミレーヌが言った。
「私も手伝います」
ルシェルが顔を上げる。
「ミレーヌ姉上」
「死者名簿を読み上げた者として、見届けます」
ルシェルは頷いた。
「お願いします」
王は静かに茶を飲んでいた。
王妃は、ルシェルの皿に干し肉を追加した。
ルシェルが固まる。
「母上」
「死者名簿保全官は、食事を抜いてはいけません」
「はい」
「今から慣れなさい」
「……はい」
セレスティアは少し笑った。
そして、自分の干し肉を噛んだ。
硬い。
「硬いですわ」
ルシェルは、記録板に手を伸ばしかけた。
王妃が見た。
ルシェルは手を戻した。
食堂に、柔らかな笑いが広がった。
その笑いの中で、セレスティアは思う。
死者は眠る。
生者は食べる。
記録官は記録する。
法務官は裁く。
王は制度を作る。
母は食事を出す。
ゴルドは看板を書く。
それぞれの持ち場がある。
剣神は、全てを背負わない。
ただ、最後の一点で刃となる。
それでよい。
夜。
白樹の森の記録室では、ルシェルが新しい棚を用意していた。
棚札には、こう書かれている。
死者名簿保全官制度関係記録。
その隣には、別の棚札。
偽造・改竄事例記録。
ヴァルグレイン侯爵家の資料は、そこに収められる。
破棄されない。
隠されない。
なかったことにされない。
失敗として、罪として、教訓として、残される。
ミレーヌは、未判明者欄の写しを整えていた。
削除痕のある元記載について、新しい一文を書き加える。
ヴァルグレイン侯爵家戦争記録帳該当箇所。
元記載不明。
後年削除痕あり。
探索継続対象。
忘却せず。
セレスティアは、その文字を見た。
「これで、守れますか」
ルシェルは答えた。
「完全ではありません」
「はい」
「ですが、空欄にはしません」
「はい」
「誰かが勝手に入る場所にもさせません」
「はい」
「分からないものとして、守ります」
セレスティアは頷いた。
「お願いします」
ルシェルは、静かに言った。
「姉上」
「はい」
「今回、姉上は術式を斬りました」
「はい」
「ですが、名簿を守るのは、私たちの仕事です」
「はい」
「今後も、私たちに任せてください」
セレスティアは、ルシェルを見た。
ルシェルの顔には、もう弟だけではないものがあった。
記録を背負う者の顔だった。
セレスティアは、深く頷いた。
「任せます」
その一言で、ルシェルは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
窓の外には、星が出ていた。
邪神戦争から続く夜。
死者の名を取り戻す夜。
偽りを記録で斬った夜。
セレスティアは、静かに思った。
死者の名は、家名の飾りではない。
それは、死者自身のもの。
生者は、それを預かるだけ。
そして、分からない名は、分からないまま守る。
忘却せず。
その言葉が、記録室の灯りの中で静かに残っていた。




