第77話 剣聖セレスティアの葬送
封印地外縁の確認を終えた翌日。
白樹の森は、朝から静かだった。
邪神戦争が終わってから、静けさの意味が変わった。
以前の静けさは、封印の限界を待つ緊張を含んでいた。
今の静けさは、役目を終えた者を送るためのものだった。
セレスティアは、王宮の中庭に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
だが、今日は剣を抜くためではない。
名もなき森へ向かうためだった。
前世セレスティアの肉体が安置されている場所。
邪神格に使われ、朽ちることを許されず、不腐敗のまま残されていた身体。
邪神討伐後、魂の座の残渣は消えた。
剣聖セレスティアは完全な眠りへ移行した。
ならば、残された身体も、眠りへ送らなければならない。
今日、その葬送を行う。
同行するのは、セレスティア、王、王妃、ルシェル、ミレーヌ、ゴルド、数名の精霊術師、そして記録官。
大きな儀式にはしない。
各地代表を呼ぶこともしない。
剣聖セレスティアは、神として祀られるために眠るのではない。
一人の死者として土へ還るために眠る。
だから、立ち会う者も最小限にした。
ミレーヌは、白い花を抱えていた。
白樹の森に咲く、小さな花だった。
供物ではない。
飾りでもない。
ただ、眠る者へ添える花だった。
王妃は、聖布を新しく用意していた。
ルシェルは記録板を抱えている。
ゴルドは腕を組んで立っていた。
今日は槌を持っていない。
代わりに、小さな酒瓶を持っていた。
セレスティアはそれに気づく。
「親方」
「何だ」
「それは火酒ですか」
「ああ」
「またですの?」
「一滴だけだ」
「ロウガン様にも垂らしていましたわね」
「寝る奴には一滴くらいあっていい」
ゴルドは、少しだけ視線を逸らした。
「こいつにもな」
セレスティアは、静かに頷いた。
「はい」
王が転移陣の前に立つ。
「行こう」
転移の光が中庭を包んだ。
次に見えたのは、名もなき森の石畳だった。
森は、静かだった。
以前よりも、さらに穏やかに感じられた。
邪の気配はない。
過剰な清浄の気配もない。
ただ、森として息をしている。
鳥が鳴いている。
小さな風が木々を揺らしている。
それだけだった。
ミレーヌが、小さく言った。
「ここは、もう怖くありませんね」
セレスティアは頷いた。
「はい」
「前に来た時は、少しだけ緊張しました」
「わたくしもです」
「今は」
「眠る場所です」
ミレーヌは、白い花を抱き直した。
「はい」
石室へ向かう。
道は整えられている。
だが、華美ではない。
旗もない。
像もない。
祈るための祭壇もない。
ただ、歩くための道がある。
崇めず。
祀らず。
役目を与えず。
眠るための道。
石室の入口にいた精霊たちは、淡く揺れた。
セレスティアたちが近づくと、扉が静かに開く。
中は、以前よりも明るかった。
灯りが増えたわけではない。
石壁の清浄文様が柔らかく光っているだけだ。
中央には、石棺。
そこに刻まれた一文。
セレスティア、ここに眠る。
セレスティアは、その文字を見た。
以前は、その一文に痛みがあった。
今は違う。
ようやく、その言葉が本当になった。
ここに眠る。
もう戦わない。
もう使われない。
もう起こされない。
王が静かに言った。
「始めよう」
精霊術師たちが石棺の蓋を動かす。
ゆっくりと。
丁寧に。
石が擦れる音が、石室に響いた。
中には、聖布に包まれた前世セレスティアの肉体があった。
王妃が新しい聖布を広げる。
古い聖布を外す前に、セレスティアは神眼を開いた。
深くはない。
必要なところだけを見る。
邪神反応なし。
外理反応なし。
魂の座残渣なし。
清浄安定。
そして、以前あった不自然な不腐敗の固定が、ほどけ始めている。
腐敗ではない。
崩壊でもない。
死者の身体が、ようやく自然へ還る方向へ向かっている。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「問題ありません」
ルシェルが記録する。
「前世セレスティア肉体確認」
「邪神反応なし」
「外理反応なし」
「魂の座残渣なし」
「不自然な不腐敗固定、解除傾向」
「自然遷移確認」
王妃が、ゆっくりと聖布を整えた。
ミレーヌは、少しだけ震えていた。
「見ても、よいでしょうか」
セレスティアは、王妃を見る。
王妃は頷いた。
「見届ける覚悟があるなら」
「あります」
古い聖布が、少しだけ開かれた。
そこに、前世セレスティアの顔があった。
安らかだった。
邪神格に使われていた時の苦痛はない。
眷属として立っていた時の歪みもない。
魂の座の残渣が燃え尽きた後の、静かな顔。
ただ眠る死者の顔だった。
ミレーヌの目に涙が浮かぶ。
「本当に、眠っているのですね」
「はい」
「もう、苦しくないのですね」
「はい」
「よかった」
ミレーヌは、泣いた。
だが、その涙は恐怖ではなかった。
安堵だった。
ゴルドは、前世セレスティアの顔をじっと見ていた。
しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「ようやくか」
誰も急かさない。
ゴルドは、少しだけ息を吐いた。
「長かったな」
セレスティアは、ゴルドを見た。
ゴルドの声は、いつもの荒い声ではなかった。
七十年前を知る者の声だった。
「もう起きるな」
ゴルドは、静かに続けた。
「今度こそ寝てろ」
そして、セレスティアをちらりと見る。
「こっちのバカ姫は、ちゃんと帰ってきた」
セレスティアは、何も言えなかった。
ゴルドは、酒瓶の栓を開けた。
火酒の香りが、石室に広がる。
強く、深く、炉の火のような香り。
ゴルドは、石棺の内側ではなく、石棺の足元の地面へ一滴だけ垂らした。
「飲めとは言わねぇ」
低く言う。
「だが、俺は一滴置いていく」
火酒の一滴が、石床へ染みた。
それだけだった。
奇跡は起きない。
光も出ない。
前世セレスティアは起きない。
それでよかった。
死者は眠っているのだから。
王妃が、古い聖布を丁寧に外し、新しい聖布で身体を包み直した。
その動作は、神聖な儀式というより、母が眠る子に布を掛けるようだった。
セレスティアは、その様子を見ていた。
胸の奥が静かに痛む。
この身体を残せば、記録になる。
邪神の冒涜の証拠になる。
剣聖セレスティアが確かにいた証にもなる。
だが、残せば、いずれ誰かが利用するかもしれない。
聖遺物にしようとする者。
剣神伝説の証拠にしようとする者。
祈りの対象にする者。
骨の一片、髪の一筋、聖布の切れ端まで意味を持たせようとする者。
邪神は終わった。
だが、人は意味を作る。
だから、眠らせる。
土へ還す。
セレスティアは、石棺の前に膝をついた。
神は跪かない。
だが、これは神としての行為ではない。
同じ名を持つ死者への礼だった。
「剣聖セレスティア」
声は静かだった。
「あなたを、神具にしません」
石室は静かだった。
「あなたを、聖遺物にしません」
ミレーヌが涙を拭きながら聞いている。
「あなたを、わたくしの伝説の証拠にも使いません」
ルシェルが筆を握ったまま、動きを止めていた。
「あなたは、役目を終えた者です」
ゴルドは目を伏せている。
「眠るべき者です」
王妃は、聖布を整え終えた。
「だから」
セレスティアは、深く頭を下げた。
「眠ってください」
返事はない。
それでよい。
眠っているのだから。
ミレーヌも隣に膝をついた。
「ありがとうございました」
声が震えていた。
「七十年前、世界を次へ渡してくれて」
「最後に、お姉様を助けてくれて」
「ありがとうございました」
「どうか、安らかに」
ルシェルも記録板を置き、深く頭を下げた。
「記録します」
静かに言う。
「ですが、利用しません」
王妃も頭を下げた。
「おやすみなさい」
王は、最後に短く言った。
「眠れ」
ゴルドも言った。
「寝てろ」
同じ意味だった。
前世セレスティアの肉体は、石棺から慎重に出された。
石室の奥には、小さな土の場所が用意されていた。
森の土。
白樹の根が届かない、けれど森の息が届く場所。
そこに、遺体を土へ還すための穴が掘られている。
豪華な墓ではない。
石造りの霊廟でもない。
ただ、土。
死者が還る場所。
精霊術師たちが、慎重に身体を運ぶ。
ミレーヌが白い花を添える。
王妃が聖布を最後に整える。
セレスティアは、土の前に立った。
黒星が低く鳴る。
『眠る』
「はい」
閃白が澄んで言う。
『ようやく』
「はい」
解白が淡く告げる。
『邪神反応なし。葬送可能』
「ありがとうございます」
前世セレスティアの身体が、静かに土の中へ置かれた。
誰も声を上げない。
誰も祈らない。
誰も奇跡を求めない。
ただ、見届ける。
土が戻される。
一掬いずつ。
ゆっくりと。
ミレーヌが一掬い。
ルシェルが一掬い。
王妃が一掬い。
王が一掬い。
ゴルドが一掬い。
最後に、セレスティアが一掬い。
土が聖布を覆う。
白い花が、その上に置かれる。
石棺は空になった。
そこに、もう剣聖セレスティアはいない。
名もなき森の土の下に、彼女は眠った。
崇められず。
祀られず。
一人の死者として。
ルシェルが、静かに記録した。
剣聖セレスティア葬送。
名もなき森にて実施。
神具化せず。
聖遺物化せず。
祀らず。
崇めず。
一人の死者として土へ還す。
セレスティアは、その文字を見た。
そして、頷いた。
「それでよいです」
ゴルドが言った。
「石棺はどうする」
王がセレスティアを見る。
セレスティアは、空になった石棺を見た。
セレスティア、ここに眠る。
そこに刻まれた文字。
だが、もう石棺には眠っていない。
土の中に眠っている。
「石棺は残しましょう」
ルシェルが問う。
「記録としてですか」
「はい」
「ただし、遺体はないことを明記します」
「はい」
「ここは墓ではなく、葬送が行われた場所として」
「はい」
「そして、土の場所には小さな石を一つ置きます」
ミレーヌが聞く。
「名前は刻みますか」
「刻みます」
セレスティアは、静かに言った。
「剣聖セレスティア」
「役目を終えた者」
「眠るべき者」
「忘却せず」
ルシェルが記録する。
「はい」
ゴルドが腕を組む。
「余計な称号は要らねぇな」
「はい」
「神剣の母だの、剣神の前身だの、邪神を拒んだ聖女だの、書くな」
「書きません」
「よし」
ミレーヌが少し笑った。
「親方、細かいですね」
「こういうのは細かくしねぇと、すぐ余計なことを書き足す奴が出る」
セレスティアは頷いた。
「本当にそうです」
葬送の後、石室は整理された。
古い聖布は焼かない。
切り刻まない。
持ち帰らない。
聖遺物化を避けるため、精霊術師の立ち会いで、清浄な水に浸してから土へ還すことになった。
ルシェルがそれも記録する。
聖布、遺物化防止のため土へ還す。
石棺、空棺として保存。
遺体は土葬済み。
土葬地点、過度な装飾なし。
供物台なし。
祈願札なし。
管理は白樹の森と名もなき森の精霊が共同で行う。
ゴルドが言った。
「祈願札なんざ貼られたら、俺が剥がす」
セレスティアが答える。
「わたくしも剥がします」
「剥がすだけで済むか?」
「状況によります」
「土台ごと斬るなよ」
「親方が先に壊すでしょう」
「否定はしねぇ」
ミレーヌが小さく笑った。
その笑いに、石室の空気が少しだけ柔らかくなる。
葬送は、重かった。
だが、暗くはなかった。
眠るべき者が、ようやく眠ったのだから。
午後。
白樹の森へ戻った一行は、簡素な報告会を行った。
王が、世界連合へ葬送完了を通達する。
剣聖セレスティア葬送完了。
名もなき森にて、一人の死者として土葬。
神具化、聖遺物化、信仰対象化を行わず。
石棺は空棺として保存。
土葬地には小石を置き、簡素な記録のみ刻む。
祀らず、崇めず、忘却せず。
この通達は、各地へ送られた。
その夜。
白樹の森の食堂で、セレスティアは静かに食事をしていた。
王妃が用意した温かいスープ。
柔らかいパン。
豆の煮込み。
白樹の果実。
そして、当然のように干し肉。
ゴルドも同席していた。
葬送を終えた後、すぐにグランガルドへ戻ると言っていたが、王妃に食事をしてからと止められたのだ。
ゴルドは文句を言わなかった。
静かにパンを食べ、豆の煮込みを食べ、干し肉を噛んでいる。
セレスティアも干し肉を噛んだ。
硬い。
今日も硬い。
だが、今日はその硬さがありがたかった。
重い葬送の後でも、地上の食事は続く。
死者は眠る。
生者は食べる。
それでよい。
ゴルドが、ふと口を開いた。
「バカ姫」
「はい」
「火酒の約束、忘れてねぇだろうな」
セレスティアは、少しだけ顔を上げた。
「忘れていません」
「邪神は斬った」
「はい」
「剣聖の嬢ちゃんは寝た」
「はい」
「三賢者も寝た」
「はい」
「お前は帰ってきた」
「はい」
「なら、飲めるな」
セレスティアは、静かに微笑んだ。
「はい」
王妃が言った。
「飲むなら、食事を摂ってからです」
「お母様」
「酒量は制限しません」
セレスティアは、少し目を瞬かせた。
「よろしいのですか」
「あなたは真神格です。火酒で酔うことはないのでしょう」
「はい」
「ならば、酒量ではなく、飲み方を守りなさい」
「飲み方」
「食事を抜かないこと」
「はい」
「一人で飲まないこと」
「はい」
「飲んだ量を自慢しないこと」
「しません」
「明日の朝食には必ず来ること」
「……はい」
ゴルドが笑った。
「邪神より王妃様の方が強ぇな」
セレスティアは、少しだけ肩を落とした。
「否定できませんわ」
王妃は、涼しい顔でスープを配った。
「当然です」
食後。
ゴルドはグランガルドへ戻る準備をした。
セレスティアは言った。
「親方」
「何だ」
「火酒は、近いうちに持って行きます」
「持って行く?」
「はい」
「何本だ」
「樽で」
ゴルドは目を細めた。
「何樽だ」
セレスティアは、少しだけ楽しそうに言った。
「十樽ほど」
ゴルドは、しばらく黙った。
そして、低く言った。
「本当にバカ姫だな」
「親方と飲むためです」
「俺を潰す気か」
「潰れるのですか」
「潰れねぇ」
「では問題ありません」
「問題しかねぇ」
ゴルドはそう言いながら、少しだけ笑っていた。
「来るなら工房に来い」
「はい」
「弟子どもも呼ぶ」
「はい」
「復興で働いた連中にも分ける」
「そのつもりです」
「なら、もっと早く言え」
「親方の驚く顔が見たかったので」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「本当にバカ姫だ」
その夜、セレスティアは自室の窓から名もなき森の方角を見た。
そこに光は見えない。
魂の座の残渣もない。
清浄の過剰な反応もない。
ただ、森がある。
そこに、一人の死者が眠っている。
剣聖セレスティア。
役目を終えた者。
眠るべき者。
忘却せず。
黒星が低く鳴った。
『眠ったな』
「はい」
閃白が澄んで言う。
『ようやく』
「はい」
解白が淡く告げる。
『葬送完了。記録固定』
「はい」
セレスティアは、静かに目を閉じた。
「ありがとうございました」
その言葉は、誰かに届くためのものではない。
もう、起こさないためのものだった。
邪神戦争は終わった。
三賢者は眠った。
剣聖セレスティアも眠った。
残された者たちは、明日からまた復興に向かう。
そして近いうちに、火酒を十樽持って、ゴルドの工房へ行く。
その約束が、セレスティアを少しだけ地上へ引き戻した。
死者は眠る。
生者は食べる。
そして時には、約束の酒を飲む。
それが、終わらなかった世界の夜だった。




