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9/18

銃殺刑の当日 聞こえない蝉の声

 あの真夏の夜の帝都大空襲。

 すでに数日と経っているはずなのに、日数も時間間隔も麻痺したかのように何も動いていないような気がして、ただ鬱々がつづく。

 暦を見れば、まだ九月を迎えるにははやい。

 夏の日差しもまだ強く、夜も日中の熱が残り、時折寝苦しいこともある。

 規律正しく過ごすため、軍服を着ていれば日中は汗も滴り、うんざりとしたため息をつきたくても暑さによどんだ空気が不快で、嫌な感情を吐き出したくても満足にため息もつけない、そんなありさまだ。


 ――そう、まだ夏だというのに。


 いつからだろう、蝉の声が聞こえなくなったような気がする。

 ここは帝都からほどよく離れた地域。

 どちらかといえば沿岸部に近く、土地柄も涼を感じる海風が届いて、本来であれば心地よく感じてもいい場所だ。

 いま立つ場所も軍事関連施設のため内容や目的を周囲には知られぬよう、広大な敷地には閉鎖的な塀と樹木が二重の壁となって独特の威圧を出しているが、門をくぐって中に入れば木々の深緑が逆に美しく、仰げば日差しはきついが青空があって閉塞感は――ただし、軍事施設のため心理的閉塞感は否めないが――ない。

 それこそ、周囲の木々に蝉がとまって大合唱をしていてもおかしくはないというのに、その声が聞こえない。

 だからといって生まれつき耳に不自由があるとか、軍務中に事故に遭って聴力に支障があるとか、そういったことは一切なく、未曾有の事態に精神が参って突発的な難聴になったわけでもなく、周囲の声は通常に聞こえ、いまもこの施設に入ってくる車の音も聞こえている。

 ほんのちょっと集中すれば、そばを歩く人間たちの声……会話だって聞き取れてしまうというのに、どうしてか蝉の声だけが聞こえない。


 ――もしかすると……。


 心理的に今日という日を認めたくはないから、だからどこかで現実逃避を願い、それが蝉の声を遮断しているのかもしれない。

 聞こえてしまったら、やはりこれは否応なしの現実なのだと認めなければならない。

 その心情が作用して、蝉の声を拒絶しているのかもしれない。


 ――自分はこんなにも脆かっただろうか。


 こんなことでは帝国海軍軍人としては失格だ。どのようなときでも動揺せず、公私の情を区別してしっかりとした気概で足を踏み出さなければならないというのに……、


「ああ……」


 容赦のない日差しにのしかかられて、気を抜けば地面に膝をつきたくなるほど足元がおぼつかない。


本山(もとやま)閣下……」


 階級には無論の差があって、まだ一度も直接対面したことはなく、おなじ戦隊に配属されたこともなかったが、それでも観艦式や艦隊訓示のときはいつもその優美な姿を見て最大級の尊崇の念を抱いてきた。


 ――その、聯合艦隊司令長官の本山大将が今日、銃殺刑に処されるとは……。


 どうしてもそれを認めることができなくて、けれども最後にその姿を目に焼きつけなければと思い、今日ここに来た。


 ――来てしまった。


 どうあがいても、これは現実だ。

 受け入れなければならない現実だというのに、蝉の声が聞こえない。

 そんなふうに感情にめまいを起こしながら歩いていたときだった。


「――おい、いいのか?」


 けっして大きな波にはならないが、周囲が何かを目撃し始めて、それがこの施設には到底ふさわしくないようすの不審となって、疑問のような声がつぎつぎと波紋のように広がっていくのが耳に届いた。

 蝉の声は聞こえないというのに、どうして人間の声だけは聞こえてしまうのだろうか。

 どうせなら、人間の声のほうが聞こえなければいいのに。

 そう思った矢先のことだった。


本山(もとやま)のやつ、何で子どもなんか連れてきているんだ?」


 刹那、その声に途端に興味を持って目を見開いたのは、尊崇する本山大将とおなじ名字が耳に届いたからだった。


 ――本山……?


 反射的に色めき立ったのは、獄中にいるはずの本山大将が何らかのかたちで恩赦を受けて、ひょっとしたらその知らせを受けた家族が彼を出迎えるためにここに出向き、対面でもしているのだろうか。

 そんなふうに勝手に状況を浮かべてしまい、男は慌てて顔をあげて首をめぐらせたが、周囲の声の波の先に本山大将の姿はない。

 どこを見やっても、あの優美な姿は見当たらない。

 そのかわりに本山大将よりも年の若い青年が、まだ幼い子どもを連れて施設のなかに入っていく姿がわずかに目についた。


 ――誰だ、あいつ?


 周囲の声は、彼に向けて「本山」と言っている。

 だが、男にとって彼は面識のない顔だった。

 誰かが子どもが……と言っていたが、周囲は帝国陸海軍の第一軍曹に身を包んだ将校、高官ばかりなので、小さな背丈が実在していたのかどうかはもう窺えない。


「何だ、苗字がおなじやつか」


 本山、と聞こえたのは本山大将とおなじ苗字の誰かを周囲が刺しただけなのかもしれない。

 おなじ苗字とは、何とも羨ましい。

 そう思うだけで、あとはもう興味にはつながらなかった。


 本来であれば、わずかでもいいからそれを疑問に思わなければならなかった。

 ここは帝都郊外にある重要軍事施設――帝国陸海軍軍事関連収容施設および刑場なのだから、通常であっても幾重の許可を得なければ上層部や幹部であっても立ち入ることは制限されている。

 とくに今日は、先の帝都大空襲……米国海軍大太洋艦隊による帝都襲撃作戦の絶対防衛に失敗し、軍法会議の末に銃殺刑が決定した帝国海軍聯合艦隊司令部を中心とした一二名の処刑日で、朝から関係者がぞくぞくと集まっている。

 それこそ、どのような理由があろうと一般人が立ち入ることは厳禁だ。


 ――ましてや、幼い子どもの姿がここにあっていいはずもない……と。

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