第百九十話 いまはまだ‥‥‥
「い、今の見ました!?」
和泉が弾かれたように振り返る。
その震える視線が、その場にいる全員を順に巡った。
「サキコちゃん……。もしかして、見えてた光景って……」
和泉の問いに、私はすぐには答えられなかった。
喉の奥が、ひどく乾いている。
ゆっくりと、頷いた。
遠く離れた鉄橋。
その暗闇を切り裂いて爆ぜた、鮮烈な炎の軌跡。
ブレイブスラッシュを放ち、ルーガライガを振り抜いた姿勢のまま、ルーリもまた凍りついたように動かない。
隣で九頭竜が、呻くように呟いた。
「マグナフォルテ……」
私は、静かに頷く。
間違いない。あの灼熱の炎は、マグナフォルテ。
かつての勇者の剣。
あの剣を操れるのは、世界にただ一人。
「山川さん……」
ルーリの掠れた声が、夜の闇へ溶けていった。
──そう。この光景もまた、一週間前に私が“見た”通りだった。
▽▽▽
その夜は、春先だというのに汗ばむほど暑かった。
いや。熱いのは外気じゃない。私の中だ。
さっきから、息苦しいほどの熱が体の奥で燻っている。
こんな感覚は、一度もなかった。
連日の過剰脅威対策室との打ち合わせ。
加えて、今回の討伐案件の窓口である『治安維持特別合同部隊』──通称『治特隊』との行動プラン策定。
疲労はピークに達していた。
その日は違った。
朝から頭が重い。熱っぽい。
見かねた和泉が、覚えたての回復魔法をかけてくれたほどだ。
熱は引かなかった。眠気も訪れない。
代わりに、視界の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
意識が、深い底へと沈んでいく。
──冷たい雨が、降っていた。
鼻を突く、土埃と鉄の匂い。
視界いっぱいに広がるのは、無残な瓦礫と化した街の残骸。
その中心。
降りしきる雨の中、一人の男が首を垂れて地に跪いていた。
ずぶ濡れの背中が、微かに震えている。
その正面。
コンバットスーツに身を包んだルーリが、青く冷たい光を放つルーガライガの切っ先を、無防備な男の首筋へ突きつけていた。
剣を構える彼女の、その顔は──
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ、何も感じていなかった。
目を覚ました時、その後に何が起きたのか、どうしても思い出せなかった。
ただ「絶対に忘れてはいけない何か」だったという焦燥感だけが、胸の奥に棘のように刺さっていた。
▽▽▽
一週間後の日曜日。
久しぶりに足を運んだ東龍エンタープライズのオフィスは、休日の朝の静寂に沈んでいた。
二階の社長室で資料を広げていると、三度のノックが扉を叩いた。
「どうぞ」
顔を出したのは──。
「須藤さん!」
「おはようございます」
「昨日は遅かったの?」
私の問いに、彼は「ええ、まあ」とだけ答え、勧める間もなくソファへ深く腰を下ろした。
目の下には、ひどい隈ができている。
「お茶、淹れますか?」
「それより、本題に」
その目が、まっすぐ私を射抜く。
「そろそろ、いらっしゃる頃だと思っていましたよ。代表」
「そんな。別に急かしたつもりじゃ……」
慌てて否定する私に、須藤さんは肩をすくめ、少しだけ笑った。
「あんなメールを送られて、寝ていられるほど図太くはありません」
肩をすぼめる。
「合理性だけで言えば、彼を見捨てるのが正しいんでしょう」
静かな声だった。
その奥には、確かな熱があった。
「それでも私は、そういう計算ができない。彼は──私にとって、英雄なんです」
彼は一度、目を伏せる。
「たとえ彼が社会の敵と呼ばれようと、私が娘と、今日も笑って会えるのは……山川さんのおかげですから」
真っ直ぐな瞳。
その覚悟に触れ、私はただ「……ありがとう」と返すことしかできなかった。
▽▽▽
彼に連れられ、地下の実験室へ降りる。
作業テーブルの上は、ジャンク品の墓場だった。
分解された電子機器。見たこともない基板。用途不明のケーブル。
その中央に置かれていたのは──私が『治特隊』から極秘に預かっていた、魔王のコアの欠片。
須藤さんはそれを無造作に掴み、お弁当箱ほどの黒い金属ケースへと埋め込んだ。
カチリ。
乾いた音が響く。
「そんなものを使って、本当に大丈夫なの?」
「これ以外、考えられません」
即答だった。
「既存技術では、ヤツらの監視網を欺けない。でも、これは違う」
迷いなく、ケースの蓋を閉じる。
その瞬間。内部で、何かが“目を覚ました”気がした。
「ただ──こいつなら、十分戦えます」
須藤さんが、悪戯っぽく笑う。
「……使っちゃって、いいでしょ?」
私は頷いた。
「もちろん」
今、彼の助けになるものなら、なんだっていい。
「こんなところで、彼に倒れてもらっちゃ困るんです」
黒い箱をバッグへしまう。
「どうやって渡すおつもりで? 代表には二十四時間、尾行がついているんでしょう」
「だから、待ち合わせをします」
私はメモを差し出した。
「明日、この番号に電話するよう伝えてください」
そこには、山川さんの携帯番号が記されている。
「彼にね」
その場を満たす、低い駆動音。
無数のデバイス。複雑に絡み合う回線。
その中心で──
“彼”は、静かに目を覚まそうとしていた。




