第百八十八話 誰が為の正義
山の夜気は、刃物のように冷たかった。
足元には、底知れない闇の渓谷が口を開けている。
細い鉄骨の輪郭を、等間隔に並んだオレンジ色の保安灯だけが、夜空にぼんやりと浮かび上がらせていた。
静寂。無機質な鉄の美しさ。
だが、現実は優しくない。
横殴りの突風が吹きすさぶ。
一瞬でも気を抜けば、体ごと闇へさらわれそうになる。
俺は枕木を確かめるように踏みしめ、一歩ずつ、確実に前へ進んだ。
「……そう言えば、なんのクエストだったか聞いとくんだったな」
思わずこぼれた言葉に、すぐ返事が返ってきた。
『最近、この地域を荒らしている魔物の討伐らしいですよ』
イヤホンから落ちたムッシュの声に、思わず足を踏み外しそうになる。
『何に驚いてるんです? さっきまでも、こうして話してましたよね』
……そうだった。
ただ、これから殺し合いが始まるど真ん中で、こんな平坦な声を聞く違和感が半端ない。
「もしかして、これを介して町田とも話せるのか?」
『繋ぎましょうか? きっと心配してますよ』
「……いや、いい」
今はダメだ。
あの声を聞けば、気が鈍る。
「とりあえず、その魔物を……」
言いかけた、その時。
ドックン。
目の前の“歪み”が、脈打った。
さっきまで空間全体に漠然と広がっていた揺らぎが、急速に収縮し、一つの形を取り出し始める。
──なんだ?
異様な空間の歪みが、威嚇するようにこちらへ覆いかぶさってくる。
凄まじい風圧を伴って、それが襲いかかってきた。
俺は両腕で顔を庇い、膝をついた。
──痛みが、全身を貫く?
いや。違う。
この痛みは、俺のものじゃない。誰の痛みだ?
吹き付ける感情の波。
これは殺意じゃない。恐怖だ。怯えだ。
──俺を、恐れている?
俺は庇っていた腕を解き、強風の中でわずかに目を開いた。
視界の先。冷たい線路の上に、横たわる黒い塊。
鉄橋のオレンジ色の灯りを受け、その姿が艶やかに輪郭を現す。
鳥……いや、カラス?
そこにうずくまっていたのは、おぞましい魔物などではない。
やや大ぶりな、一羽のカラスだった。
こちらの気配を察知したのか。
艶やかな黒い翼を広げ、威嚇するように鳴き声を上げる。
片方の翼には無残にも鋼鉄のワイヤーが絡みつき、羽は毛羽立ってひどく痛んでいた。
「ムッシュ。俺にはあれ、ただの傷ついたカラスに見えるんだが……魔物はどこにいるんだ?」
『すいませんが、スマホのレンズをそのカラスに向けてもらえますか?』
俺は慌ててコートのポケットからスマホを取り出し、カメラのレンズをカラスへ向ける。
『……確認しました。傷ついたカラスですね。間違いありません。ただ……』
ムッシュが言葉に詰まった、その瞬間。
鉄橋を挟む黒い山肌から、幾筋もの赤い光点がカラスへ向けて注がれた。
──なんだ?
それが意味するものにすぐには気づけず、俺は細い光の糸をたどって山肌に視線を向ける。
タン、タンタンタンッ。
小太鼓でも叩くような乾いた音が響く。
同時に、カラスの周囲の鉄骨や枕木が弾け飛び、細かい煙が次々と上がった。
『伏せて! 銃撃です!』
ムッシュの叫びに、頭を抱えてうつ伏せに飛び込む。
次の瞬間、頬のすぐ横を何かが掠めた。
焼けたような熱が走る。
鉄骨が揺れ、ぎしぎしと不気味な悲鳴を上げた。
銃声は止まない。傷ついたカラスへ向け、執拗な弾幕が降り注ぐ。
「なんでカラスを!」
身を伏せたまま、俺は怒鳴った。
『ただのカラスじゃないようです。銃撃が、まったく効いていません』
言われて、顔を上げる。
雨あられと降り注ぐ凶弾を浴びながら、カラスは微動だにしていなかった。
弾頭が羽に触れる直前、何もない空間でひしゃげ、火花を散らして弾け飛んでいく。
──周囲が、透明な膜で覆われている。
『あの防御……以前、和泉さんが使っていた能力に似ています』
「……そうだな」
『通常のカラスが展開できるものではありません。超常個体の可能性が高いでしょう』
「……だろうね」
短く吐き捨てる。
『あともう一つ』
「なんだよ」
『これは推測ですが――あのカラスに敵意はありません。ただ、自分に向けられる暴力に怯えているだけです』
顔を上げ、前を見つめる。
そこには、翼を傷つけられ、飛ぶことも叶わず、無数の赤い光点を浴びながら、ひたすら銃弾に耐え続ける姿があった。
──理不尽な暴力に晒される、行き場のないはぐれ者。
俺は腹の底から、長く、深く息を吐き出した。
肺の奥の熱が、冷たい夜気に溶けていく。
「ムッシュ」
『はい』
「……計算機にしちゃ、上出来だ」
▽▽▽
あの日の事を、よく覚えていない。
ただひとつだけ、はっきりしている。
──あの時も、俺は“間違った側”だった。
銃声が遠のく。
代わりに、古い記憶が浮かび上がってくる。
目の前に輝くそれを、壊さなければならないと信じていた。
理由も、正義も、全部あとから付けられたものだ。
ただ衝動に突き動かされて、剣を振るうことしかできなかった。
暴れる俺を押さえつける手。
正しさを語る声。
冷たい理屈。整えられた結論。
──違うだろ。
俯く仲間。
目を逸らし、去っていく背中。
ああ、そうだ。
あの時、俺は。
“正義に切り捨てられた側”だった。
だから、すべてを忘れると決めた。
勇者の力も。俺自身の過去も。
もう、二度と──あの場所に戻らないために。
冷たい風が、強く吹いた。
記憶が散り、現実に引き戻される。
焦げ臭い匂いが鼻を突く。
跳弾の音。橋梁がこすれる摩擦音。
カラスの叫びが山間に響いた。
それは、あの日の俺の声と、寸分違わなかった。
『……銃撃が、止みました』
一瞬の静寂。
──ブレイブスラッシュ!!
夜を裂く、凛とした声。
青い斬撃が、一直線に振り抜かれる。
透明な壁が、音もなく砕け散った。
黒い体が宙を舞い、羽を撒き散らしながら鉄骨の端へ叩きつけられる。
『障壁が砕かれました! 次は直撃します!』
無機質な宣告。
──ブレイブスラッシュ!!
再び放たれる、絶対の一撃。
その瞬間。
俺の中で、何かが音を立てて切れた。
違う。
それは、正義なんかじゃない。
ただ、枠からはみ出したものを切り捨ててるだけだろうが。
あの日と、何も変わってない。
理屈も、ルールも、どうでもいい。
目の前で、泣いてる奴がいる。
それを見捨てる理由なんて──どこにもない。
俺は、飛び出していた。
考えたわけじゃない。
選んだわけでもない。
ただ、拒絶した。
“あの時の自分”になることを。
右手が、焼ける。
骨の奥から、何かが溢れ出す。
封じ込めたはずの熱が、暴力的に脈打つ。
止まれ、と命じる声はもうない。
止める理由も、もうない。
目前に迫る、青く透き通った死の斬撃。
俺は──それを、正面から砕いた。
衝撃が、爆ぜる。
空気が裂け、光が砕け、鉄橋そのものが悲鳴を上げる。
その中心で。
俺は、確かに“それ”を握っていた。
燃え盛る、灼熱の刃。
忘れたはずの力。
捨てたはずの証。
だが、それは。
最初から、ずっとそこにあった。
俺の中で、消えずに燻り続けていた。
──マグナフォルテ。




