第十六話 なかま
「いくら話しても、話したりません!」
そんなルーリをなだめ、結局、俺は彼女の自宅まで送ることにした。
自宅は、ごくありふれた白い賃貸アパート。中はそこそこしっかりしたワンルームだそうだ。
少し古びている分お値打ちだが、それでも家賃は八万以上するというのだから、都会は恐ろしい。川崎在住の俺ですら、ボロアパートで家賃は六万だ。
「それは大変だな」と俺が言うと、「でも、家賃はソニアがうまく捻出してくれてるんです!」と、エヘヘと笑った。
──競馬と競輪だな。
ソニアが涙ながらに語っていたことを、俺は思い出していた。
この後、少し仮眠をとって、朝九時からは近くのコンビニでバイトだそうだ。
「あんまり、無理しない方がいい」
「大丈夫です! 勇者なので『状態異常耐性スキル』があるから、1か月ぐらい寝なくてもへーきなんです!」
そのセリフ、最近どこかの女神からも聞いた気がする。
何も知らない俺が言うのもおこがましいが、やはりそれは違うような気がして、つい小言を漏らしてしまった。
「たとえ、体が大丈夫でも、心がすり減ってしまったら……それはもう、勇者とは言えないんじゃないか?」
俺の言葉に、「……そう、ですよね」と、ルーリはシュンと俯いてしまう。
しまった、と俺は慌てて話題を変えた。
「そ、そういえば! 前回の戦いの後、黒いスーツの連中がたくさん来てたけど、あれは一体?」
「あー……」と、ルーリは思い出すように視線をさまよわせる。
「あの人たちは、『過剰脅威対策室』の方たちです。この国の役人さん……だと思います。こっちの世界に来て、パーティを組んで活動し始めたら、どこからか聞きつけて接触してきたんです」
どうやら彼女は、彼らをあまり快く思っていないようだった。
「国家機関なら、そいつらから活動資金をもらえばいいんじゃないか?」
俺が無責任に言うと、彼女は静かに首を振った。
「実際、色々な提案は受けました。でも、なんだか納得できなくて……。一応、交通費とか、壊れたものの損害賠償とかは、何とかしてくれています」
彼女は一瞬口をつぐみ、そして、強い意志を込めて続けた。
「でもやっぱり、仲間たちに払うお金を、彼らにお願いするのは、違う気がするんです」
まったく、この勇者様は本当に生真面目だ。だが、アンジュが言っていた。「勇者の資質は、仲間を信じること」。だとしたら、彼女がそこにこだわる気持ちも、分かる気がした。
「……やっぱり、君は勇者なんだな」
つい、本音がこぼれた。
「え? 何ですか?」と、ルーリが不思議そうに聞き返す。
「いや、すごく頑張ってるなって」
「はい! おかげで、夢が一つ叶いましたから!」
エヘヘ、と彼女は恥ずかしそうに笑った。
アパートの前に着くと、「また絶対、時間作ってくださいね!」
彼女はそう言って手をブンブンと振り、アパートの二階へと続く階段を駆け上がっていった。
俺も軽く手を振り、その小さな背中を見送った。
「……無理だけは、するなよ」
俺の呟きは、白み始めた朝もやの中に溶けていった。
▽▽▽
家に帰ってからも、なんだか胸のモヤモヤが晴れず、とても会社に行く気分にはなれなかった。
結局、始業時間ギリギリに電話をかけ、「体調が優れないため、本日は休ませていただきます」と伝えた。
無遅刻無欠席が唯一の評価ポイントだった俺からの突然の電話に、訝しげだった上司も、「まあ、君が来ても、頼みたい仕事があるわけじゃないしね」と、大変失礼だが的を射た返答をして電話を切った。
以前の俺なら、絶望して、そのまま部屋を飛び出していたかもしれない。
だが、今の俺は全く気にならなかった。いや、気にはなる。だが、今は、会社のくだらない評価より、もっと気になることが多すぎる。
俺はクローゼットを開け、掛けてある三着のスーツのうち、一番黒くて、一番高いスーツを手に取った。
鏡の前に立つ。普段は、髭を剃る時くらいしか見ない自分の顔を、今日は念入りにチェックし、古くなったジェルでオールバックに髪を固めた。
──これで少しは、「くたびれた中年」から、「普通の中年」に近づけたか?
俺はビジネスバッグを肩にかけ、覚悟を決めて部屋を出た。
目的地までは、電車で一時間ほど。
このまま行けば、ちょうど昼過ぎには着けるだろう。
電車に揺られながら、これから話すべきことを頭の中で何度もシミュレーションする。だが、考えれば考えるほど、どんどん腰が引けていく自分がいた。
──やっぱり、やめようか。家に帰って、ベッドに潜り込もう。
そんな弱気な思いを巡らせているうちに、無情にも電車は目的の駅に到着した。
駅から出ると、目の前にそのビルは聳え立っていた。
空を映す、全面ガラス張りの超高層ビル。
目的の場所は、その10階から20階までを占める超有名企業『琥珀インターナショナル』だ。
俺は、震える足で、大理石でできた豪奢な受付へと向かう。
そして、紺色の制服を着た受付嬢に、なんとか声を絞り出した。
「お、お世話になっております。立川商事の山川と申しますが、企画部の九頭竜様はいらっしゃいますでしょうか。本日十四時に、お会いするお約束を頂戴しているのですが」
受付嬢は、「少々お待ちください」と、完璧な笑顔で内線電話をかけてくれている。
朝、彼に電話をした時、『商談という形の方が、会社を抜け出しやすいでしょう』と言ってはくれた。だが、一流企業のこの空気に完全に呑まれ、俺はもう、ここへ来たことを後悔し始めていた。
十分ほど待っただろうか。エレベーターが到着する静かなチャイムが鳴り、中から三つ揃えのスーツを着こなした長身の男が現れた。
その男──九頭竜は、まるで舞台俳優のような優雅な身のこなしで颯爽と俺の前に立つと、その細く鋭い目で、俺を頭のてっぺんから靴の先まで、品定めするように眺め回した。
「……やはり、あなたでしたか」
彼は、縁なしの眼鏡をクイッと中指で押し上げ、静かに言った。
「覚えていますよ。あの、炎の剣を」