第27話 再会
はっと目を開くと、そこはメリザンドの寝室だった。
ミシェルは洗顔用の湯を運んでいる最中だ。ベッドでそれを待っているメリザンドは、まだ記憶がはっきりしていないのかぼんやりとした表情で座っている。
また時間が戻った。メリザンドが殺されるたび、壊れてしまった時の流れが繰り返される。
ここでミシェルが取るべき行動は、何か。
前回と同じように侍女を解雇されれば、ロズの元へ行くことができる。次も来てくれと言われた。
でもきっと、彼はミシェルのことを覚えていない。
桶から手を離そうとして、ミシェルは動きを止めた。
このままメリザンドに湯を浴びせれば、ミシェルは公爵に解雇されるだろう。メリザンドは嫌がるはずだが、公爵の決定は変えられない。
今のミシェルにとって、メリザンドに仕え続けるのは恐ろしいことだ。
だが、どうだろう。ロズと顔を合わせた時、「誰だ」と聞かれたら。
それを想像するだけで、ぎゅっと心臓を握られたような心地になる。
だってもう、ミシェルの居場所は、ロズの隣しかないのだから。
メリザンドがピクリと動く。瞬きをした緑色の瞳に、ゆっくりと意識の光が灯る。
何もしなければ、ミシェルは侍女のままだ。主人の寝室にあるワードローブに住み、時々与えられる残飯だけを食べて、ボロ布をまとって寒さを感じることも忘れる。
言葉を、気持ちを封じられて、人形のように。
そしていつか、メリザンドの不興を買って殺されるのだ。
大きく体が震えた。
(それは、怖い)
ロズの所に行きたい。
その一心で、ミシェルは湯桶から、手を離した。
メリザンドの苛立ちは増していた。部屋に誰も入らないよう言いつけて、一人きりでベッドに籠る。
イライラの理由ははっきりしている。またもや殺されて、過去に戻った。いい加減に、鬱陶しいこの繰り返しをやめたいのに。
その上、時間を越えたメリザンドの意識を覚醒させたのは、ミシェルに浴びせられたぬるま湯だった。
どこで何が狂ったのか。忠実な侍女だったミシェルの行動が、ズレてしまった。メリザンドが言う通りに動くだけの存在だったのに、『桶を落とす』という行動が固定されたらしい。
厄介なのは、時間が戻った瞬間にそれが起きるということだ。阻止することもできない。
お陰でミシェルは父であるキャステン公爵を怒らせて、今は屋敷の地下牢にいる。きっとまた、追い出されてしまうだろう。
あれはメリザンドが手元に置いて使いたいのに。あんなに使い勝手が良い道具はない。ミシェルでなければ手に入れられない情報がたくさんある。
なんとか父におねだりをして、ミシェルを神殿に留めることには成功したけれど。
前回はしばらく彼女に会えなかったせいで、ろくに動けないまま殺される羽目になった。
「あたしを殺した奴ら、全員やり返さないと気が済まないよ」
殺されないようにするだけでは足りない。誰に手を出したのか、きっちりと思い知らせる必要がある。
だってメリザンドは、ロズノアテムの伴侶なのだ。世界の時間そのものを司る神の、唯一の相手だ。この国で、いや、世界で一番尊ばれ、愛されるべき存在だ。
そのメリザンドを殺すなど、決して許されることのない大罪だ。
すべてが解決した暁には、これまでメリザンド殺害に関わった人間は全員処刑しなければいけない。
そのためにはまず、メリザンドを狙う何者かを突き止めて、時間が戻るのを止めないといけないのに。
「やっぱりお父様に言って、ミシェルを戻してもらうしか……。でも、前回は聞いてくれなかったんだよねえ」
深くため息をつく。
前回の反省を踏まえて、ミシェルが屋敷を出る前に、必要なことを調べるように言っておいた。
湯をかけたことを随分気にしていたようで、声を掛けたらビクビクしていたけれど。メリザンドに危害を加えたのだから、当然の反応だ。まだ腹は立っているけれど、それでもミシェルを捨てたりしないのは、彼女を気に入っているからだ。
「早くこの繰り返しを終わらせて、ちゃんとロズノアテム様の伴侶になりたいなあ」
ぼやきながら、メリザンドはサイドテーブルに置いた本を指先で弾いた。
そのために必要なことなら、なんでもするのに。
『生贄の歴史』と題された本を見ながら、メリザンドはもう一度ため息をついた。
メリザンドに湯を浴びせた罰として、ミシェルは数日のあいだ地下牢に入れられたのち、正式に侍女を解雇された。
僅かな私物と共に屋敷を追い出され、向かうのは丘を登った先のロズノアテム神殿だ。
ここまでは前回とほぼ同じだ。メリザンドは前よりも強くミシェルを留め置こうとしたが、それを許す公爵ならば、そもそも解雇などしない。
前ならば気にならなかった空腹を抱えて、震える足で坂を上る。吹きすさぶ風は強くて冷たい。襤褸切れのようなワンピース一枚では、この寒さを凌ぐことはできない。
こんな風に感じたことは、今までなかった。生まれた時から、満足に物を食べたことなどない。冬の寒さはいつも傍にあった。着る物を汚してしまって、洗っている間はほぼ裸同然で過ごしたこともあるのに。
ミシェルにとって当然だったはずのことを、ことさらに強く感じるようになってしまった。空腹も、寒さも。
丘の上に神殿が見えてきた。敷地は黒い華奢な柵で囲われ、通りからでも様々な種類の薔薇が見えるように整えられている。寒い冬の時期でも、華やかさはないが愛らしい薔薇の花が咲いている。
息を弾ませて蔦のアーチをくぐった。正面入り口の脇に、神官服を着た二人組が立っているのが見える。
(ロズ)
年嵩の方は神官長だ。その後ろに控えるようにして、ロズがいる。だらけた姿勢で、こちらを見てもいない。相変わらず眠たげな顔をして、柵の上を跳ねる小鳥を眺めている。
神官長がミシェルに気が付いて、片手を上げた。
自然と足が速くなる。
「ようこそおいでくださいました……、ミシェル様?」
その声に視線を巡らせたロズが、ミシェルを見て目を瞠った。その顔が驚きで染まりきる前に、ミシェルは彼の胸に飛び込んだ。
「ロズ……!」
反射だろう、ロズの手が背中を支える。
会いたかった。彼がミシェルのことを覚えていないとしても、少し意地悪な口調で名前を呼んでくれるなら、それだけでいい。そう思えた。
ただ、ロズの隣にいたい。
「君は……」
ミシェルの感覚ではたった数日しか離れていないのに、この声が酷く懐かしい。
顔を上げると、ロズの赤い瞳とかち合う。たっぷりひと呼吸分見つめ合って、視線を外さないまま彼が口を開いた。
「神官長」
「は、はい」
「この子、僕がもらうよ」
添えられているだけだった手に力がこもって、強く抱き寄せられる。
満足げな笑みを浮かべたロズは、ミシェルの頭を優しく撫でてくれた。
「どうやら、僕のものみたいだから」
神官長が当惑したように声を上げている。その声がどこか遠い。
頭がくらくらする。手足に力が入らない。手にしていた荷物を足元に取り落とす。
「……ミシェル? 大丈夫?」
気遣うロズの声を最後に、ミシェルは意識を失った。




