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生贄侍女ミシェルと9の黒薔薇  作者: 神野咲音


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第23話 愛寵

 時間は少し遡る。



 祈りの間を俯瞰できる監視部屋で、ロズはぶつけた頭をさすりながらため息をついていた。


 監視部屋は、この神殿が作られた当初から存在している。祈りの間からは分からないように、壁に細く穴が開けられているのだ。居住区の物置から入ることが出来るのだが、物置の屋根裏に作られているせいで、四つん這いにならなければ進めないほど狭い。


 その上、公爵が封鎖した通路を開くのに、予想以上に時間がかかった。手の空いている神官に手伝わせたが、メリザンドが来るまでに開けられた穴は、ロズの肩をどうにか捻じ込めるくらいの幅しかない。


 穴を開けたせいで物置の中には瓦礫の山ができている。神官長に怒られるかもしれない。しかしロズにとってはどうでもいいことだ。


 祈りの間でミシェルたちがどんな会話をするのか、確かめなくてはいけないのだから。



(多分ミシェルは、あの女を怒らせる。今の彼女は、もう従順なお人形じゃない。それを知った奴がどうするかなんて……、簡単に想像できる)



 それはきっと、ミシェルにとっては世界の崩壊と同じ意味を持つ。これまでに信じていたものが、ただの幻想でしかなかったのだと、メリザンド本人に突きつけられるのだ。


 大多数の人間が、それで良かったと言うだろう。ロズだってそう思う。その方が、ずっと健全だ。


 だが、ミシェルが感じるであろう絶望と喪失感は、決して偽りなどではないのだ。


 そうなった時の、彼女の顔を見たかった。


 どんな表情だろう。目を見開いて、呆然とするのだろうか。ボロボロと、涙を零すのだろうか。あるいは、種火も失った暖炉のような冷たさを帯びるのだろうか。


 顔色はどうか。血の気が引いて、真っ白になるに違いない。それこそ、職人が丹精込めて作る陶器の人形のような、白い肌に。


 唇を震わせて、せっかく綺麗になった声を枯らして、泣き崩れるかもしれない。

 白くて、虚ろで、冷たい、そんなミシェルの姿は、どんなにかわいそうなことだろう。


 気づけば口元が弧を描いていて、ロズは右手で自分の頬を揉みほぐした。今は楽しく想像している場合じゃない。


 ちょうど、メリザンドがミシェルを連れて、祈りの間に入ってきたところだった。斜めに見下ろすこの監視部屋からなら、彼女たちの表情までよく見える。


 ロズは、メリザンドと顔を合わせたことがない。そのはずだ。ロズが記憶を持たない、繰り返される過去のいずれかでは、もしかしたら会っているのかもしれないが。


 そう思う理由はいくつかある。そもそもの性根が気に入らないのもあるし、メリザンド自身が必要以上に神殿に留まることをしないのも一つだ。普段表に出ないロズと彼女が遭遇する機会など、皆無に等しかった。


 それでも、メリザンドのことはよく知っていた。


 傲慢で、欲深く、無邪気。善悪というものを知らず、自己中心的。およそ、神の伴侶としては相応しくない少女。


 一つの家に伴侶役を任せるこのやり方は、破綻が見えていた。必ず失敗すると分かっていた。間違いではなかったけれど、いずれ終わりが訪れるものだった。


 それが、想定よりも最悪の形でやってきただけだ。


 眼下では、メリザンドが報告書に目を通している。情報屋が帰ってからの短時間で、ミシェルが読みやすいようにまとめていた。


 よくもあれだけ尽くせるものだと感心する。



(一体、どんな風に生きてきたんだろうね)



 感性が普通とはかけ離れている。産まれてからこの神殿でロズに拾われるまで、まともな場所にいたとは思えない。


 でなければ、そもそもメリザンドなどに傾倒したりしないだろう。


 頭の片隅で思考を巡らせていると、下で動きがあった。


 思うような結果ではなかったのだろう。メリザンドがミシェルを責めている。ロズからしてみれば分かりきっていた流れだが、ミシェルは動揺を隠せないでいる。


 褒めてもらえると思ったのだろうか。今までがそうだったとして、あの気まぐれなメリザンドが、努力に必ず報いてくれるとは限らないのに。



(ほんと、愚か)



 それでこそ、愛でる意味がある。



(……めでる?)



 ロズが自分自身の発想に首を傾げた時、ミシェルが意を決したように口を開くのが見えた。



「あ、あの、お嬢様。私、お嬢様に……」



 メリザンドについて語る時のギラギラと輝く瞳をしている。盲信の凝り固まった輝きだ。


 そんなミシェルに向かって、メリザンドが手を振り上げた。


 響き渡る乾いた音。どれだけの威力だったのか、ミシェルが床に倒れ込む。


 ロズは体を乗り出した。


 そら、見たことか。ミシェルの言う優しい女主人など、存在しないのだ。殴らず、閉じ込めず、殺そうとしない。そんな優しさの基準が、そもそもおかしかった。


 狂った世界に気づけ。外の広さに気づけ。メリザンドに仕えるだけが幸せではないのだと、いい加減に知るべきだ。


 早く、こちらへ落ちてこい。



「ミシェル。どうしてそんなに、綺麗な声をしているの?」



 メリザンドがミシェルの金髪を掴み、無理矢理引っ張り上げた。苦痛に歪むミシェルの顔。


 ロズはぴくりと肩を跳ねさせた。



(あれ、やばそう)



 メリザンドは暴力に抵抗のない人間だ。初めて自分に逆らった人形ミシェルを、簡単に許すわけがない。


 急いで体を起こすと、天井にまた頭をぶつけた。咄嗟に飛び出しかけた悪態を喉の奥に押し込む。


 屋根裏が狭すぎて、振り向くのにも時間がかかる。どうにか出入り口に向かって急ぐロズの耳に、平手打ちの音が届いた。二回目だ。


 狭い場所を抜け出し、ほとんど梯子と変わらない階段を飛び降りて、物置からの明かりが差し込む壁の穴に頭を突っ込む。


 さっき開けたばかりの穴が小さすぎて、肩がつっかえた。



「ふざけんなよあの公爵!!」



 絶対に罰を受けさせてやる。


 固く決意しながらもがいていると、神官服が破れる音がした。


 けれどそんなこと、構っていられない。


 強く床を蹴ると肩が抜けて、ロズは瓦礫と一緒に床に落ちた。



「ほんとに、最悪っ!」



 物置を飛び出し、廊下を駆ける。祈りの間の前にはキャステン家の使用人たちが並んでいる。彼女たちはロズを見てぎょっとした顔をしたが、無視した。


 どうすればミシェルを連れ出せるか。これ以上、メリザンドの怒りが彼女に向かないように。


 息を吸い込みながら考えて、ロズは強く扉を叩いた。



「ちょっと、ミシェルいるー!? 調理場のかまどが火を噴いたんだけど! どうしたらいい!?」



 じりじりしながら反応を待っていると、内側から扉が開いた。つまらなさそうな顔をしたメリザンドが、ヒールを鳴らしながら出てくる。


 彼女はロズには一瞥もくれず、さっさと歩いて行ってしまった。ざわついていた使用人たちが、慌てたようにその後を追う。


 そのドレスが翻った時に、裾に付いた赤い血がちらりと覗く。ロズは慌てて、祈りの間に飛び込む。



「ミシェル! 大丈夫!?」



 ミシェルは床に突っ伏していた。頭から血を流している。一瞬だけ、ロズの足が竦んだ。


 何よりもまず、怪我の手当をしなければ。医学のことはロズの担当ではないが、頭部の怪我は動かしてはいけないと聞いたことがある。



(いや、怪我が酷いならいっそ――)



 いっそ、どうしようというのだろう。今のロズには、何もできやしないのに。


 吐き気と共にせり上がってくる無力感を飲み込んで、ミシェルの傍に膝をついた。


 ゆっくりとした動きで、ミシェルが体を起こす。ふらついたりはしていないようだが、どこかぼうっとしていた。



「ごめん、すぐに助けられなくて」



 いろいろと話しかけながら、ミシェルの怪我を確かめる。頬は両方腫れているし、叩かれた時に爪が掠ったのか赤い線まで走っている。一番酷いのはやはり、側頭部の傷だ。流れ出した血が金髪に絡んで、固まり始めている。


 そんな状態なのに、ミシェルはまるで痛みを感じていないかのように、「だいじょうぶよ」と呟いた。視線がふわふわと宙を漂っていて、目は開いているのにこちらを見ていない。


 ロズのことを、見ていない。



「全然、大丈夫じゃないから!」



 思わず声を荒げたら、ぶれていた視線がゆっくりと落ちた。


 瞳に今まで灯っていた盲信の炎が消えて、ひたすらに凪いだ空のような青が広がっている。吸い込まれそうなほどに、何もないひとみだ。



「……頭は、きずが浅くても、たくさん血がでる。おじょうさまは、そんなに力がつよくない。見た目ほどじゃ、ない」



 その声も、灰に埋もれた種火のように静かだった。彼女の声はいつも落ち着いているけれど、今は生気を失ったように薄っぺらい。


 頭の傷を自分で確かめているミシェルの頬を、恐る恐る撫でる。



「慣れてるみたいだね」



 怪我をすることに。それがいつからのことなのか、ロズには分からない。



「まあ……」


「そうやって誤魔化すのは、君にしては珍しい」



 ミシェルは笑った。意図せず零れた笑いのようだった。


 その震える唇に、血の混じった涙が伝う。



「ロズ、わたし、どうしたらいいの?」



 空っぽの碧眼に、少年の姿が映る。


 ただ光を反射するだけの瞳が、まっすぐロズを見つめている。



(ああ……。かわいそうに)



 かわいそう。かわいそうだ。


 くるくると光を反射するだけの瞳も、ちいさく震える色のない唇も、まっしろに透き通って血の気の感じられない頬も。


 ミシェルの瞳に映る少年が、ほんの少しだけ、わらった。


 こんなにもかわいそうなものは、見たことがない。腹の奥でぎゅっと熱く固まったものが、下から突き上げるように鼓動を高鳴らせる。


 体の内側全部が焼け落ちそうだ。無性に体がそわそわして、意味も無くそこら中を走り回りたくなる。ふつふつと湧き上がってくるこの衝動を、ロズは知らない。


 知らないけれど、決して、嫌ではない。



「お嬢様に、言われたことを、すればいい? ここでお祈りして、もう一度しらべてもらう? おじょうさまを、殺そうとする人たちのこと……」



 赤い涙を手の甲で拭いながら、つたない口調で話すミシェルが、こんなにも。


 ――かわいそうだ。



「ミシェル」


「分からないの、ロズ。ほんとうに……、わからないの……」



 途方に暮れて見上げてきたミシェルの顔が、くしゃりと歪む。


 間違った人間を信じた挙げ句、裏切られて勝手に傷ついて、自分が何をすればいいのかすら分からなくなった、愚かで哀れな少女。そんな彼女が、原因を作り出したロズに縋り付いている。


 たまらなくなって、傷に障らないようにそっと抱きしめた。



「……ミシェル、僕の話、聞いてくれる?」



 こんなに優しい声が出せたのかと、ロズは自分自身に呆れてしまった。


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