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Lost Princess(前編)


湖畔を臨む丘では、ヤギが草を食んでいた。一見のどかな光景だが、少し地面を掘り返すと折れた剣や槍が埋まっていたりする。


城壁の名残が葛折りのように丘陵を伝っており、かつての栄華を偲ばせた。


へたれた帽子を被った少年が、丘を駆け上がって来る。近隣の村に暮らす子供で、名をロロという。まだ十歳にも満たないが、しっかりした足取りで一所を目指している。


丘の上には石で組まれた塔がそびえており、かつて虜囚を収容していた。現在では幽霊塔と呼ばれ、文字通り、幽霊が出るとの噂で持ちきりだ。外観は蔦で覆われており、内部はひんやりしていて昼間でも薄暗い。


少年は目が回りそうなほど長い螺旋階段を登り、最上階に辿り着いた。息を整えるのも忘れ、格子の前で叫ぶ。


「エレイン! 来たよ」


格子の向こうは虜囚がいたとは思えない程豪奢な部屋だった。赤い絨毯に、暖炉の火が煌々と光を放つ。暖炉の上には王冠を頂いた王と、その家族の肖像画がかけられている。


窓辺には、白いロングドレスを着た若い女性が立っていた。外の景色を物憂げに眺めていたが少年の声を聞くや、弾けるような笑みを浮かべた。


「ロロ! 来てくれたのね!」


亜麻色の髪をなびかせ絨毯を滑るように移動すると、女性は格子の前で少年と対面した。


格子越しであっても、少年はひとたび女性の前に立つと緊張する。湖水より澄んだ瞳に、優美な長い手足、それになんといっても、女性は王女なのだ。礼を欠いてはならないという刷り込みが、時折少年の態度をしゃちこばったものにさせた。


「王女様、ヤギの世話終わりました」


「ご苦労様。疲れたでしょう。おもてなしできないのは残念だけど」


ロロは、格子の内側に入れてもらったことがない。自分から入れて欲しいとは図々しくて口に出せないが、一度でいいからあの中で語り合いたいと思うのだった。


ロロの灰色のズボンの中で、何かがこすれた。道中で見つけた紫のライラックだ。尻ポケットに入れていたが、萎れて見る影もない。不注意に目を覆いたくなる。


取り出してみたものの恥ずかしくて、隠すことにした。王女はそれを見逃さず、渡すように求める。


「少しの間、目をつむってて」


二人の間で物をやりとりする時は、そうする決まりになっていた。指の間から風が掠めるような感触が通り抜けると、エレインの手に息を吹き返した生花が握られている。


「ありがとう、ロロはやさしいね」


ロロが目を開けると、エレインは決まって悲しい顔をするのだった。それが気がかりだったが、聞き出せないでいる。


「言えるわけ、ないよね」


ロロが帰った後、エレインは格子に手を伸ばす。エレインの手は透き通るように白く、それどころか本当に格子をすり抜けて、中手骨の部分が背景にとけ込んでいる。


エレインは、ブリテンにある小国の王女だった。五年前、同盟を結んでいた隣国に裏切られ、城は攻め落とされた。父王は戦死し、母は毒をあおって自死を選んだ。


虜囚となったエレインはこの塔に幽閉され、他の兄弟は皆、殺された。このまま辱めを受けるくらいならと、エレインもまた塔から身を投げて、短い生涯を終えた……、はずだった。


目覚めてみると、無傷の自分に驚いた。決して助かる高さではなかったのに、打身の跡すらない。


物音を聞きつけて見張りの兵がやってきた。元より捨てた命、逃げるつもりはない。


ところが、松明の火はエレインを照らすものの、兵は首を傾げて持ち場に戻ってしまった。


朝になると騒ぎは大きくなり、エレインの逃亡が表沙汰となった。敵兵は地団太を踏むほど悔しがり、付近を捜索したものの、手がかりは掴めず月日は流れた。


そこからエレインを知覚するものはいなくなった。荒れ果てていく城を眺めて暮らす日々は、エレインにとって拷問のようなものであったが、ここを離れる決心もつかなかった。


「貴女は死んだわけではない」


一人になって初めて会話した相手は、年齢不詳の魔術師だった。


「生物を構成する要素が何かご存じか? 筋肉、骨格、臓器、細胞、分子、原子……、果ては、私も預かり知らぬ密な世界がこの体を形作っている」


「何が言いたいのです」


「貴女は壊れてしまった。ただし、それは人の領域においての話です。幸か不幸か、神は貴女の体を世界に繋ぎ止めるために、非常に繊細な容れ物を用意されたということ。貴女の記憶が点と線を繋ぎ合わせて、像を結んでいる。ですがもし、貴女が自分のことを忘れたら……」


不吉な予言を残し、マーリンと名乗ったその男はひっそりと姿を消した。


要約すると、エレインの体は目に見えぬほど細かく砕かれて、質量を失っている。何の因果か亡霊のように動き回っているが、記憶が薄らいだ時にこの不完全な体も消滅するということらしい。


以来、城に残されたわずかな異物をかき集めて部屋を作り、ロロという子供を手懐けて話相手にすることで自分を保っている。


皮肉なことに、王女として暮らした城での日々より、幽霊塔の主となった今の方が、生に執着している。ロロには祖国を再興させたいという壮大な目標を掲げているが、あくまで建前だ。少しでもこの世に留まりたいと願う自分を、家族は許しはしないだろう。


階段の方から物音がした。ロロが戻ってきたのかと思い、エレインは格子から半分顔を覗かせた。


「ロロ?」


暗がりから答えは返ってこない。悪ふざけでエレインを外に出そうという試みは、これまで何度もなされてきた。今回もそうだと思いこみ、音を立てずに階段に向かう。


「きゃっ……!」


階段に倒れていたのは、見知らぬ男だった。腕を壁にもたれさせ、血塗れの甲冑は元の色がわからないほど汚れている。

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