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滅びゆく空の上を、死者の方舟が進む。
冥府の女王ヘルが集めた死人の爪、それで形作られた終末の船ナグルファル。
その舳先に立って見る光景は、まさにこの世の終わりそのものだった。
月と太陽が消え失せた空、星々は火の塊となって地上へと降り注ぐ。
世界の南端、ムスペルヘイムからは大いなるスルトが炎の軍勢と共に進軍する。
凍てつくニブルヘイムの北風は、大地を氷に閉ざしながらも、その炎を消すには至らない。
天上の勇者の館からは、オーディンご自慢の死せる英雄達が地獄の最中に降り立つ。
ムスペルの子らとエインヘリヤルの激突は、さぞや面白い見物となるだろう。
「キ、ヒ」
喉の奥が引き攣れる。
どうしようもなく腹の底で溜まっていた感情が、ぐつぐつと煮え滾っている。
終わりだ、終わりだ、これで全部がご破算だ。
運命を語るノルニルの三姉妹が予言した通りに、神も人も世界も、何もかもが黄昏に沈んでいく。
果たしてオーディンは今、どんな顔をしてこの有り様を眺めているだろう。
これだけは何とかして避けようとし、仮に予言が現実のものとなっても、それに抗おうと準備をし続け。
その何もかもが無駄になる様を、一体どんな気分で眺めているのか!
「ヒ、ヒハハハハハハハッ! あーあーあー、やっちまったよホントにやっちまいましたぁ!」
運命によって予言されていた、神々に禍いをもたらす者。
神殺しの大狼フェンリル、世界蛇ヨルムンガンド、そして冥府の女王ヘル。
同じく神々の災厄として予言された三人の子ら、その父にして“神々の黄昏”を引き起こした元凶たる神。
道化の神ロキは、ナグルファルの舳先に立ったまま、腹の底から大笑いしていた。
「だってさぁ、仕方ないだろぉ? やるなやるなと言われたら、思わずやっちまいたくなるのが人情ってもんでさぁ。
あ、神様のオレが「人情」とかおかしいか? 「神情」? 微妙に語呂悪いなオイ」
笑う。道化の神は笑う。
自分が起こしてしまった終わりの風景を、心底愉快そうに笑い飛ばす。
「身贔屓の老害ジジイも、臆病者の詩バカも、浮気性の淫売も、色ボケした腰抜けも、あいつもこいつも!
全員、こいつが見たかったんだろ! 予言までしてオレにネタ振りしたんだから、満足だろうそうだろう!」
笑う。道化の神は笑う。
今まであれこれ散々やらかしてきたが、今回ばかりはとびっきりだ。
何せ後に続くものは何もなくなってしまうのだから。
神々の王オーディンは、大狼フェンリルの顎に呑まれて命を落とした。
軍神テュールはヘルが飼ってる番犬ガルムに喉を裂かれて、やはり息絶えた。
フレイは勇ましくも炎の巨人スルトに挑んでいくが、彼ご自慢の常勝の剣は失われて久しい。
世界を焼き滅ぼすあの偉大なる者に、剣無しで挑めばどうなるか。
その結果は見るまでもないと視線を逸らした先で、天を貫く巨大な何かが地に落ちた。
美しい稲妻の輝きが、すべてを白く染めるように弾けて………そして、消えた。
世界蛇ヨルムンガンド。愛する子らの一人が死んだ。
それに相打つ形で、一柱の勇敢なる神も。
「………おぉ、逝っちまったか。トール」
ロキはその最後だけは、笑うことなく見届けた。
オーディンなどよりよほど強くて偉大であった、アース神族が誇る最強の雷神。
幾つかの旅を共にした、ロキにとって二人といない盟友。
その彼が死んだ。
悲しみはなかったが、少しだけ寂しくはあった。
「アイツだけは、オレがどんだけ馬鹿にしたって動じなかったよなぁ………」
馬鹿だの間抜けだの、他にも色々と煽ってみた。中には相当酷いネタもあった。
それもこれも受け止めた上で、真面目に叱って締め上げてきたのは、神々の中でもトールぐらいなものだ。
彼はロキがどうしようもない奴だと知っていながら、そういう奴なりに付き合ってくれた。
ロキの目から見ても本当にどうしようもない、お人好しの神様。
「あんなお人好し、馬鹿にしても受けも悪いか」
本心からの言葉を、ロキは口の中で小さく呟く。
思い出される日々は、今も色褪せることなくこの胸の内に残されている。
本当に、トールはいい奴だった。
あんなにいい奴は、そうそういないだろう。
そう思っていながらも、その死に涙の一つも出てこなかった。
「ま、やらかしたオレが泣くなんざ、そんなふざけた話もねぇよな」
だから、ロキは笑うことにした。
世界よりも巨大なる蛇を、見事に打ち倒して見せた友人を。
最強の雷神を追い詰めた末に、とうとう相打ちにまで持ち込んだ我が子を。
その両者の壮絶なる最後を、笑って見送る。
「………そんなにもこの地獄がおかしいか、愚かなロキよ」
「お?」
頭上から響く声に、ロキは天を見上げる。
その視線の先にあるのは、神々の国と人間の国とを繋ぐ虹の橋。
かつての美しさも今は見る影もなく、半ば崩れたその橋の上で、尚も輝きを失わない一柱の神。
煌びやかな衣装に身を包み、腰には大きな角笛を下げた金髪の美男子。
常は優しさに満ちたその表情は、突き刺すような敵意を宿してロキを真っ直ぐ睨んでいる。
「おーおー、ヘイムダル!」
知った顔を見つけて、ロキは嬉しそうに両手を広げた。
虹の橋の番人、光の神ヘイムダル。
トールとはまた違った意味で罵るべきところが見つからない完璧超人(神?)だ。
彼の吹き鳴らした角笛ギャラルホルンの音色が、すべての神々に黄昏の到来を告げた。
勤め人の苦労人。何もかもわやくちゃになったというのに、ご苦労な話だ。
「で、どうした? 何か用事? 今オレちょっと忙しいから、急ぎじゃないなら後にして欲しいんだけど」
「ふざけるのもそこまでだ、ロキよ。道化の神。運命を閉ざした者」
光を背に、ヘイムダルは虹の橋から飛び降りる。
そのまま真っ直ぐにナグルファルの甲板に降り立つと、手にした錫杖をロキへ向かって突きつけた。
「お前の乱行もここまでだ。大人しく裁きを受けて、犯した罪の贖いをするがいい」
「………ひ、ひひっ。おいおいおいおい、この期に及んで裁きと来たか。どんだけ良い子ちゃんなんですかねぇ、ヘイムダル!」
大真面目に言われては、おかしくておかしくて腹がよじれてしまう。
爆笑するロキと対峙しながら、ヘイムダルは揺るがない。
ロキのこうした言動に、大した意味などない。
彼はただ、相手が言われたくないことや、聞きたくないことを読み取って、それを口から垂れ流してるに過ぎない。
それで怒ったり泣いたりするのを見るのが、堪らなく楽しいだけなのだ。
「本当に、どうしようもない奴だな。お前は」
いっそ憐憫さえ込めて、ヘイムダルは呟く。
そしてこれ以上は問答する気はないと、光の如き速度でロキへと打ちかかった。
「っと、乱暴だなぁオイ!」
硬い錫杖を、ロキもまた手にした魔法の杖でもって受け止める。
「お前がもたらしたこの滅び以上に、乱暴なことなどあるものかよ………!」
「何をそんな怒ってんだ、ヘイムダル。それもこれも、全部が全部、運命に予言されてたことだろう?」
すべて、予めそうなるものと定められていたこと。
少なくともオーディン達はそうと信じて、予言の成就を回避しようとあらゆる手を尽くした。
ロキにとっては予言など、大して興味もない事柄だった。
興味はなかったが、他の神々の様子を見ている内に、ついつい“魔が差して”しまった。
そうなると信じているのであれば、実際にそうしてやった時、果たして誰も彼もどんな顔をするだろうか?
「オレや子供達が災厄をもたらすと、信じていたのはお前らだろ!? だからその通りにしてやったのに、一体何の文句があるんだ!」
「っ、ロキ、お前は!」
ヘイムダルが杖を振るう度に、虹の光が軌跡となって宙を彩る。
ロキはそれをすべて受け止めながら、心底馬鹿にした様子で笑い続けている。
彼の嘲笑に意味などない。鳥が空を飛び、魚が水で息をするのと何ら変わらない。
それでもヘイムダルは、引き起こされてしまった黄昏を笑うロキに、強い怒りを覚えた。
「何とも思わないのか、これを見て!お前の義兄弟であるオーディン様だけではない、血を分けた子供達も死んでいるのだぞ!」
「あの老害ジジイはどうでもいいが、ガキ共は立派にやってるじゃあないか」
ヘイムダルの糾弾を、ロキは鼻で笑い飛ばす。
「フェンリルはグレイプニルに繋がれて、ヨルムンガンドは海の底。ヘルは冥府の底でずっと死者の遊び相手だ。
なぁ、どうよ? ヘイムダル、虹の橋の番人にして誰よりも正しい光の神様よ。
“予言”を防ぐという大義名分のために地の果てに繋がれていた頃と、黄昏を舞台に生き生きと暴れている今を比べて。
一体どっちの方が、あいつらにとって幸せなんだ?」
自分はいい。
元々悪さを山ほどしているし、獄に繋がれるぐらいはどうということもない。
だがあの三人の子供達は、ただ「そう予言された」という理由だけで、何の罪もないままに自由を奪われた。
ならばこうして、黄昏と共に潰える命だとしても、自由を謳歌する子らをロキは祝福する。
愛する我が子らよ。思う様に暴れろ。この道化の神たるロキが赦す、と。
「だからといって、世界を犠牲にしていい理由などにはならない!神も人も、多くの命が失われているのだぞ!」
「うん、オレもそう思うわー。でもあいつらオレによく似てヤンチャ坊主だからさー、めんごめんご」
舌をペロッと出して見せたりしながら、ヘイムダルの言葉にあっさり頷く。
どこまでも道化。先ほどの自分の子らを思う発言も、本心なのかただの戯言なのか。
「ロキ………!」
誰も分からない。
義兄弟として共に歩んできたオーディンさえも、最後までロキの心を理解することはできなかった。
そもそも、理解することを望んではいけないのかもしれない。
滅びをもたらすと約束された神の心には、一体どんな深淵が口を開けているのか。
分からぬままに、ヘイムダルはロキに挑む。
最早破滅を回避する術はなくとも、ロキにこれ以上の狼藉を許すわけにはいかない。
ここでこの神に裁きを下すことこそが、自らの使命だ。
ヘイムダルは疑いもなく確信する。
「あーホント、真面目も真面目のクソ真面目だよなぁ。ヘイムダル」
猛るヘイムダルとは真逆に、ロキはいっそ気怠そうに応える。
大体やりたいこともやってしまった、世界は黄昏の向こうへと沈んでしまうだろう。
オーディンも死んだ。トールも死んだ。他の神々も山ほど死んだ。
ならばまぁ、そろそろ自分の番でも良いだろう。
笑うことは大いに笑ったし、程々に満足もしてきている。
だから最後の最後まで、笑いに笑って終わりを迎えてやろうじゃないか。
ヘイムダルの一撃を、ロキは今までにない力を込めて打ち払う。
唐突な力強い反撃に驚くヘイムダルを、ロキは思い切り嘲笑ってみせる。
「どうしたどうしたヘイムダル! この程度でビビってんじゃねーぞ! オレはロキだ、ロキ様だ!」
この堅物の真面目くんが、正義のヒーローよろしく自分を倒して凱旋するなど、そんな小奇麗な結末はつまらない。
だからそれを笑ってやりたい。
死ぬのはいいが、どうせ死ぬなら笑って死のう。
握った杖に魔力を込めて、ムスペルの炎を纏いながらロキはヘイムダルを攻め立てる。
「神々に黄昏をもたらした者! 悪名高き大狼と、強大なる世界蛇、冷たき冥府の女王の親たる神だ!
門番なんて下っ端やってるお前如きが、オレに勝てるわけねーだろうがよぉ!」
ゲラゲラと笑うロキに、ヘイムダルもまた反撃する。
光と炎が交錯し、死者の船ナグルファルの上で美しい火花を散らす。
「私を侮るなよ、ロキ!」
「侮ってますよバァーカッ!」
笑うロキに、怒れるヘイムダル。
言葉に意味はないと知りながらも、道化の神の弁舌によって、ヘイムダルは冷静さを欠いてしまう。
ヘイムダルは強き神だ。あるいはロキも敗れてしまいかねない程。
けれどすべては、道化の神たるロキの思惑通りに。
後先をまるで考えない愚かな神の所業によって、世界のすべては黄昏に沈む。
最後は光の一撃に、その胸を射抜かれながらも。
同じく炎に沈むヘイムダルの姿を見て、ロキは腹の底から大笑いした。
これでおしまい。誰も彼もが一巻の終わり。
お前もオレも、どいつもこいつも。
滅びに沈んでいく世界を、いいもの見たなと愉快そうに笑いながら。
黄昏を引き起こした道化の神ロキもまた、黄昏の向こうへと落ちていった。




