1
こうして、世界は“黄昏”を迎えた。
見上げた空は赤く染まり、立ち込める暗雲の隙間からは、無数の星々が尾を引いて地表へと墜落していく。
吐く息は凍りつく。
白く白く染まり、雪となって散っていく。
引き裂かれた地面からは、血液のように溶岩が噴き出している。
だが世界にあったはずの暖かみは、すべて大いなる冬が攫っていってしまった。
月はない。太陽もない。
あの悪名高き狼の子らが、欠片も残さず飲み干したのだ。
星は墜ちる。暖かさもなく、冷たさもなく、慈悲もなく大地を砕いていく。
終わりだ。これがすべての終わり。
ヘイムダルの角笛が鳴り響き、すべての終わりが始まったのだ。
賢きミーミルの助言にも、最早意味などない。
神々の黄昏。一つの神話は、こうして終わりを迎える。
それでも、彼は何一つ嘆くことはなかった。
この世の果て、ムスペルヘイムの灼熱から溢れ出した巨人の軍勢に、死せる永遠の勇者達は果敢に立ち向かった。
父たる神々の王オーディンは、あの大狼フェンリルに呑まれて果てたが、その仇は兄弟たるヴィーザルが見事に果たした。
誰もが戦っている。神々も、巨人も、すべての生命がぶつかり合っている。
黄昏の引き金を引いた悪神ロキでさえも、運命という大きなうねりの中で戦い続けている。
悲しみはある。怒りも、痛みも。
だがそれを上回る激情が、今まさに男の胸を焼いている。
歓喜だ。
溢れ出した海水が蒸発して雲となり、あるいは凍りついて氷塊となる中で、それを見上げる。
見上げようとするが、その全貌が視界に収まりきることはない。
余りにも巨大で、強大過ぎるが故に。
「……我ながら、不謹慎だとは思うが」
男は、海が干上がって出来た大地へと、足を踏み出す。
相対するその存在を一言で言い表すならば、黒い鱗を持つ大蛇だ。
竜蛇、と言った方が正確かもしれない。
鱗の一枚一枚が、小さな島ほどの大きさもある、巨大という言葉ではまるで足らない程の蛇身の竜。
広大な世界を一巻きにしてもまだ余る、世界のすべてよりも巨大な大蛇。
その偉名こそヨルムンガンド。世界蛇。黄昏を招いた悪神ロキの、自慢の息子の一人。
「ようやく、この時が来たと。喜んでる自分を隠し切れねぇ」
この世のすべてよりも大きな蛇を前にしながら、男はそう嘯く。
その男もまた、大きな男だった。
純粋なサイズという意味では当然、ヨルムンガンドとは比較にもならない。
彼もまた巨人にもそうそう見劣りしない大男ではあったが、世界よりも巨大な蛇相手では芥子粒と大差はない。
だがもし、この場に彼ら以外の者がいたならば、男が蛇に劣っているなどとは微塵も思わぬことだろう。
赤く燃える炎のような鬣に、雷鳴の瞬きを宿した瞳。
四肢に漲る力は、並ぶ者なき剛力無双。
更にその力を、腰に巻いた帯“メギンギョルズ”によって文字通り倍にしている。
両手にはめた黒鉄の篭手は“ヤルングレイプル”。ともすれば暴れ出す彼の力を繋ぎ止める。
そうして、すべての神々よりも偉大な力を宿した五指が握り締めるのは、男の代名詞とも言うべき大鎚。
重く硬い頭の部分に比べると、柄は不釣り合いなほどに短い。
形こそ少々珍妙だが、その大鎚こそが今まで多くの敵をその名が持つ意味の通りに粉砕してきた、男の持つ無二の武具。
雷の大鎚“ミョルニール”。ならばそれを握る者の名も、一つしかない。
「決着をつけようぜ、大いなる世界蛇よ。ワシが仕留めきれなかった、ただ一人の好敵手よ」
雷の轟きと共に現れる者。
その偉名こそトール。アース神族最強の戦神にして、雷の神。
あらゆる神々の敵を一撃で打ち倒してきた最強の神と、その一撃でも仕留めきれなかった最大の竜。
神々の黄昏という終末の最中に、両者はとうとう相対したのだ。
天が崩れ落ち、大地が引き裂かれ、海は霧となって吹き散らされていく。
天変地異とはまさにこの事だ。
今、最大と最強の激突に、世界が為す術もなく砕けていく。
「うゥゥゥゥゥおおおォォォォォォォッ!!!」
雷神が吼え、手にした大鎚が真っ直ぐに振り下ろされる。
衝撃。閃光。破壊は音を置き去りにし、大気を伝って波紋のように広がっていく。
ミョルニールの一撃。その雷霆は万物を灰燼に帰す、この世にある最強の力の一つ。
未だかつて、それを受けて生き残った者はいない。
神に匹敵する古き巨人でさえも地に伏した。何人であれ、耐えられる道理などない。
ただ一つの、例外を除いて。
「ッ―――――――――――!!!」
聴覚が、それを音とは認識できぬほどの大音声。
世界を一巻きにする大蛇の咆哮は、物理的な破壊力さえ伴って響き渡る。
雷霆を受けた胴体の一部は、頑強な鱗も根こそぎ灰となり、その下の肉も深い亀裂が刻まれている。
だが、それだけだ。
山を一つ丸ごと消し去るミョルニールでも、ヨルムンガンドを殺すにはまだ足りない。
「ハハハハッ! 見事だ! 神々の王さえ耐えられぬ一撃をよく耐えた! そうでなくてはなぁ!」
「ッ―――――――――――!!!」
迸る歓喜のままに笑う雷神に、世界蛇が吼える。
トールのミョルニールような大仰な攻撃は、ヨルムンガンドには必要ない。
行った動作としては、ただその身を揺らしてみせただけだ。
だがその強大過ぎる巨体は、たったそれだけの動作でも致命的な結果を引き起こす。
膨大な質量の動きを受け止めきれずに、大地が無残に砕け散る。
大気が滅茶苦茶に攪拌され、竜巻や嵐となって悲鳴を上げる。
それだけでは終わらない。
吐く吐息、開いた口から滴り落ちる唾液、睨みつける金の眼光、あるいは焼かれた傷口から立ち上る血臭。
そのすべてに、ヨルムンガンドは神々にとってさえも致死の猛毒を宿している。
始源の巨人たるユミルより生まれたすべての生命を、殺し尽くしても尚あまりある猛毒。
「―――それがどうしたァ!」
それらを一身に受けながら、トールは仔細なしと笑ってみせる。
足を高く持ち上げて、一歩強く踏みしめれば、それだけで荒ぶる大地は静まり返る。
ミョルニールを持っていない左腕を横に払えば、嵐も竜巻も残らずそよ風へと変わっていく。
溢れ出す有形無形の猛毒は、ミョルニールを一打ちするだけで気配も残さず消え去った。
世界蛇が引き起こした災厄を、トールは真正面から踏破していく。
雷霆を打ち振るう最強の戦神にして、天候を支配し、すべての生命に祝福を与える最高の神威。
天と地のすべてに君臨する彼に敵うものなど、天地の何処にもありはしない。
「ッ――――――――――!!!」
故に、天地の何処にもなく、強大過ぎるが故に深海の底へと追いやられた蛇は咆哮する。
トールが天地に比肩するもの無き最強の戦神ならば、ヨルムンガンドは天地の何者よりも強大な世界蛇だ。
雷霆に焼かれた傷など構いもせず、その巨体で眼前の敵を押し潰さんと吼える。
「なんとっ………!」
単純な体当たりも、世界が丸ごとぶつかってくるに等しいのであればどれほどの脅威か。
トールは身構える。回避が間に合うタイミングでもなければ、防げるような代物でもない。
ならばどうする。決まっている、迎え撃つのだ。
腰を低く落とし、両足でしかと大地を踏みしめれば、莫大な神力が腹の底から沸き上がってくる。
それを力帯メギンギョルズが倍増し、鉄手套ヤルングレイプルが無駄なくミョルニールの柄頭へと伝える。
雷鳴。雷光。青白い稲妻を纏った大鎚を、トールは仰け反るように振りかぶる。
「どっ―――――せぇぇぇぇぇい!」
二度目の雷霆。
トール自身にしても初のことだ。同じ相手に、二度も渾身のミョルニールを叩き込むなど。
通常の物理法則を超越した、神にのみ成し遂げることのできる奇跡。
この世の万物を砕く雷が荒れ狂う中で、巨大な影がうねる。
「なにっ!?」
未だに途切れぬ稲妻の嵐を切り裂いて、ヨルムンガンドの巨体が迫る。
鱗は炭化し、肉も抉り取られ、骨の芯まで焼かれながらも、世界蛇は未だに健在。
さながら、空がそのまま石壁になって頭上へと落ちてくるような光景。
思わず見事と言いたくなるが、そんな余裕はまったくない。
「ぐっ、ぁ………!」
ミョルニールを構えたまま、世界蛇の激突を真正面から受ける。
受けて、一瞬も耐えることができずに、トールの身体は火花のように弾け飛ぶ。
神々でも巨人でも、誰も敵わぬトールの怪力を持ってすら、ヨルムンガンドの全質量は圧倒的に過ぎる。
肉を潰され骨が砕け、内臓まで潰される感覚を味わいながらの飛翔。
時折地面に接触し、水切りの石のように跳ねながら、どれほどの距離を飛ばされたのか。
大地を背中で斜めに掘削するという無茶をさせられてようやく、トールの身体は停止する。
「っ、無茶苦茶しやがる……!」
毒づき、見上げる。
相当な距離を飛ばされたにも関わらず、世界蛇の巨体は変わらず眼前にある。
当然だろう。なにせ相手は世界よりも巨大なのだ。
この広くも狭い“蛇の庭園”のどこであれ、ヨルムンガンドから逃れられる場所はない。
鎌首をもたげる蛇の眼を正面から睨みつけながら、トールは立ち上がる。
ただの一撃を受けただけだというのに、五体のダメージは深刻だ。
ミョルニールが持つ癒しの魔力でさえも、すべてを塞ぎきることはできない。
満身創痍。既に二度のミョルニールの解放により、残された力は完調時の半分にも満たないだろう。
それでもトールは立ち上がった。
世は黄昏、最早如何なる神であろうとも滅びを避けることはできないかもしれない。
運命というものがこの地にあるとするならば、今まさに聳え立つ黒き大蛇こそがトールの運命だ。
ここで死ぬ。この場所こそが、己の死地だ。
その未来を確信と共に受け止めながら。
「………来い」
雷神は不敵に笑う。
運命の女神達が回す糸車を、無限なる世界蛇の脅威を、トールは良しと笑い飛ばす。
「来いよ、世界蛇。来てみろよ、ヨルムンガンド。ワシはここだ、ここにいる」
放てたとして、あと一撃。
生涯で初となる、三度目のミョルニールの発動。
残った力のすべてを振り絞らんと、大弓を引くが如くにトールは構える。
「お前の敵だ、お前の運命だ。この黄昏で、お互いがお互いの運命として出会った。これは女神が決めたものじゃあない」
みしりと、腰に巻いたメギンギョルズが軋みを上げる。
ギチギチと、ミョルニールを握り締めるヤルングレイプルも同様に。
かつてない力の高まりに、大いなる神器までもが揃って悲鳴をあげているのだ。
「ワシは、お前が偉大なるヨルムンガンドと認めたからこそ、お前を己の運命だと受け入れた」
見上げ、見下ろし、神と蛇は対峙する。
崩壊し続ける世界の中心で、トールは紛うことなき本心から己の敵手を讃える。
「お前はどうだ、ヨルムンガンド。ワシよりも強大な、世界よりも巨大なる蛇よ」
対するヨルムンガンドに言葉はない。
だが彼は、静かに敵である雷神の言葉に耳を傾けているようだった。
相手は瀕死の状態だ、確実に仕留めるならば有無を言わさずに襲いかかればいい。
だが、大いなる世界蛇はそれをしない。
自分よりも小さく、けれども自分を殺し尽くす可能性を持つ雷神が持つ全力を、見届けんとするように。
ヨルムンガンドもまた、この偉大なる雷神を己の運命と認めたから。
「ッ――――――――!!!!」
「………そうか。いや、良い。これ以上の言葉は無粋だな」
ヨルムンガンドの咆哮に、トールは笑って応える。
笑って、構えて、最早これ以上のものはないという全力を、ミョルニールへと注ぎ込む。
一方、それに向かうヨルムンガンドは―――立ち上がった。
そう、立ち上がった。
頭のあった位置がぐんぐんと高くなり、山のようであった巨体が天を貫く超大な塔のようになる。
高く、高く、天上にあった神々の国よりも尚高く。
己の全質量をトールに向けて叩き込むために、ヨルムンガンドは生涯ではじめて立ち上がった。
「上等………!」
今から本当に、天のすべてが落ちてくる。
あるいは世界そのものにトドメを刺しかねない程の一撃。
世界蛇ヨルムンガンドの全力。
果たしてこの世の如何なる神が、そんな出鱈目なものを受けきれるだろう。
そんな神がもしいるとしたら、己以外にいるはずがない。
トールは一片の迷いさえ抱かずに確信する。自分以外に、お前の運命となる者などありはしないと。
ヨルムンガンドの上昇が止まる。
同時に、ミョルニールも最高の状態となる。
後はぶつけ合うだけだ。
運命というコインの表裏がどちらを向けるにせよ、次の一撃ですべてが決する。
トールは笑う。ヨルムンガンドもまた、笑った気がする。
混沌が渦巻く黄昏の最中、両者はすべての音が消え、お互いの存在以外の何もかもが遠ざかるのを感じながら。
天を閉ざす漆黒は、空を割りながら大地へと降り注ぎ。
青白く輝く雷光は、大地を焼きながら天へと駆け上る。
激突は一瞬だったか、あるいは永遠であったか。
世界が砕け散る程の衝撃が、神々の黄昏を鮮やかに彩った。
「………へへ」
ぼやけて、霞む視界。
見えるのは、横たわる巨大な蛇の身体のみ。
息絶えている。間違いない。
渾身の力と共に放った雷霆は、今度こそ世界蛇の生命まで届いたのだ。
故に、雷神は笑う。
全身を、末後のヨルムンガンドの血に染まりながら。
世界蛇の死そのものである毒血は、トールでさえも耐えることなどできない。
「死ぬな、ワシ」
それだけは、どうしたところで避けることはできない。
ミョルニールの一撃でヨルムンガンドは死んだが、自分もまた、ヨルムンガンドの最後の毒によって命を落とす。
事実上の相討ちだ。だが。
「……お前の方が、先に死んどるし。これは実質、ワシの勝ちだなぁ」
聞く者のいない、勝利宣言。
それだけを満足そうに口にして、トールは笑う。
笑って、そのまま動かなくなった。
雷神の命は、笑ったままに尽き果てていた。
………こうして、北欧の偉大なる雷神、トールの神話は黄昏を迎えた。
物語に幕は下り、後はただそれを語り継ぐ者達の心の中に残るのみ。
けれど、黄昏の後に夜が訪れる。
夜を越えた先で黎明を迎え、日が昇りまた朝が来る。
人も、神も、例え世界が異なろうとも、その理だけは変わらない。
黄昏の物語は、終わりを告げた。
故に、黎明の話をしよう。
神々の黄昏にて命を落とした雷神の、黎明に向かう物語を。