それ(1991年・春)
⚫︎雨多ノ島水族館
⚫︎奇愛晴子(41歳)
⚫︎八目タマキ(28歳)
⚫︎萩尾弓子、ユーミ(31歳)
⚫︎それ
雨多ノ島にあった怪しい工場は地域住民の反対運動により潰れてしまった。
いつの間にやら跡地に建てられた水族館は、オープン当初に宣伝広告の類は一切うたなかったため既に寂れており、まだそれほど経っていないにも関わらず半ば住民から忘れられている。
海洋生物学を専攻したが大した成果もなかった八目タマキは、奇跡的に奇愛館長に採用された。面接はあまりにもいいかげんなもので、雑用はできるか(できます!)とか家族はいるか(天涯孤独です!)とかそんなことしか話さなかったのでこれはダメかと思い、大学の奨学金も返さねばならないし、とりあえず水泳インストラクターでもやるかフォークリフトの免許でも取るかと出かける寸前、採用通知が来たのだった。
何も言うことはない。
名呑町にやってきて二週間。
知らないことしかない。
まだ手探りの季節。
★★★★
「女としてどうかと思うほど身嗜みは最悪なのに、脱色だけはしてるのね」
萩尾弓子は、隣のデスクで熱心に仕事するタマキを茶化すように言った。鏡を見ながら長い髪を弄くって枝毛を探している。
「そっちはオシャレに余念がないようで。おかげさんで会計まで僕の仕事だ」
タマキはPCからフロッピーディスクを取り出し、サインペンでメモを書くとまた別のフロッピーを挿した。
「その『僕』ってやめてくれない? 三十過ぎてボクっ娘って痛いわ」
「そっちこそ、そのごつい肩パッドのスーツやめなよ。そういうのはバブルと共にもう……」
言いかけてタマキは目を見開いた。プリントされた資料とPCディスプレイの間を目が何度も往復する。
「――この会計、おかしいぞ。計算が合わない。巧妙に隠されてるが、知らないお金が入ってる」
「赤字よりいいじゃないの」
弓子は手を広げ、マニキュアの塗られた爪を見つめて言う。
タマキは息巻いて引き出しから他の資料を取り出して始めからあたる。
「よくないだろ。税金とか!」
更に別の資料を取りに立ち上がりかけたところで、弓子がイスごと近づいて、タマキの顔を覗き込んだ。
タマキは上目遣いの彼女を怪訝な顔つきで眺める。
「知りたい? 知ったら戻れないわよ」
一時間後、二人は水族館地下プールの端にいた。ちゃぷちゃぷと波立つ水の中央には、人間と同じ程度の大きさの半透明の生物がいた。多数の触手と赤い蝙蝠の羽のようなものが頭頂部から突き出している。全身が仄暗く明滅している。
「図鑑にもない生き物か!」
タマキの頬が紅潮する。
「本土と雨多ノ島の間は小型ボートで行き来できるくらい短いけど、それと反比例するように深さは最大二千メートル。誰もその底なんて見たことがないし、何故か事故が多発してた。そこで調査艇を送り込んだら『それ』がいたってわけ」
「お金は」
「一応名目上は政府から出てる……『それ』の軍事研究費――ていうか口止め料ていうか。でもその他にも色々」
タマキは玩具を見つめるこどものように、プールサイドから身を乗り出して「それ」を観察している。
「だから、口止めのためにこうするワケよ!」
弓子はタマキの背を押し、水中に突き落とした。途端に『それ』はエサに気付き、触手を伸ばす。
濡れた白衣が重い。タマキはまずそれを脱いだ。触手が迫る。
ごき。ぶちり。
瞬間、タマキは自分の小指を第一関節まで噛みちぎり、『それ』に向かって投げていた。投げられた指に触手が絡みつき、補食行動に入る。別の触手はタマキを再び追い始めたが、既に彼女は泳いでプールサイドに向かっていた。
弓子は呆気にとられた表情で動けずにいる。こんなはずではなかったのだ。
そこへタマキがずぶ濡れで上がってきた。水を滴らせながら早足で向かい、肩をつかんで揺さぶった。
「ヒィッ! ごめ」
「すごいすごいすごい! なんだアイツ。軟体動物らしいが明らかに腕は数十本! そのどれもを自分の意思で動かしてる! しかもカワイイ! こんなのを隠してたなんてズルイ。僕も研究に参加させてくれよ、なあ、お願いだよ、ユーミ!」
弓子は数秒混乱したのち。
「え? ええ! うん、そうね! そうそう!」
こうして、タマキとユーミは対等の仕事をする仲間になったのだった。
「ねえ、なんで髪を脱色してんの?」
「昔から泳ぐのが好きで、プールの塩素で色が抜けたんだよ」
「だっさい理由」
タマキはユーミの悪口を全く意に介さず、『それ』の記録を嬉しそうに眺めていた。
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