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遠くの星  作者: 雨咲はな
43/43

番外・星彩蒼茫



「なあなあ、蒼、蒼ってば」

 机に顔を伏せて居眠りしていたら、後ろから、ばんばんと勢いよく背中を叩かれた。

「……なに」

 寝起きそのままの掠れた声で返事をして、目だけを上げ、黒板の上にある時計を一瞥する。針が指している時間を確認し、なんだまだ昼休み終わってないのか、とぱたんと机に突っ伏した。

 あっという間に睡眠に沈もうとしていた意識が、遠慮のない背中の振動によって再び覚醒へと引き戻される。

「もう、いい加減起きろって! お前、授業中だって散々寝てたじゃん! 話相手もいなくて俺は寂しいよ! 弁当食った後は、男同士、下ネタとエロ話で盛り上がって、一緒に青春を謳歌しようぜ!」

 お断りだ。

「弁当箱でも相手にして喋ってれば」

「やだよ! 悲しすぎて泣いちゃうだろ! なあー、蒼ー、起きて遊ぼうぜー、なー、蒼君ってばさー」

 今度はぐらぐらと上半身を揺すぶられ、俺は「うるさい」と不機嫌に言いながら、仕方なく再び顔を上げた。同じ蒼君という呼び名でも、違う口から出ると、無性にイライラする。

「起きた起きた。おはよう」

 俺がむっつりと黙ったままでも、友人は構うことなく嬉しそうに手を叩いてはしゃいでいる。どうして俺の周りには、こうも能天気な人間ばかりが揃っているのだろう。

「蒼はもうー、またそんな仏頂面してー」

「お前のせいだ」

「起き抜け直後は、可愛い女の子を見ると心が和むぞ」

「世の中の人間すべてを自分の基準で語るな」

「いいからいいから、ホラ、ちょうどあそこにいる」

 軽薄な友人に顔を掴まれ、強引に向きを変えさせられた視線の先には、見覚えのある顔があった。教室の入り口に立って、クラスの女子と話をしている。


「……ああ、『キクちゃん』か」


 まだ完全には醒めきらない頭に浮かんだ名前をそのまま口にすると、友人は座っていた席から転げ落ちんばかりに激しく反応した。過剰なその驚きぶりに、こっちのほうが驚く。

「ええっ、なになに?! なんで?! お前、いつの間に、そんな呼び方するほどあの子と仲良くなっちゃったの?! 学年のアイドルだぞ! 俺にも紹介して!」

 何をそう興奮しているのかは不明だが、友人は立ち上がるやいなや一気にそうまくしたてると、ぐっと近距離にまで顔を近づけ迫ってきた。胸倉を掴まれて、またぐらぐらと揺さぶられる。

 そうか、橘の幼馴染は、学年のアイドルだったのか。知らなかった。

「本名知らない」

「それでキクちゃん呼ばわりかよ! 順序おかしいだろ!」

「ちょっと変わった人らしいぞ」

「お前が言うな!」

 その「キクちゃん」は、話相手の女子に向かって何かを言うと、そのまま教室の中に足を踏み入れた。

 俺を揺さぶっていた友人の手が、ぴたりと止まる。

 周囲の男たちの視線を一身に集めているのに、「キクちゃん」はまるで照れる素振りもなく、堂々とした態度ですたすたと一直線に、こちらに向かって歩いてきた。


「こんにちは、鷺宮君」

 俺の前に立って、にっこりと笑う。


「あっ、どーもー、こんにちは!」

 と元気よく挨拶したのは俺ではなく、友人のほうだ。

 ニコニコしながら俺の後ろに立ち、見えないように背中をぐりぐりと拳で強く押している。あまりに鬱陶しいので、俺はため息をついて友人を紹介することにした。

「これ、友人A」

「そう、よろしくねA君。あたしちょっと鷺宮君に話があるから、どっか行っててもらっていいかしら?」

 俺の大雑把な紹介に泣きそうな顔をした友人は、小首を傾げた「キクちゃん」に愛想よく笑いかけられると、現金なくらいにぱあっと浮かれて、わかった! と返事をして別の場所へと走り去った。

 非常にぞんざいな、かつ、酷い部類の追っ払われ方だと思うのだが、まあ、本人が喜んでいるようだからいいのだろう。

「……なんか用?」

「用がなかったら来ないわよ」

 友人が離れてから問いかけると、「キクちゃん」は笑顔は変えずにすっぱりとした物言いをした。

 怒鳴り声も相当なものだが、その顔と口調からは、普段だってかなりきつい性格をしているのが推測できる。アイドル、の定義がよく判らない。

「あのね、夏凛のことなんだけど」

「うん」

 用件といったらそれだろうなと思っていたから驚かなかったが、俺は椅子の背もたれに預けていた体重をこころもち前に傾けた。

 ……あいつ、また何かやったんじゃないだろうな、と少し不安になる。


 そもそも、あの女は本気でどんくさいからな。

 おまけに鈍感で、間が抜けていて、おそろしく察しが悪く、想像力だけが異様に発達していて、幼児なみに騙されやすい。

 うっかり目を離していると、とんでもない事態になっていたりして、こちらの肝を芯まで冷やしてくる。

 へらへら笑いながら、平気で地雷原のど真ん中を歩いていって、しかもそのことに本人はまったく気づかないというやつなので、見ているほうはたまったものじゃない。

 やっと手の傷が完治したところなのに、一体、今度は何をしでかしたんだ──という俺のその不安は半分外れ、半分的中した。

 「キクちゃん」はあっさりと、こんなことを言ったのだ。


「今日あたり、あの子から告白されるから、そのつもりでね」

「…………」


 は?

 意味が判らなくて、俺は口を閉じて目の前の人物を見る。こちらを見返すその表情は、どこまでも大真面目だった。

「告白?」

「そう」

「誰が、誰に?」

「夏凛が、あんたによ、もちろん」

 俺はまたしばらく黙った。理解して呑み下すまで、結構な時間を要した。


「……今さら(・・・)?」


「そうよねえ、ほんっと、『今さら』よねえ」

 「キクちゃん」は、しみじみと納得するようにうんうんと頷いているが、俺は頷くどころじゃない。

「──なんで?」

「なんでって、夏凛は、まず『告白』しないと何も始まらない、って考えてるからよ。あの子の恋愛に関する知識って、おもに少女漫画とか、ドラマとか、そのあたりから得たものしかないからね。それもどうやら、故意にそういう部分を避けてきた傾向があるし、とにかく考え方が浅くて幼いのよね。だからそれをしないと、男女交際の最初のスタート位置に立てない、っていうような思い込みがあるらしいわ」


 その説明に、一瞬、魂が抜けそうになった。


「……じゃ、橘からすると、今はまだ、スタート位置にも立ってない、のか?」

「そういうことになるわね」

「で、告白?」

「そう」

「好きです、付き合って下さい、的な?」

「的な」

「…………。あいつ、アホだろ」

 思わず額を手で押さえてぼそりと言うと、「キクちゃん」は大きく息を吐き出した。


「それは否定しないけど、あたしが女の仁義に背いてまで、あんたにこうして事前予告しに来たのはなんのためだと思ってるわけ? いい、鷺宮。間違っても、夏凛に告白されて、怒ったり、黙り込んだり、このアホ、なんて本当のことを言ったりしちゃダメよ。夏凛がショックを受けて、話がこじれる可能性大だからね。あの子の想像力って、暴走するとどっちの方向に向かっていくのか、サッパリわかんなくて怖いのよ。わかるでしょ?」


「…………」

 俺は何も言えずに口を噤んだ。あいつのその悪癖は俺もよく知っている。確かに怖い。

「言っとくけど、この状況は、あんたにだって責任があるんだからね。言葉が足りなさすぎる分、せめてもっと態度で表明する努力をしなさい」

 びしりと指を突きつけてそう決めつけると、「キクちゃん」はくるりと踵を返し、来た時と同じように、すたすたとした足取りで教室を出て行った。

「なんだよー、仲良くお喋りしちゃってー、なんの話だったんだよー」

 すぐに飛んできた友人に問い詰められたが、俺はその質問をひたすら黙って無視した。なんの話かなんて、絶対に言いたくない。

 その無言をどう解釈したのか、友人の口調はどんどん俺を責めるようなものになっていった。

「蒼、お前、浮気しちゃダメだぞ! あの、ほんにゃらとした彼女に言いつけちゃうぞ!」

「…………」


 この場合、ほんにゃら、という変な擬音で表現されている人物と、たった今俺の頭に浮かんでいる顔は、おそらく同じものなのだろう。


 そりゃそうだ。俺の周りの友人たちは、ほとんどあいつのことを知っている。顔も、名前も、クラスもだ。

 別に本人が自己紹介したわけじゃなく、俺が話したわけでもない。それでも周知されているのは、それほど日常的に、俺の近くにあの存在がある、ということだ。

 顔を合わせればぱっと目を輝かせ、頬を紅潮させるあの顔を、「蒼君、蒼君」と嬉しそうに俺の名を呼びながら駆け寄ってくるその姿を、そして俺がそれを普通に受け入れているところを、友人たちはよく知っているからだ。

 本人は気づいていないのだろうが、ぴょんぴょんと弾むような足取りで俺の隣を歩く様子が、ちぎれんばかりにシッポを振って愛想のない飼い主にじゃれつく仔犬のようだという理由で、友人たちの間では、ひそかに「わんこちゃん」と仇名をつけられて呼ばれているくらいだ。

 何も言わなくとも、友人Aを含め、漏れなくそいつら全員に、あいつは俺の「彼女」と認識されているし、そう訊ねられたとしても、俺は別に否定しなかっただろう。


 その女に、俺はこれから、告白をされるらしい。

 ヘコむ。



          ***



 その日のバイトからの帰り道、橘はずっと目に見えて緊張していた。

 ぺらぺらと上滑りに喋っていたかと思えばすぐに黙り込み、ため息をついたり、そわそわしたり、勝手に顔を赤くしたり、どういうわけかしょんぼりしたり。

 やっぱり予告されておいてよかった。知らなかったら、病院に行って来い、とでも忠告しているところだ。


「……あのー、蒼君、ちょっとお話が」

 駅近くまで来てから、橘はようやく本題を切り出した。


 やれやれ、と俺はため息を押し殺す。ここまで来るのに、いつもの三倍くらい長く感じられる道のりだった。

「うん」

 なんと言っていいか判らないので、俺は自転車を押して歩く足を止めて、返事をした。

 周囲は暗いが、月は明るい。

 ちらっと上を向くと、星は白っぽい点としてしか見えなかった。

「えーとね」

 つられたように橘も立ち止まり、言葉を濁す。

 判っていて聞くというのも、これはこれで落ち着かないもんだな、と俺は思った。橘がかちんこちんに緊張しているから、こっちにもそれが伝染するのだろう。

 さっさと言え、と気づかれないように足踏みをした。

 大体、なんでそんなに緊張してるんだ、と思ったら、少しむかむかと腹が立ってきた。


 ──好きです、って?


 そんなこと、言われるまでもなく、かなり前から知っていた。

 自分基準でものを考えるな。世の中のみんながみんな、お前みたいに鈍感な人間じゃない。

 今になってそれを言って、俺がどんな反応をすると思ってるんだ。いや、事前に教えられていなければ、間違いなく絶句して、バカかお前は、くらいのことを言ってたに決まってるけど。そうしたら、橘は何かものすごい誤解をしたに決まってるけど。

 多分、橘のその子供のように単純で頑固な思い込みには、従兄のこれまでの干渉が大きな影響を与えているのだろう、ということが判るから、なおさら腹立たしいのかもしれない。あの過保護な腹黒従兄、絶対に今頃、にこやかにほくそ笑んでる。ムカつく。


 ……でも、俺がお前をどう思ってるか、なんて。


 それは、わざわざ確認しなきゃいけないようなことなのか? 訊ねないと判らないものなのか? そんな風に緊張してるのは、俺がお前なんて好きじゃないと撥ねつけることでも心配してるのか?

 付き合って、と言わなきゃ始まらないっていうのなら、だったら今の現状を、俺との関係性を、お前は一体どう考えてるんだ。ただの友人同士か。ヘコむぞ、マジで。

 そもそも俺が、好きでもない女に自分から電話をしたり、好きでもない女と一緒に出かけたり、好きでもない女の言うことを聞いて大人しく宿題をするとでも思ってるのか。自分で言うのもなんだけど、俺は絶対にそういう性格じゃない。それくらい、考えるまでもなく判るだろう。

 だからてっきり、そんな基本的なこと、言葉にしなくても伝わっていると思っていたのに。



 ──橘は、なんでそんなに、何も判っていないんだ。



「…………」

 気がついたら、俺はむっと口を結んで、視線を横に投げ飛ばしていた。

 橘が俺のそんな様子を見て困惑したように一瞬眉を下げたが、すぐに何かを決意したように、きっと眦を上げた。果し合いでも申し込むような顔だった。

「あのね、蒼君」

「うん」

「えーと、本日は良いお日柄で」

「……うん」

 結婚式のスピーチか、と言いかけたが、なんとか呑み込んだ。

「あの、ちゃんと、蒼君に言っておこうと思って」

「うん」

「わっ、私ね!」

「──うん」

「蒼君のこと前から、しゅっ……」


 噛んだ。


「…………」

「…………」

 その場を沈黙が支配した。

 耐えよう。と思ったが、三秒も保たなかった。ぶはっと勢いよく噴き出してしまう。

 橘はかーっと顔を真っ赤にして、「い、今のはノーカウントで」としどろもどろに言い訳している。それを聞いたら、ますます笑いが止まらない。立っているのも困難になってきて、自転車を地面に放り出し、膝を折り曲げしゃがみ込んだ。

 その姿勢のまま、腹を押さえて笑い転げる。

 しゅ、って。

 なんでこいつは、いつもいつも、こんなにも俺のツボを正面から突くようなことばかり言うんだろう。よりにもよってこの場面で、そんなこと言うか、普通。

 ──でも、不思議なことに。

 この笑いとともに、むっとした気分も、緊張も、ちょっとした痛みも、何もかもが、どこかへ吹っ飛んでしまったようだった。

 笑いながら、俺は妙に晴れ晴れと、スッキリした気分になっている自分に気づく。

 そうだ、橘は何も判ってない。


 ……だけど、いいんだ。

 いいんだ、それで。

 いっそ、死ぬまで何も知らないまま、判らないままで。


 俺にしたって、橘というやつは、最初は、ただの変な女でしかなかった。

 気づいたのは途中から、橘に会ってしばらく後のクリスマスの頃だったけど、その時も「ああそうか」としか思わなかった。

 そして気づいても、それで特に橘に対する見る目や気持ちが、変わるということはなかった。

 自分でも意外に思うほど。



 ──弱さがあり、頑なな意地があり、傲慢さがあり、卑屈さがあった。

 間違いなくそこに存在しているものはあったはずなのに、それさえ正面から見ようともしないで目を背け、そのくせ自分の感情を完全に制御することも出来なかった。

 突き放して、諦めて、身を引いて、それで満足しようとしていた愚かな自分。

 取り返しのつかない結末に、後悔して、身を振り絞るようにして泣いて、己を呪い、世の中のすべてを呪った。

 何度も何度も名を呼び、呻き、叫び、慟哭し続けるしかなかった。

 それでも時は戻らず、冷たくなった身体はいくら強く抱きしめても、もう二度と温かくなることはなく、すべてが手遅れだという残酷な現実を突きつけられるだけだった。

 ……真っ暗な闇と絶望に覆われた、あの恐ろしい世界を知っている。



 それでも、避けようとも、逃げようとも思わなかった。

 俺にとって、橘は橘だったから。

 いつもにこにこしていて、俺みたいな出来損ないの人間の傍にいても楽しそうで、素直で、他人を疑うことを知らず、常に一生懸命で、この俺を笑わせるなんてことを難なくやってのけてしまう、おかしな女。

 星が見えなくても今ここにある青空が綺麗だ、と笑った橘は、青い空の下で星が見たい、と願った女とは、違う。

 それでいいんだ、と、ただ、すとんと思った。



 橘は、今の橘のままでいればいい。



「そ、蒼君、もう一回やり直していい? ワンモアチャンス」

 橘が赤い顔で人差し指を立て、馬鹿なことを言っている。これ以上笑わせないで欲しい。

 俺はまだ腹筋を痙攣させながら、なんとか立ち上がった。

 努力しろ、という、「キクちゃん」の言葉を思い出す。

 まったくだ。そもそも、この女に、言葉にしないものを察しろと要求するのが間違いだったんだ。

 橘が、そこからじゃないとどうしても始められない、というのなら、俺も努力すべきだった。


 橘と一緒にスタート位置に立てるように。


「そ」

 蒼君、と続けられようとした言葉の先を、橘の唇に自分の唇を押し当てて止めた。

 少ししてからそっと離すと、器用なことに橘がさらに顔を赤く染めて、真ん丸な目で俺を見つめていた。色気も情緒もあったもんじゃない。ちょっと意地の悪い気分になって、どこまで赤くなれるものか、人間の限界に挑戦させてみたくなる。


 すぐ間近にある唇から、すき、と小さな呟きが漏れた。


 その言葉は、実際に聞いてみると、ちっともヘコんだりしないことが判明した。

 全然、悪くなんてない。心がじんわりと、温かくて柔らかいものに包まれる。

 少しだけ悩んでから、うん、と答えて、また顔を近づけたら、橘が今度は大人しく目を閉じた。

 ほっとした。

 橘の声で名前を呼ばれるのは嫌いじゃない。

 くだらない内容の話でも、橘の口から出ると、ずっと聞いていたいようにも思う。

 いつからこんな気持ちを抱くようになったかなんて、自分でもよく判らない。

 人なんてどうせいつかは死ぬんだからと、何に対しても執着しなかった自分の、何が、どう変わったのかも、判らない。

 その気持ちを言葉に代えて、はっきりとした形にしようとする橘は、きっと、やっぱり正しいのだろう。

 何も判っていないくせに、橘の言うこととやることは、いつだってちゃんと真実をついている。

「……俺も」


 曖昧なものを形にすることで、動きはじめる何かは、確かにあるんだ。


 二つの黒い影が重なる。

 夜空はどこまでも広く深く、静寂とともに空気は澄んで、月と星は冴え冴えとした美しい光を放つ。



 ──世界はこんなにも、輝きと彩りに満ちている。






ありがとうございました!

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