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シネラリアの女神  作者: 如月あい
終章 シネラリアの女神
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手を伸ばす決意

 王都の西に位置する、オブスキィト家の別邸。

 王都よりわずかに北に位置するこの場所は、夏の避暑地として利用されている。

 この場所の東側には、オブスキィト家領が広がっており、西側には森がある。

 その森はオブルミの森とよばれており、その森の真ん中には一本の川が流れている。

 その川を越えて、さらに西に進むとルミエハ家の本邸がある。

 オブスキィト領とルミエハ領の中間地点であるオブルミの森は、森全体が緩衝地帯となっており、この森だけが、両家が唯一共有しているものだった。

 しかしながら、実際には、森の真ん中を流れる川を境界線としている節があり、森全体が緩衝地帯としてきちんと機能しているかは微妙な話であった。

「こんなに、近いんだな」

 赤みがかった茶色の髪の少年は、目の前にある川を見てつぶやいた。

 オブルミの森の中を流れる川は、穏やかで浅い川だった。飛び石を飛んでいけば、すぐに向こう側に渡れてしまう距離。

 それでも、幼いころは川の向こう側が果てしなく遠いように感じていた。

 父親はなんどもアベルに言い聞かせた。

『この川の向こう側は、悪い奴らの住む家だ。だから、渡ってはいけない』

 川の向こうは悪者が住んでいる。

 幼いアベルの心には、そんな言葉だけが残っていた。

 川の向こうは怖い場所。

「バカみたいだ」

 体をわずかに後ろに引いて、そしてアベルは飛び石を一気に駆け抜けた。

 森の木々の間から漏れる光が、川の水面をきらめかせる。

 石を蹴っていた足が、地面を踏みしめた。

 それは間違いなく、ルミエハ側の森の地面。

「簡単だ」

 これが、オブスキィト家とルミエハ家の実情なのではないだろうか。

 みんなこの飛び石を超えられないと思っている。

 越えられるとしても、その先にあるものが、悪者のすみかで、どこか汚れた場所だと思っている。

 しかし本当は思い込みなのではないだろうか。

 その気になれば、手を差し伸べられる距離なのに、あえてお互いに背を向けているだけなのではないだろうか。

「終わらせたい……マリエのためにも」

 それさえできれば、誰も何も言わなくなるのは、分かっていた。







 涼しくなった。

 シェリアは馬車に揺られながら、そんなことを考えていた。

 暑さをしのぐために、長い黒髪を高い位置で一つくくりにしていたのだが、これなら髪を降ろしていてもよいかもしれない。

 馬車の窓から入ってくる風が涼しいからだ。

 首が広めに開いた服を着ているため、ラピスラズリが等間隔にあしらわれた銀の鎖がしっかりと存在を主張している。

「まさか、名前が入ってるとはね……」

 ラピスラズリに一文字ずつ「ティナとリオルド・ヴェントス」と刻まれている。そのため、石を文字数分つける必要があり、無駄に鎖が長くなったのだと言う。

「ヴェントスって言うには気が早いのに」

 文句を口にしながらも、シェリアは口元が緩むのを感じていた。

「どうにかなりそうだから、いいのかな」

 二週間ほど前、ヴェントス家を訪問した。

 どうなることかと思ったが、案外ヴェントス家の人々はシェリアを受け入れてくれて、婚約のことも反対はされなかった。

 それはレンの母親の一言が大きかったのだろう。

 シェリアは彼女に一つ約束させられた。

 しかしその約束によって、かねてからの願望を実行させるだけの決心がついたのだから、結局はプラスだろう。

「がんばりなさいよ……アベル」

 シェリアの起こす行動に、一番に追随するのはきっと彼だ。

 だからこそ、その前に、早く話をまとめてしまってほしいとも思う。









 草木が生い茂る森の中を、黒髪の少年は迷わずに走っていた。

 どこを見ても似たような景色だが、まっすぐと走って行けば川があるのは、幼いころの記憶で知っている。

 一度だけ、レンはこのオブルミの森に足を踏み入れたことがあった。

 小石を踏んだり、小さな枝を踏んだりしながら、ただ走る。

 幼いころは永遠に続くような気がした森だった。

 川まで走るのだけでもひと苦労だった。

 今でもこの森は小さくはない。

 しかしながら、永遠を感じるほど大きくもないと今なら思えた。

 しばらく走っていると、森がわずかに開けてきて、川が見えてくる。

 川の向こう側に人影が見えて、反射的に木の後ろに隠れ、川の方をうかがう。

「あれは……」

 目を凝らしてみると、向こう側にいるのは、赤みがかった茶色の髪の少年だった。

 川の向こう側にいるから、ルミエハの人間だと思った。しかしそれが見知った少年だと分かって、木から飛び出し、川べりまで走った。

「アベル! どうしてそっち側に?」

 レンの記憶では、川を越えた向こう側は、ルミエハ領であったはずだ。

 アベルの性格を考えるならば、不用意に踏み込むことはしないだろう。

「近いよな。けっこう」

 幼さを残したアベルの顔は、何故か今日は大人びて見える。

 どこかふっきれたように、笑っているアベルを見て、レンはほっとした。

「小さい頃は、絶対に渡っちゃいけないって思ってたんだけどな」

「今は?」

「ここは、渡るべき場所だ。こうやって近づかなきゃ、何も変えられない」

 水面をなでる風が、川に小さな波紋を作る。

 光を跳ね返す水面の明るさに、レンは思わず目を細めた。

「絶対、ルミエハとオブスキィトの闘争を無くして見せる」

「……マリエのことは?」

「告白、するよ」

 アベルが飛び石を使って、こちら側に走ってくる。

 レンは一歩後ろに下がって、アベルの着地点を広げた。

「遅すぎ」

 見事にこちら側に着地したアベルに、レンは苦笑しながら言う。

「まあな。でも……やっと言える気がしてきたからさ」

 夏にしては涼しい風が、アベルとレンの髪を揺らす。

 森が風に揺られてざわめいて、川は風にあおられ模様を描く。

 森も川も、ただやさしくアベルを見守っていた。


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