珠洲の過去
慌ただしく景秀をはじめとした黒峰家の面々が部屋を出て行き、残っていたのは近衛前久と少輔太郎、そして多羅尾左近太夫からの文を届けた鬼三太だけだった。
玲は少輔太郎の妻、あややに連れられて被災者の受け入れの手伝いに出て行っていた。
「で、そこの鬼三太なる者が届けた文の内容とは」
「左近太夫殿の文によれば日向守(三好日向守長逸)と下野守(三好下野守政康)に率いられた軍が若江を包囲したとのこと」
「その際に、これより公方様を討つ。我らには公方様の近くに合力される方がおられる」
「ゆえに左京大夫(三好左京大夫義継)よ、共に参らんか」
少輔太郎が文を見ることも無く、書かれた内容を説明した。
「なんと!初めから三好の狙いは公方じゃったか」
「どこまでが真かはわかりませぬが、既に八幡に現れたという知らせがある以上、京を攻める前に左京大夫様と手を組もう、という気持ちがあったのやもしれませぬ」
「なるほどのう。初めから若江に行くつもりであったことじゃな」
「左様かと。左京大夫と三人衆が再び組めば、あるいは松永様も…」
「それはあるまい。左近太夫(松永左近太夫久通)は父に逆らえまい」
「近衛様が号令されれば弾正様も加わるのでは」
「それは無いわ。弾正は愚かでは無い。それにあやつ自身が楽しんでおるわ」
「楽しんでおると、何ゆえでござりまするか」
「弾正は上総介(織田上総介信長)を気に入っておる。奈良で多聞山を見た時の上総介の目が童のようじゃった、と申しておったわ」
「あやつは筑前守(三好筑前守義興)を買っておった。あのように若く筑前守が世を去らねば、先の左京大夫(三好左京大夫長慶)も健在で、上総介が京に来ることも無かったやもしれぬな」
「近衛様は三好が力を持った方がよかったと申されるのですか」
「先の左京大夫が存命なれば、少なくとも我が友、先の左近衛中将(足利左近衛中将義輝)があのようにはならなかったやもしれぬ」
「さすれば公方様を連れて上総介が京に来ることも無かったやもしれぬ」
「それに三好と将軍家の争いは管領の細川に巻き込まれた形じゃ」
近衛は話しているうちに、苦渋の表情になっていた。
「近衛様は上総介殿に期待されておられる、と」
「うむ。弾正がついておる。今頃弾正からいろいろ話を聞いておるじゃろう」
「では三好が京に来ても勝てぬと」
「それは分からん。公方の側近が逆臣となればあるいはまた我が友のようなことが起こるやもしれぬ」
「では今すぐにでも伝えた方がよいのでは」
「まだいるのかもわからんのに伝えても仕方なかろう。それに十兵衛(明智十兵衛光秀)がおるわ。あれは頼りになるぞ」
「明智十兵衛殿ですか…」
昼間来た十兵衛を思い出すと、少輔太郎は微妙な表情をした。
何やら店の方が騒がしくなってきた。
近衛と少輔太郎が顔を見合わせる。
「何やらあったのやも…見て参ります」
少輔太郎が立ち上がって、部屋を出て行こうとすると廊下にいる久吉と目が合った。
「すまぬ。忘れておった、鬼三太殿、こちらへ。部屋に案内するゆえ、休んでいかれよ」
「忝ない」
鬼三太は廊下から上がり、少輔太郎の後をついて行く。
土間とは反対側へ歩いて行き、奥の一室に案内した。
「今宵、大きな火事があるようで、家人も出払っておる。不自由とは思われまするが、ここでお休み下され」
少輔太郎が部屋の行灯に灯を点した。
部屋の隅に布団が畳まれている。
「へい。何から何まで忝ない」
鬼三太が頭を下げた。
少輔太郎は頷くと、部屋を出て行った。
再び廊下を通り、土間へと向かう。
土間では珠洲を背負った景秀が丁度上がろうとしているところだった。
「景秀殿、どうなされたのじゃ。珠洲殿はご無事か」
少輔太郎が驚いたような声を上げる。
景秀の表情に疲れが見えた。
「大事ない。今は眠っておるだけじゃ…近衛様はおられるか」
「はい。先ほどからずっと」
「では珠洲を部屋に寝かしてから、参りますとお伝え願えるか」
「わかり申した」
景秀が頭を下げると、自分たちに充てがわれている奥の部屋へと向かった。
少輔太郎は暫く景秀の後ろ姿を見送ると、元いた部屋に戻って行く。
「景秀殿が珠洲と戻られました」
「随分と早いのう」
「それが何かあったようで…詳しくはわかりませぬが」
「景秀はどうしたのじゃ」
「珠洲殿を部屋で寝かしたら、参られると」
「そうか…」
少輔太郎が言いながら近衛の顔を見る。
消沈しているような、不安そうな、少輔太郎が今まで見たことの無い表情であった。
「戻りましてござりまする」
景秀が部屋の入り口で一礼すると部屋に入って来た。
「おお、景秀よ。何があったのじゃ」
「それが…珠洲がまた…」
景秀が申し訳無さそうに言う。
「何!戻ってしまった、と申すか!?」
近衛がいきなり立ち上がる。
「はい、ただ今は眠っておるので、控えていただければ」
景秀が手で近衛を制止させる。
「左様か。では今はおいておこう」
近衛がどかっと座った。
少輔太郎が近衛の態度に目を見張る。
「あの…珠洲殿は如何なされたのでございまするか」
少輔太郎が景秀の方を向く。
景秀が暫く考えるように黙った。
「近衛様、お話しして宜しいでございまするか」
「景秀はよいのか」
「京はやはり危のうござる。珠洲がまたこのようになった時に訳を知る者がいた方が安心できるかと。それに少輔太郎殿は頼りになるお方」
「そのように申されてはこそばゆいが。拙者は毛利の名を捨てた身。ゆめゆめ裏切ることはござらん」
近衛が少輔太郎を見て頷く。
「妻の珠洲は昔いろいろあって、某に嫁ぐ前の頃に戻ってしまう」
「それはどういう意味で」
「京は戦火が絶えんかった。今宵のような焼き打ちが昔も今も繰り返されておる。このようなものに遭うと珠洲は昔に戻ってしまうのじゃ」
近衛がそう言うと首を振った。
「珠洲はこのに戻っておる時のことは覚えておりませぬ。ゆえに珠洲にはこの事は内密にお願い致す」
「それは誓って…ですが治りはしないのですか」
「わかりませぬ。暫く無かったのですが、今宵の火事で戻ってしまったのかと」
「父がのう。京におっては珠洲が休まらんと、仕方なしに景秀に預けたのじゃ」
「それは今言うことでは…」
「ふん。儂の義姉を奪っていきおって」
「義姉!?」
「そうよ。珠洲は元は父の養女じゃ。ゆえに儂の義姉なのじゃ」
「ですが、今は近衛様の養女では」
「仕方なかろう…父がいない今、珠洲を守れん」
「近衛様、義姉のままでも変わらないのでは」
「義姉のままでは、こ奴に勝てぬであろうが」
近衛が憎々しげに景秀を見る。
景秀が目を伏せた。
「まさか、景秀殿より上になりたいから養女にされたのでございまするか」
少輔太郎が笑いながら言った。
「何がおかしいのじゃ!仕方なかろう、そうでもせねば珠洲が京に来てくれぬ」
「近衛様は珠洲殿が京では休めぬから景秀殿の元へ嫁がせ、霧生へ送られたのでは」
「そうじゃ、父がそうしたのじゃ。儂では無いわ」
「その珠洲殿を京へまた呼び出すなど…それほど珠洲殿に、お会いになりたかったのでございまするな」
少輔太郎が近衛の顔を見る。
近衛が唇をわなわな震わせていた。
「某も安心しておりました。珠洲の京行きは止めるべきでございました。申し訳ござりませぬ」
「よい、お主のせいではないわ。やはり、京の戦火は無くさねばならん!」
「少輔太郎、上総介を呼べ」
「織田上総介殿でござりまするか」
「そうじゃ、一刻も早く上総介の心底探らねばならん」
「御意。手配致しまする」




