狼と呼ばれし男
1568年、永禄十一年。
織田信長は足利義昭を奉じて入京した。
京の人々は、戦々恐々としてその行列を見守っていた。
しかし人々の不安をよそに、信長はすぐさま明智光秀と木下藤吉郎に命じて京の治安を回復させた。
さらに自らも定期的に行列を組んで都を巡り、武威と秩序を示してみせた。
この信長の振る舞いに興味を示したのは、諸大名だけではない。公家たちもまた、強い関心を抱いた。
なかでも、時の関白・近衛前久の関心たるや、並々ならぬものがあった。
武をもって京へ入る者は多い。だが、武をもって京を鎮める者は稀だ。
織田上総介信長。
あれはこの日の本に安寧をもたらす者か。
はたまた……。
近衛前久は静かに目を閉じた。
「狼を呼べ」
「はっ」
控えていた側近は深く頭を垂れると、静かに駆け去った。
伊賀国。
峻厳なる山々に囲まれ、霧が多く流れるこの地に黒峰の里はあった。
見通しが悪いだけでなく、昼でも狼を多く見掛けるこの地に訪れる者は稀であった。
そこに一通の書状が届いた。
鍛え抜かれた肉体と鋭い眼光はまさに剣豪の如し。
名を黒峰景秀。
ここ黒峰の里を拠点とする黒峰党の当主である。
近衛様の頼みでは断る事は出来んか。
じゃが甲賀のきな臭さも放ってはおけん。
根来も怪しい動きをしておる。
景秀が腕を組み、書状を前に唸っていると声を掛けられた。
「お前さん。大声で唸ってどうしたんです?太郎丸が怯えてますよ」
見れば、景秀の妻である珠洲の後ろには、明らかに隠れていない巨大な狼がいた。
狼は景秀を見ると、気まずそうに頭を垂れた。
景秀は狼を見ると、顔が崩れた。
「おお、太郎丸。別にお前を怒っておるわけではないぞ」
「儂がお前を怒るわけなかろう」
「さあ、こっちに来い。菓子やろう」
景秀が手招きすると、太郎丸は大きく尻尾を振ると、嬉しそうに景秀へと擦り寄った。
珠洲は溜息をつくと首を振った。
「まったく黒峰の男衆ときたら」
「で、何を唸ってるんです?」
「そうじゃった。近衛様が京に呼んでおるんじゃ」
「じゃが、周りが煩くての。早々ここは離れられんのじゃ」
景秀は未だ太郎丸を撫でていた。
「織田様のせいですかね」
珠洲は世情に明るく、その手の話では景秀も敵わなかった。
おまけに頭の回転も早かった。
「どういう意味じゃ?」
「織田様をお知りになりたいのでしょう。近衛様は」
「織田様は京を落ち着かせておるようです」
「今までの方とは違うので見極めたいのでしょう」
「それに周りが煩いのも織田様のせいかと」
撫でられ飽きたのか太郎丸は景秀の元を離れ、去って行った。
景秀は名残惜しそうに太郎丸の後ろ姿を見ている。
「では京に行かなければならないが、今は動けん」
「白狼丸を行かせればよろしいではありませんか」
「白狼丸じゃと!あやつは未だ子供ぞ」
「既に元服も終えてます。そろそろお役目についてもよいでしょう」
「白狼丸はお前さんよりも既に大きくなられてますよ」
珠洲が微笑んだ。
「珠洲がそう言うなら、景狼を行かせてみるか」
「景狼を呼べ」
景秀が廊下へ声をやると、暫く後障子に人影が写った。
「儂、参りました」
若々しい、少し低い声が障子の向こうから聞こえてきた。
「入れ」
障子の影が一礼する。
障子を開けて入ってきたのは一人の男だった。
後ろに太郎丸よりも大きい全身白い狼が付いてくる。
景秀と珠洲の等間隔の距離で座る。
すぐ横に寄りかかるように白狼も座った。
「景狼、お前に任務じゃ」
景秀は一度咳払いをすると、景狼に告げた。
「儂、初任務か!?」
「白狼、儂らも一人前ぞ」
景狼が目を輝かせ、嬉しそうに話し掛ける。
白狼の目が穏やかに景狼を見つめる。
「で、誰を倒すんだ?親父殿」
「景狼よ、勘違いするでない」
「黒峰は観るのが生業よ」
「京じゃ……京へ行ってもらう」
「なんじゃ、儂、町は好かん」
「お役目じゃ、我慢せい」
「仕方ない。儂、町に行く」
「白狼、はじめての旅ぞ」
白狼が嬉しそうに大きな尻尾を振る。
「待ちなさい」
珠洲の静かな声が遮った。
景狼だけでなく、景秀、白狼も珠洲の方を向く。
「白狼丸、あなたは京に行くのですよ」
「儂、わかっておりまする、母上」
「わかっていません!」
「わかっておりまする!」
「いいえ、わかっていません!京に白狼を連れて行くつもりですか!」
「もちろんでございます。白狼は儂と同心なれば」
景狼の言葉に景秀は無言で頷いている。
「白狼ような大きい狼、町にはいません!」
「町の人たちが怖がるでしょう」
「白狼は怖くはありません!」
「その通りじゃ」
景秀が同調する。
それを珠洲が睨んだ。
「黒峰の者はそうでしょう。ただ町の人は違います」
「そもそも町に狼はいません」
「白狼丸、あなた一人で行くのです」
「いいですね」
景狼の目に涙が浮かんでいる。
それを見て白狼が前足で景狼の膝を軽く叩く。
まるで慰めるかのように。
「わかりました。玲と一緒に行きなさい」
それを聞いた瞬間、景狼の顔が嫌そうな顔になる。
今にも零れそうな涙も無くなっていた。
傍らの白狼も耳を垂らし、小さく唸った。
果して玲とは何者なのか。
次の話に登場します。
そしてはじめての京で景狼を待ち構えるのは何か。
是非次の話もお読みください。




