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「おかえりなさいませ」
「ええ、ただいま戻ったわ」
「ジュリエット、今朝は急に飛び出して悪かったね」
「いえ、お二人とも朝食は召し上がられましたか?」
「うん。殿下のところで、エステルと一緒にいただいてきたよ」
しまった……と思ったがもう遅い。この言い方では、事実通りエステルがロイと一晩過ごしてそのまま僕が合流したと分かってしまう。
ジュリエットは信頼できる使用人だが、逆にそれは雇い主に対しても誠実といえる。つまり僕たちの両親に尋ねられた場合、僕たちの行動を全て話すはずだ。
当然、それは告げ口などではなく仕事の範囲内であるし、年頃の娘を持つ親が子供の生活を知りたがるのも普通なことだ。ただ、兄たちのエステルへの心配ぶりは過保護という域を軽く越えている。仮に伝わったとしても、要領の良いエステルは実家に連れ戻されるのを上手く回避するだろうが。
まあ、僕も兄たちより冷静だが、妹が可愛い。だからこそ、あのことが気になって仕方がない。
ヴァルリナの町には五日ごとに市場が立つ。今日がその日で、買い物へ行くジュリエットに、必要なものがあるか尋ねられた。
「ジュリエット。重いし、僕も一緒に行くよ」
「お気遣いはとても嬉しいですが、大丈夫ですよ。ごゆっくりなさっていてください」
「本当に?」
「ええ。あまり量を買いませんので」
「いや、それでも大変だ。遠慮はいらない――」
「兄様」
エステルが意外にも、僕の方を呼んだ。
「うん。エステルからも言って……」
「兄様は私の方を手伝ってくださる? ジュリエット、いいわよね?」
「ええ、もちろんでございます。行ってまいりますね」
扉が閉まってから、腑に落ちていない僕にエステルが言った。
「ジュリエットにはね、毎回市場で一緒に買い物をする方がいるの。兄様がいたら気を遣われてしまうわ」
言葉を濁されているけど、要するに僕は邪魔ってことか。それなら少し休もうかと、座りかけた。
「兄様、何してるのよ」
「え?」
「手伝ってって言ったじゃない」
「ああ」
エステルは僕を自分の部屋に連れていき、壁際の棚を開けた。ドレスを選んでいる。
「エステル」
「なあに、兄様」
「ロイ殿下とのことだけど……本当に?」
「本当にって、何がかしら?」
分かっているはずだよね――その言葉は飲み込んだ。
「だから……その、本当に昨晩は殿下の部屋に泊まったの?」
エステルが振り向くと、金色の髪が踊るように揺れた。
「今朝、部屋から出てきたのを見たじゃないの」
「見たけど。僕が訊きたいのは、殿下も同じ部屋だったのかってこと」
正体不明の美人令嬢と噂されているエステル。彼女を客室に一人で寝かせたら不埒者が夜這いに来ないとも限らないが、第二王子殿下の寝室ならば普通は近付けない。そのためロイはエステルに自分の寝室を貸して、彼は別の部屋に行ったのだろうと予想しているが……
エステルはドレスを取り出し、僕によこした。
「兄様、そこのソファーのところでいいわ。置いていってくださる?」
「分かった」
渡されたドレスは、僕が見たことないものや、妹の好みではない色合いのもの数着だった。
「なぜロイ殿下の部屋で、私だけが寝ていたと思うのよ」
希望に反して、否定の言葉が返ってきた。
「えっ? だって、その……え、じゃあ一緒に寝たってこと?」
「ダミアン兄様が寝るという単語の意味を、どのように考えているのかによるけれど」
僕の動揺を楽しむかのように、妹は意図を含んだ笑顔を見せた。それは綺麗という言葉では表現しきれないほどだったが、いわゆる男女の機微を知ったような雰囲気は全くなかった。
妹はまだ若いからか、それとも家族からの愛情を一身に受けて育った天真爛漫さがあるからか、演技力の面でロイには残念ながら及ばないようだ。
兄としては一安心ではある。だが逆に、この無邪気さのままで、潜入先の男たちを騙し切れるのかという不安も湧いてきた。
「ねえ、エステル。昨日のことは君を信用するとして……本当にルグランへ行くつもり?」
「ええ。そうしなければ、何も掴めないじゃない」
「でも、危険だと思う。妹一人にそんなことさせられないよ。結局ロイ殿下にも言ってないみたいだし」
「え?」
エステルが目を大きく見開いた。差し込んだ日で、蜂蜜色の瞳がより一層きらきらと光っている。
「あれ? 殿下は言ってなかったけど、昨日の夜、伝えていたんだね」
「何も言っていないわよ。あの方は、薄々気づいているでしょうけど」
「え、そうなの? じゃあエステル、君は何に驚いたんだ? 僕が心配したこと? 兄が妹を心配するのは普通のことだと思うけど……」
「違うわよ。ダミアン兄様、まさか私だけをルグランへ行かせるつもりなの? ひどいわ」
え? そういう意味だったの?
「いや、だって、僕が一緒にいたら男たちが寄ってこなくなると思って。ジュリアンのような男だとすれば、おそらく標的は、ある程度裕福な平民の娘だ。侍従として付いていくのはいいけど、貴族だと思われたら、そもそも近付いてこないだろうから」
エステルだって、普通に気づくだろうに。
「私もそれは分かっているわ」
「そうだよね。じゃあ何――」
「だから、兄様と二人で行こうということよ」
「ん?」
話が噛み合わない。
「ドレスを見て気づかないの? 仲の良い、少し裕福な家の娘同士として行けば完璧よ」
「――え、もしかして僕に女性の格好をしろってこと?」
「私が言うまで思い至らなかったなんて、兄様――、今までどうやって潜入していたのよ」
「いや……変装はしたりするけど、まさか女装するとは思ってもみなくて」
「あら、私なら男装も進んでしますわよ」
昨晩何もなさそうで良かったと安心したばかりではあるが……。問題は別なのかもしれない。妹のこの性格では、この先一緒にいられる男性はロイだけかもしれないと、逆に心配になってきた。
「ということはこの服、君の趣味と少し違うと思ったけど、僕用ってことかな?」
「ええ、そうよ。ジュリエットに貸してもらったの。兄様の体型だと、彼女のドレスの方が合いそうだと思って」
彼女は使用人ではあるが、エステルに誘われ、友人として芝居や音楽鑑賞に付き合うこともある。
「――分かったよ」
「でしたら兄様、さっそく着てみてくださるかしら?」
「え、今?」
「もちろんよ」
仕方ない。大事なことは僕の些細な自尊心ではなく、頼まれた仕事を遂行することだ。
服を選び終えたが、さすがにこれから王都へ向かうのは疲れる。明日以降にすることにして、今日は家での体力回復と状況整理に当てた。ジュリエットが帰ってきたら、詳しく話も聞きたいしね。
翌日の午後、王都へ向かうための準備を始めた。ここで着替えたらジュリエットに怪しまれるのでは? と思ったが、彼女は僕のドレス姿を見ても、特に不思議そうな顔はしなかった。
「あらダミアン様、とてもお似合いでございますよ」
「喜んでいいのか、複雑……なんだけど」
「兄様、何言ってるのよ。あなたがドレスを着て私と王都で今流行っているお菓子を食べに行きたい、そう言ったのはお忘れ? 若い令嬢向けの店だから、男性は入りづらいって」
あ、そういう設定なら早く言ってほしかった。
確かにそれなら両親に面倒な件に首を突っ込んでいると伝わる心配はないが、逆に僕が変な趣味を持っていると誤解されそうだ。
「うん、でも……実際に着てみると、いつもと違うから変な感じがして」
「それは慣れるわよ。――ジュリエット」
「はい、お嬢様」
「兄様に、お化粧をお願いしても?」
「はい、かしこまりました」
「えっ、化粧までしないといけないの?」
「そうよ。周りの令嬢は着飾っているのよ。溶け込みたいでしょう?」
「……分かったよ」
椅子に座ろうとしたが、エステルに女性らしくないと注意を受け、何度かやり直した。
妹はそのままでもヴァルリナ宮殿一の美女と名高いので、化粧品は普段、棚の中にしまわれている。ジュリエットが取り出し、蓋を開けた。
「ダミアン様。痒くなったり、痛くなったりしたら、おっしゃってくださいね」
頷き、目を閉じる。顔を人に触られることなど普段ないのでくすぐったかったが、意外にも不快感はなかった。
「終わりましたよ」
目を開けると、鏡を差し出されていた。そこに映っている自分は、とても母に似ていた。
「あら、良いじゃない。兄様の顔立ちには、やはりお母様と同じような色合いが映えるわね」
「ええ。奥様を参考にさせていただきました」
「ジュリエット、私にもしてほしいわ」
「もちろんです、お嬢様。どのようにいたしますか?」
「そうね。ダミアン兄様と初めてこうやってお出かけするのよね。でしたら――お化粧も、初めて王都へ出てきた令嬢、という感じでお願いね」




