116話 果たされた祈り
「…………」
抱えた母を優しく横たえると、ルクスは血と瓦礫で汚れた床に座り込んだ。
あれだけ暴れ回っておきながら、どこか楽しそうに眠る母を憎々しげに思う。
深い深いため息をルクスは吐いた。
『ルクス、平気?』
「けっこーキツイ……」
『……そう』
彼は心配するように声をかけてくるフィフに返事をして、なんとか涙を引っ込めた。
ルクスは初めて人の命を奪った。
これまでも、彼自身の行動で人が死んでしまうことはもちろんあった。
しかし、明確に殺意を持って人を殺めたのは初めてだった。
少し前の彼であったならば、心のどこかで達成感や満足感を得たのかもしれない。
だが、今の彼には大きな消失感と罪悪感があった。
相手が相手だったのだから尚更だ。
ルクスの大事にする倫理観においては、受け入れることは難しい。
「あー……しんど」
心の疲労もあるが、体力の方もかなり消耗していた。
髪と目の色変化もやめているほどである。
道中の救助活動も響いているようだった。
彼は眠る母を見つめていた。
やっと会話できたときには、関係性は構築されていた。
もうその行動を容認できる段階は過ぎていた。
だから、命を奪うしかなかった。
逃したときの厄介さを彼だからこそ理解していた。
その心の在り方が何を引き起こすのかを、彼だからこそ理解していた。
母は人間として無邪気過ぎたのだ。それだけの話だ。
悪逆を愛した女に、ルクスは祈りを与えた。
それは孤児院にいたころに、死んでしまった子達に皆で行っていたものだ。
「『一瞬千秋へと還れ。その歩みに、静かな終わりを』」
目を閉じて、死者への弔いを行う。
あの世界とは違って、この世界では魂というものが客観的に認知されている。
ならばきっと、その行いにも意味はあるのだろう。
少年が母を見送る、切なくも、美しい光景だ。
「『貴方に永き安らぎが齎されんことを──』」
だがその行為は“女神の生きた証”となる。この世界の汚点である。
──それは、消さなければならないだろう。
女神の遺した物で、女神を滅ぼそうとする矛盾した一撃が彼を狙う。
『狙撃手』は、女神の領域である天空から少年を狙う。
一切の遮蔽物がない空から地上へ向けてその銃を構える。
黒と赤の鎧から銃へとエネルギーが供給されていく。発射準備が完了する。
彼女の被る兜の内側にはその少年への照準と情報が一切の狂いなく表示されている。
その“線”が走れば、少年の頭は綺麗さっぱりこの世から消失する。
ミーナは空から見ていた。
敬愛する魔王からの指示はただ見ていること。そして、成り行きを教えること。
だから、音声では捉えられずとも、狂った親子のやり取りを見ていた。
あれがきっと今の世界の縮図だ。
過ちが過ちを呼ぶ負の連鎖。負の輪廻。
もう全てを壊すしかないのだ。超越者の手によって。
「……『一瞬千秋へと還れ。その歩みに、静かな終わりを』」
引き金に指をかける。
ミーナもまた、その憐れな少年に祈りを送った。
女神を嫌いながらも祈ってしまったのは、ただの癖だった。ミーナ自身にも自覚がないものだった。
たとえ女神のことを抜きにしても、“あの少年は死んだほうがいい”とミーナは純粋に思った。
あまりにも可哀想で見るに耐えなかった。
その事情の全てを知るわけではないが、辿ってきた道は予想がついた。
捨てられ、苦しみ、運命を捻じ曲げられ、積み上げてきたものを否定された。
どんなに歌おうとも、踊ろうとも、愚民がその意味に気づくことはない。
挙句の果てには実の母をその手にかけた。──これから終わる国を守るために。
だから、彼は死んだほうがいい。
生きていても苦労をするだけだ。
人々は女神を捨てた。だがどうせまた何かに縋るだろう。
そうだ。人々はやがて彼に縋るようになる。
あんな小さな子が背負うにはこの世界は重すぎる。
次の女神が生まれるだけだ。
そんなことは絶対にさせない。
「『貴方に永き安らぎが齎されんことを──』」
“どうか頼むから、死んでくれ。──楽になってくれ”。
そんな懇願にも似た一撃が放たれた。
線が走った。
天空から下界へ。それは裁きではなく、救済の光だ。
間違いなくそれは彼を殺す光と熱だった。
疲労と消耗を重ねた少年に防ぐ術はなく、彼の持つ愛剣もある場所を警戒していて、その狙撃を認識するのが遅れた。
その光が彼を撃ち抜いた場合、間違いなく彼は死ぬ。
そして、それがきっと一番楽だった。綺麗な終わりだった。
誰もが仕方がないと諦めるような結末だった。
生みの親に捨てられ、預けられた孤児院で育った素朴な少年がここまで来れたのが奇跡だったのだ。
「────」
少年は気づく。自分を狙う攻撃に。
しかし、少年が光を見たときにはもう全てが終わっていた。
避けられない。防げない。助からない。
その速度に人間は対処できない。
あれは魔力を使っていない。だから、とっさの魔力の防御では防げない。
そして、食らった時点で少年は即死する。
“撃線”の二つ名は伊達ではない。その線が戦場に走るとき、誰かが死ぬのだ。
自分を貫く光を少年は呆然と見ていることしかできなかった────。
◆
男は常に走っていた。
周りを見ずに全力疾走を繰り返す。振り向きもせずに、前だけを見ていた。
だから、後ろで誰かが転んでも気づかない。すれ違った誰かを追いかけることもしない。
「なんか、てめえムカつくなあ」
それが親友との出会いだった。
格式高いパーティでいきなり絡まれたのだ。
男は直情的な性格だった。だから、馬鹿な王族に文句を付けられたと思って言い返した。
「……あ? マジでキレちゃったもんねえ!!」
そこからは子供の喧嘩だった。やることは可愛くなかったが、彼らにとっては殴り合いに等しかった。
「よお、また会ったな、クソ野郎」
その大事件からわずか数日後のパーティでも男はその王族に絡まれた。
だが、そこからは喧嘩などしなかった。
お互いに一切の気遣いなく貶し合うような関係になっていたのだ。
社交界や、階級社会においてそんな関係がずっと成立することはない。
しかし、なんだか彼らは意地でそんな関係を続けた。
そして、お互いに絶対相手のことを友人だの、親友だの言うことはなかった。
“言葉にすると陳腐になる”。そんな青臭い理論による友情だった。
「明日、脱走する。付き合え」
親友の横暴は留まることを知らなかった。
何かをする度に男と親友は親に叱られた。酷いときは牢屋に入れられた。
しかし、それも笑い話になった。本当に気持ちの良い関係だった。
「酒って美味いのかな。酔っ払うのが楽しいって感じなのかな。
おーし、大人になったら飲もうぜ。抜け駆け禁止な!」
結局お互いに抜け駆けしていて、喧嘩した。
「なあ、結婚ってどうなるんだ? 常に隣に女がいるって恥ずくね?」
そんなことを言っていた親友は突然言っていたことを撤回した。
その恥ずかしいことを毎日していた。本当に妻にべったりだった。
「なあ、頼む。お前にも立場とかがあることを踏まえた上で、ここに残ってくれないか?」
戦場に向かう男に親友はそんなお願いをしてきた。
いつもの寂しがりが出ただけだと思った男は軽く流した。
「なら……長引いた時点で帰って来てくれないか? もしそうなるのならば、この戦争は人間側がどうせ勝つからさ」
それならば、と男は約束をした。
しかし、その約束を男は破った。
戦場を走ったからだ。
走る度に仲間が死んだ。ゴミのように殺された。
だからこそ、敵に怒った。憎悪した。
全力で駆け抜けた。何もかもを振り切って、何もかもを無視して。
だから、気づいたときには戦争が終わっていて、男の手は血だらけだった。
そして──親友はいなくなっていた。
階段から落ちたのだという。疲れていたという。苦労していたという。
そんな馬鹿な死に方を親友がするはずがない。
そもそも親友が死ぬはずがない。
だから、墓を壊した。王都中の家を探した。大声で親友の名前を叫んだ。
“戦争でおかしくなった”と人々は男のことを憐れんだ。
男はそんなものを聞かずに走り続ける。
そして、男は親友の子供が生きていることを夢見た。
国中を一つ一つ丁寧に回る男を皆が馬鹿にした。
時間のかかる作業だった。男を噂する声が聞こえなくなるくらいの年月がかかる途方もない作業だった。
生まれたかどうかもわからない赤子。
そもそも金髪、金眼ではない可能性もあった。
しかし、男はなんとなく親友の子は王の特性を持っていると信じていた。
そんなものに理由はない。ただそうでないと困るからそう思っただけだった。
そして、時間がかかればかかるほど、赤子は成長する。住む場所を変えていく恐れがあった。
だからこそ終わりはない。諦めてもおかしくはないくらいの年月がかかった。
五年かかった。しかもそれは合計ではない。
男はずっとその作業にかかりきりだったのだから。
人生の五年を使って、そんな夢を追い続けた。
大戦争の前と後では世界は確実に変わった。
前は作為的な悪が跋扈し、後は無作為の暴力が徘徊する世界になった。
親友が予想していた終わりよりもきっと酷くなっていた。
人間がこのままでは終わる。そんな焦りを男は感じるようになった。
それでも、男は走り続ける。止める従者を無視して、諦めろという父を無視して。
だがやがて、男にも時間はやってきた。
自分の身勝手な希望と人間全体の動きのどちらかを選ばなければならなくなったのだ。
もしそこで自分の欲望を優先すれば、今度こそ親友に絶交されてしまう気がした。
そんな迷いが頭にある状態で、訪れたあの孤児院。
迫害によりボロボロなあの施設で、あの憎たらしい音をまた聞くことができたのだ。
男は浮かれた気分で、その少年を助けようと思った。
しかし、その認識は間違いだった。
「気に入って頂けたのはありがたいことですが、私のようなモノを引き取ったところでなんの益にもなりません」
冷たい顔だった。
親友と同じ顔をしながら、その声には他者に対する嫌悪感が見え隠れしていた。
まるで世界そのものを拒絶しているようだった。
そこで男は気づいた。また自分は走るばかりで、手を引く者の表情を見ていなかったのだと。
男は戸惑った。しかし、それはあの孤児院の信徒たちも一緒のようだった。
だから、その少年は男と共に来ることになった。
「わかってるよ。わかってんだよ……、あんなこと言わせるつもりじゃなかった。くそ…。でも、てめえは存分に恨むから」
男がどんなに幸福を提供しようとしても、少年はそれらを拒絶した。
男はまた走るばかりで、押し付けるばかりで、親友の影を追いかけるばかりだった。
「アンタはなんだ? 『そういうところは父親そっくりだ』、『思い出すな』って俺自身のことをどれくらい知っている?! 『お前をあるべきところへ返す』だと? それはどこだ?! あんな場所かッ!?」
だから、そんなことを言われてしまった。
そんなやり取りを終えて、男は少年を導く役目は自分には向かないと思った。
そして、親友の親友に任せたのだ。
単純に悔しかった。でも、男では少年を守れなかった。
遠くで巻き起こされる少年の話題を聞く度に、笑いながらも酒を呷った。
その輪の中に男はもういない。
素朴な少年を陰惨で残酷な運命に巻き込んだ男など、不要だった。
清廉潔白のまま終わることができたかもしれない少年を歪めた存在など脇役でしかない。
出しゃばる必要などない。
──でも、男は走っている。
また男は前しか見ていない。
だから部下は置いてきてしまった。
だから馬は乗り捨ててきてしまった。
その走り方も無様なものだった。
仮にも公爵の息子がしていい走り方ではない。
だけど、そうしないと間に合わない。
自分を殺す光を前にしても、あの少年は折れていなかった。
絶望していなかった。
それが無性に嬉しかった。
それでこそだ。
それでこそあの親友の息子だ。
それでこそ人間の上に立つ器だ。
また、男は少年に大役を押し付ける。
でもそれくらい許されるべきだ。
──だって、男はこれから命を顧みず、少年を庇おうとしているのだから。
それくらいの期待がないと割に合わないのだ。
「……!? いってぇ……ッ! ──え?」
もはや戦車の突進に近い威力で、男は少年を跳ね飛ばした。
あの射撃はとても正確だ。
だから、座標さえずらしてしまえばいい。
光が少年の代わりに男を撃ち抜いた。
男は笑った。
そこは親友が死んだという階段だった。舞台ができすぎていたからだ。
実に十二年だ。
男はこのときのために走り続けたのだ。
ダルン・ヴォル・ルクレヴィスは──今度は間に合った。




