7 ケインと父親
「運が良かったなぁ」
ケインは自分の家に向かう馬車の中で独り言を呟いた。
船が風を避けて海岸寄りを航行していたから岸まで泳ぎつけたし、たどり着いた山小屋に腕のいい薬師がいたのもついていた。彼女に出会わなかったら間違いなく死んでいただろう。
「それにしても追いかけてまで殺そうとするかね」
僕の母親は南の国の王族の娘で、クライフ王国に遊学に来た時に父と恋に落ちた。そして自分を産み落としてすぐに帰国した。
母親は帰国して親の決めた人と結婚し、生まれた娘が跡取りとして既に決まっていた。僕が墓参りに行ってもなんの問題もないはずだった。
母がしばらく前に亡くなったと知らされて、旅行がてら墓参りに行っただけなのに。祖父母に跡取りになれと詰め寄られた。
これは厄介なことになると思って早々に撤退したが、手下を船に乗り込ませてまで殺そうとするなんて。
母の結婚相手が取り越し苦労をしたのだろうか。まさか妹が僕を殺そうとしたんじゃないよね。
馬車はのんびりと家に向かって進んでいた。
「それにしても酷い目に遭った。でも、ボウエン家のお嬢様と知り合いになれたのは良かったかな」
エレンの護衛に村まで送ってもらい、「お嬢様からです」と渡された革袋には結構な金が入ってた。旅費らしい。治療してくれて、泊まらせてくれて、治療費を受け取らず、帰りの旅費まで渡してくれるとは。
「どれだけお人好しなのさ、エレン・ボウエン。あんなお人好しで大丈夫なのかな」
送ってもらった村で山小屋のエレンのことを聞いたら、村人たち皆が知っていた。ボウエン侯爵家の末娘にして跡取り。高名な薬師の血筋。本当は今頃結婚していたはずなのに土壇場で取りやめになった、とか。
「どこの家も色々あるんだな」
屋敷では父にも使用人たちにも大切にされて育ってきたけれど、家の外では庶子だとか異国人の子供とか言われ続けた。
「悪口には慣れているけどさ。まさか母さんの身内に死ねと思われるとはね」
馬車の窓ガラスには自分の顔が映っていた。笑顔で泣いてるみたいな不細工な表情の自分がいた。
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ケインが自宅に戻ると大騒ぎになった。
「今まで何をしていた!なぜ船に乗っていなかったんだ!」
興奮した父親に問い詰められた。乗っていたはずの船におらず「途中で海に落ちた可能性が高い」と言われ、いよいよ葬儀を行うかと言う頃にひょっこり帰ってきたのだ。大騒ぎになるのも無理はない。
父のディルク・スミット伯爵は心労でやつれていた。
「色々あってさ。船酔いが酷かったからずっと室内にいたんだけど、もうすぐ到着だからと甲板に出たら、あちらの人に殺されかけた」
「殺されかけた?」
伯爵の声が裏返る。
「だから海に飛び込んで逃げた。父さん、エレン・ボウエンて令嬢を知ってる?」
「知ってるも何も、とんでもなく有名で裕福な侯爵家のご令嬢だ」
「そのお嬢さんに助けてもらったんだ」
そう言ってケインがシャツの胸元をはだけて痛々しい傷を見せると、ディルク・スミット伯爵は目を剥いた。
「殺されかけてエレン様に治療してもらった?ちゃんと詳しく話しなさい!」
二人はその後、長いこと話し合った。
食事をたっぷり食べながらケインが全てを話すと父親の伯爵は烈火の如く怒り、次に頭を抱えた。
「あちらには事実を伝えて断固抗議せねばならん。そしてエレン様には感謝してもしきれないぞ、ケイン」
「だよね。旅費まで渡されちゃったし」
「早速礼状と感謝の品を贈らねば。いや、私が持って行くべきだな」
伯爵は落ち着かなげに居間を歩き回っている。
「僕はエレンを初めて見たけど。彼女はなぜ社交界に出てなかったの?」
「人付き合いを好まない方だそうだ。成人する前に婚約していたからそれで済んだのだろう。破談になったと言う噂は本当だったんだな」
「破談?どんな不始末をしでかしたの?そんな人には見えなかったけど」
「不始末をやらかしたのは男の方だ。浮気の現場を見られたという噂だ。多分男の家は破滅だ。返せそうもない額の借金がある」
「ボウエン家は裕福なの?」
「震え熱の特効薬のことは知ってるか?あの薬はボウエン侯爵夫人の母親が作った物だ。今は侯爵夫人にその権利がある。大量に輸出しているから製薬作業は国が管理しているが、莫大な金が権利者である侯爵夫人に入るんだ」
「へぇぇ。すごいね。エレンも腕利きだったよ。僕、コラッソンの毒なんて名前しか知らなかったけど、エレンはすぐに毒を特定して薬を作ってくれたんだ」
「エレン様はいずれ特級薬師になるお方だからな。エレン様に救われなかったら今頃はお前の葬式を出してるところだ。特級薬師が作った薬はとても高額な上になかなか手に入らない。その分効き目は間違いないんだ。お前は実に運がいい」
「ふうん。父さん、お礼を持って行くなら僕も連れて行ってよ。改めて彼女にお礼を言いたいんだ」
「ああ。それがいいな。エレン様は今、傷心でらっしゃる。お前がお礼がてらお慰め……いや待て、そう言えばお前、この前の件はどうした?ちゃんと片は付けたんだろうな?」
「男爵夫人のこと?だってあれはあちらから頼まれたんだ。レディの頼みは断れないさ」
「寝室で二人でいるところを見られた以上、世間はそんな言い訳は信じないのだよ。私がお前の尻拭いで謝らなければならなかったのを忘れたか」
「父さんには悪かったとは思ってる。でもあれは誤解なんだ」
「誤解されるような隙があったのはお前が悪い!手紙を出して訪問の日時が決まったら知らせるから。言っとくが、ボウエン家の御令嬢に失礼を働いたら我が家なんぞ消されるということを忘れるなよ」
「え?」
「私の血を一番濃く受け継いでいるお前は信用ならん。いや、やはりボウエン家にお前は連れて行くのはやめる。エレン様には近寄るな」
「そんな……」
「だめだ。私もまだ命は惜しい」
その後、スミット伯爵は高級な布地を何種類も注文して、はたと気が付き、夫人とエレンが喜びそうな贈り物を探させた。しばらく日にちはかかったが、希望の品が揃った。
ただの噂かも知れないが、「あの特級薬師を敵に回すな。いつどこで毒を盛られるかわからんぞ」と亡き父が繰り返し言っていたことを伯爵は思い出したのだ。
そしてスミット伯爵は一人になったケインが哀しげな微笑みを浮かべていることも、その理由もまだ知らない。