姉の婚約者
教室で帰り支度をしていると、あまり話したことのない男子から話しかけられた。
「お前が働いてる喫茶店って、探偵業もやってんだろ?」
「うん。えーっと、田辺くんだったっけ?」
「おう」
隣のクラスの田辺勇気。至って真面目な性格で部活はせずに帰宅部で、何の手伝いかは知らないけれど、家の手伝いをしているらしい。
口の端が切れていてまるで誰かに殴られたようだ。
真面目な性格でも喧嘩はするんだなと思いながら席から立ち上がる。
「これから喫茶店でバイトだけど一緒に行く?」
「……行く」
暫し考え込んだ田辺は力強く頷く。
決意ある瞳を見ると、きっと千紘はこの依頼も受けそうだ。そう考えながら喫茶店への道程を歩いていく。
喫茶店に着き扉を開けると、ドアベルの音がして千紘がカウンターからひょっこりと顔を覗かせる。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。ん?いらっしゃい」
菜緒の後ろで、少し緊張した面持ちの男子がいることに気がついたようで、柔らかな声を出し歓迎してくれた。
何か言われる前に常連客には違いますからね!と念を押し、カウンター席に田辺を座らせる。
「菜緒ちゃん、準備終わったらコーヒーおかわりね」
「はーい」
空になったカップを持ち上げアピールする常連客に返事をし千紘を見る。
「任せるよ」
アルバイトに慣れてきたお陰で常連客から話しかけられる回数も増え、様々な仕事を任せてもらえるようになった。
まだ簡単な作業だけだけど、任されたことが嬉しくていつも張り切ってしまう。
鼻歌を歌いながら手を洗い、かろうじて田辺の声が聞こえる距離でコーヒーの準備をする。
「僕の名前は瀬良千紘です。よろしくお願いします」
「田辺勇気です……よろしくお願いします」
田辺は視線を下に向けたり千紘に向けたり何か言い辛そうにしている。
焦れったい時間が続く中、菜緒も常連客にコーヒーを出し終わってしまった。
千紘は戻ってきた菜緒を目線だけで労り声は出さない。
それはきっと声を発すると、田辺が焦ってしまいそうだからだろう。
菜緒は小さく頷き、千紘と2人で急かすことなく田辺の言葉を待つ。
スーッと息を吐き、吸いを繰り返した田辺はゆっくりと口を開く。
「助けてほしくて」
「助け?」
「はい。俺と言うよりはねぇちゃんを」
田辺の話によると、6歳離れた姉の結婚が決まったらしい。
それは喜ばしいことなんじゃ?とも思うけれど、田辺曰くあの男は胡散臭いだそうだ。
「1度会ったんだけど、雰囲気というかなんというか。上手く言えないけど、会った時の印象が俺の中であまり良くなくて」
それを名前の通り勇気を持って父親と姉に話した所、父親に思い切り怒られてしまったらしい。
「だから口の端切れてたんだね」
「ああ、思いっきり殴られた。失礼なこと言うなって」
「まあ、いきなり言っちゃね……怒るよね」
自分も友達を1度会っただけの人に頭ごなしに否定されたら怒る。
「父ちゃんは、いい人が見つかって良かったって言うけど分からない。あの男にねぇちゃんを任せてもいいのか調べて欲しいんだ」
「畏まりました。書類をお持ちしますね」
「良かったね田辺くん。受けてくれるって」
「本当か!?あ、ありがとうございます!!」
何度も頭を下げる田辺の様子から見てもかなり必死だ。
どう転ぶかは分からないけれど、田辺が安心出来る結果だったら良いなと思った。
***
***
聞き取り調査を進めていく中で警戒する人もいるけれど、樹の素面は便利だなと思うくらい、周囲を虜にしながら情報を引き出していく。
樹は依頼事に髪型や服装を変えるらしく、今日はカッチリとしたスーツ姿だ。髪の毛も無造作ヘアーではなく寝かせている。
「あそこの家族は仲良いよ」
田辺の情報では一人暮らしでは無かったのか?
「旦那さん出張が忙しいらしくて、中々時間を取ってくれないと奥さんが嘆いていたねぇ」
「奥さん……」
その出張の日は、田辺のお姉さんと会う日と合致していて、田辺のお姉さんは勿論のこと奥さんのことを考えると悲しくなってしまう。
わんさかと出てくる情報に誰がどう見ても既婚者だと分かり辟易してくる。
「なんでそんな嘘ついてまで……」
「さぁな。ま、言ってしまえばゲスな上に屑だな。田辺の姉もこんな男は切り捨てるべきだろ」
集めた情報を書いていく樹の言葉に大いに同意してしまう。
で、極めつけは本人から貰った証言だ。
実を言うと職業を偽っていたのは早い段階で分かっていたそうで、自分との待ち合わせ前に本来の職場であるスーツ専門店に樹が行っていたらしい。
そこで既婚者で子煩悩な親だと知ったようだ。
「うわ、本当に気持ち悪い」
恋はしたことはあっても、付き合うまでには至らなかった。だから男性の気持ち等については分からないけれど、最低の男の情報を目の当たりにしてしまい、心底気持ち悪いと思える。
自分が付き合うとしたら浮気も不倫もしない真摯な人が良い。
「浮気をしない。そんな人はどれくらいいますかね」
「さぁな。ただこの仕事をしてると、男も女も浮気をする生き物だと思えるぞ」
喫茶店に来る相談で多いのが、パートナーの不貞を調べて欲しいらしい。
今回のように家族が調査依頼に来ることも多いらしく、世の中大変だなと思えてしまった。
「でも千紘さんはしなさそう」
「おい、俺は」
「樹さんは……」
沙世と街中を歩いている時、偶然樹を見かけることがある。
あれだけの人混みで見つけられるのは樹のモテオーラのせいだろう。
しかも大抵女性に話しかけられ、口は悪いながらも丁寧に対応してる。
それがモテるんだろうなと思いながら見ていた。
でも、手を繋いだり何かをしてる場面は見たことがない。それは隠れてしているのかもしれないけど、何故だかは分からないけど、してないと思えた。
「浮気出来なそう」
「どうしてそう思った?」
「男としての信念。男気みたいな」
上手い言い方が分からず男気として表現すると、ツボに入ったのか肩を震わせ笑っている。
「もう!そんなに笑わないでください!」
「ははっ、悪いな。信念と男気か……千紘にもあると思うか?」
浮気をしないぞという信念と男気。男気は正直分からないが、信念は強そうだと一緒に働いてて思う。
あると思いますと頷くと、満足そうな笑みが返ってきた。
***
***
近くのレストランで田辺と待ち合わせて結果を報告すると、憤りを隠せないのかアイツ……と低く呟いた。
「田辺くんの家、とっても家族思いなんだね」
姉の為に動く弟。なんだか素敵な姉弟だ。
「………俺の家は少し特殊だよ」
怒りを落ち着かせた田辺は家族に想いを馳せているのか目を細めた。
「俺の家母ちゃんがいなくて父ちゃんも店で忙しくて、ねぇちゃんがいつも夕飯や弁当を作ってくれたりするんだ」
それは田辺が中学校から続いているらしく、支えてくれている姉にはどうしても幸せになってほしいと願っているらしい。
「だから、そんなねぇちゃんの幸せを蔑ろにするあの男は許せない」
「そうか。なら尚更お前は男を殴りに行くべきじゃないな」
樹の言葉に田辺はキッとに睨み付ける。
「お前の暴力では解決は出来ないどころか拗らせるだけだ。それよりも良い方法がある」
樹が持っていたカバンから取り出したのは様々な証拠と、上に1枚の弁護士の名刺。
「それは俺が懇意にしてる弁護士の名刺だ。制裁を加えるのならソイツに頼め」
田辺は名刺と証拠の数々を見て目を瞬かせた。
「ただ、頼むとしたらお前の姉だ。お前に出来ることはこの資料を使い、家族を説得することだな」
「……は、い……」
証拠を前にポロポロと泣く田辺の背中をソッと撫でる。
「俺を雇った料金は散々否定してきた父親にでも払わせろ」
「はは、なんすか……それ……自分で払いますよ」
相談の時に思い詰めていた表情は、今は段々と鳴りを潜めていく。
***
***
後日、田辺に視聴覚室に呼び出され1人で入る。
窓際に立ち何かを抱えていた田辺に挨拶をすると、爽やかな笑顔が見えた。
全てを解決出来たのだろうと思う笑顔で、こちらも嬉しくなる。
「ねぇちゃんさ、俺が言った後に個人的に調べてくれたみたいで」
「そうなんだ」
「うん。で、俺と同じ結論に至った辺りで、俺がたんまりと証拠を持ってきたから凄い笑ってた」
嬉しそうに笑う田辺は父ちゃんも…と言葉を続けた。
「俺を殴った慰謝料だと思って金を払うって」
「わ、家族間なのに高くついたね」
探偵を雇うのはかなり高額だ。樹は随分と良心的な値段でやっているらしいけれど、それでも高いとは思う。でも勉強料らしいから良いのかもしれない。
頷きながら話を聞いていると、持っていた箱を渡され首を傾げる。
中を見ると、美味しいケーキ屋さんのショートケーキとチーズケーキが入っていてテンションが上がる。
「私、ここのショートケーキとチーズケーキ大好きなの!」
「知ってる。ねぇちゃんからのお礼。今後ともご贔屓にだってさ」
「………今後とも?」
知ってるとは?今後ともとは?と頭の中で考えていたら、先に田辺から言われてしまった。
「お前らがケーキに埋もれたい発言してたの、目茶苦茶笑いながら聞いてたからな」
「だ、誰が……?」
「俺とねぇちゃん。あそこ俺の家だぜ」
知らなかったのかと呆れた声で言われポカンと田辺を見た。
「今度変な奴に絡まれたらすぐに助けてやるからさ。また来てくれよ」
イタズラが成功したように笑う田辺の姿はとても楽しそうだった。