集団心理
翌日、相談がてら千紘にマンション内の不審者話を伝えていく。
「え、隣人!?大丈夫なの?」
「多分。昨日その人がしゃがみこんでいて手を貸したんですけど、疲れていたというか……」
「助けた?」
怪訝な表情を見せた千紘に、表情が疲れきっていた事や疲労困憊な姿だったことを伝えていくと、みるみるうちに不機嫌になっていく。
「ふーん。優しいね」
「千紘さんどうしました?」
「別に。ちょっと僕の心が狭すぎて、若干申し訳なく思ってるだけだから気にしないで」
「えぇ?千紘さんは心狭くないですよね」
「自分でもそう思ってたけど、限定的に物凄く狭いみたいなんだ。新発見だね」
「そうなんですか……」
限定的とは何なのか。でも心は狭そうには見えないのになと考えていると、ぶふっと吹き出す声が聞こえてきた。声の方向には、テーブル席でのんびりとコーヒーを啜っている、記者である藤代がいた。藤代はどうやら一連の不審者について追っているようで、喫茶店に立ち寄ったらしい。
「愉快だな」
「不快ですよ」
2人しか分からないような言葉を交わしている。首を傾げると藤代にますます笑われてしまった。
「面倒な奴だ。コーヒーおかわりいい?」
「はーい」
コーヒーのおかわりをした所で、藤代は手帳を取り出した。初めて手帳を見た時より分厚くなっている所を見ると、記者として仕事を全うしていると良く分かる。
色々と周辺の住民から話を聞いているそうで、初めは藤代も不審者だと思われたそうだ。何より菜緒自身も初めは不審者だと思っていた。
「まあ、警戒して話さない人もいるわな」
「私もそうでしたからね……」
罰が悪そうに答えるとまた藤代に笑われてしまう。手帳と一緒に取り出したペンをゆらゆらと揺らし藤代は楽し気に答える。
「第一印象ってのは大事さ。初めは視覚から入る。身なりが見てて不快なら、それだけ初めの印象は悪い」
洗濯されているシャツと洗濯されていないシャツ。どちらが好印象かと言われれば後者だ。
「俺は顔からして一見怪しい。ただ、取材をする時に言動や声のトーンに気を付けているから、記者としてやっていけてる。もし不快だと思った奴が、無口な上にその不快感に関して他に同調する奴がいたら、それだけでもっと印象は悪くなる」
「その人が悪くなくてもですか?」
「ああ、そうだ。集団心理って奴かな。不快ですって声が大きく、更にそれを影響力がある人が言うと同調しやすい」
だから藤代は、その土地土地の権力者との仲を良好にしているらしい。地主と仲良くしていれば、その取り巻きからも情報を得られる。狡い手だとは言うけれど、誰も傷つけることなく情報を得ているのだから、藤代のコミュニケーション能力は相当なのだろう。
藤代の話を感心しながら聞いていると、カランカランとドアベルの音が鳴った。
現れたのはこの間ゴミ集積所前で会った、マンションの住民の人達。喫茶店でのんびりするのかな?と思いながら近づくと、1人が菜緒に気がついたようでニッコリと微笑んだ。
「あら、こんにちは。ここで働いてたのね」
「はい。お好きな席にどうぞ」
「そうさせてもらうわね」
入ってきたのは6名の女性。1番に入ってきたのは不審者を知っていると言っていた、年頃の娘がいる住民だ。既にオーダーが決まっているのか手を挙げている。
「はい。何にしますか?」
「探偵よ」
目を瞬かせながら、チラリと千紘に視線を送る。軽く頷いた千紘に頷き返し、今ここに探偵はいないことと、喫茶店が探偵との橋渡しになっているので、ここで話を聞くことを説明していく。
「それで良いわ。皆もそう思う?」
娘がいる住民が場を取り仕切っているようで、特に反論も反対もなく頷いている。それなら良いかと話を聞いていくと、不審者について随分と物騒な雰囲気になっているのだと漸く気がついた。
「これは嘆願書よ」
「嘆願書?」
何のだろうと思いながら差し出された書類の文面を見てギョッと目を丸くさせる。
「退室要求……?」
「そう。あんな不審者と一緒のマンションにいるなんて不安でしょうがないわ。ねぇ?」
「ええ、それで嘆願書だけじゃ心許ないから、良くない噂とか行動とか調べたいの」
「そうしたら直ぐに不動産屋とか大家さんが動くでしょう?」
「貴女も隣に変な人がいたら嫌よね。だから署名に参加してね」
何なら今ここで署名してと言わんばかりの勢いに圧されていると、背後からソッと肩を掴まれた。この優しく触れる感じは千紘だ……と思いながら後ろを見ると案の定千紘がいた。安心させるように微笑んでくれた千紘は、菜緒と住民達との間に入る。
「調査致しますので、署名はそれからでも遅くないですよね?」
「えぇ、大丈夫です」
「なら探偵に伝えておきます。ああ、探偵は僕の双子の弟なので、もし会ったとしてもお手柔らかにお願いします」
人の良い笑みを浮かべた千紘に勢いが削がれたようでただ頷いている。
「じゃあ菜緒ちゃん。説明お願いね」
「はい。千紘さんありがとうございます」
千紘から探偵を頼む際の注意事項の書類を人数分手渡し説明をする。結構高額になる可能性があるにも関わらず、もう住民達の中では、菜緒の隣人が不審者だと決定付けられているようで、全て任せると言われてしまった。
「私の娘が今度中学に上がるの。年頃だから早く不安を解消させてあげたくて」
「娘さんが不安に思ってるんですか……」
「ええ、私が注意しなさいって言っているお陰で、不審な人を見分けられるようになったみたいで」
「そうなんですね」
家族が注意をして不安になるのは娘として当然かも知れない。ならその不安を取り除く仕事をするべきだ。そう考え頷きながら話を進めていった。
住民達が帰った所で藤代は面白そうに入り口を眺める。
「隣人が不審者ねぇ。君の周りは随分と賑やかなもんだな」
「やっぱり不安だ。また僕の家に泊まって?」
「は?お前ら泊まる泊まられるような関係……」
「違います!違いますから!」
「菜緒ちゃん否定は悲しいな」
「千紘さん!からかわないで下さい!」
そんな関係なら嬉しいけれど勘違いは正さなくては!と当時の状況を説明していくと、なるほどと納得してくれた。してくれたものの、まだニヤニヤと笑みを浮かべている。
「まあ、囮になったりナイフを鞄で防御するような女の子は心配になるよなぁ」
「うっ、それは……」
自分がしたことは客観的に聞いていてもおかしい。否定出来ずに傍にいる千紘の袖をくいっと引っ張る。出来れば藤代の相手をして欲しいと願いを込めたけれど、引っ張った手を握られその願いはどこか遠くに吹っ飛んでいく。握られた手は大きく暖かい。呆けた表情で千紘を見ると、心臓が蕩けそうなほど柔らかな笑みを浮かべてくれている。
「ん?僕の家に泊まる気になった?」
「いえ……なんでも、ないです……」
「そう?僕はいつでも待ってるよ」
千紘の言動に胸がオーバーヒートしそうだ。無条件に泣き出したくなりそうなほど切なく胸を焦がす。
大体、見た目が良いのを隠していても、近くで見てしまうと格好良さを隠しきれていない。それに千紘を好きな自分からしてみれば、千紘の言動に勘違いさせられてしまうのが悲しくてしょうがない。千紘が好きなのはヒカリのようなスラリとした美人だ……と念仏のように言い聞かせる。
「大丈夫ですから……ね?」
「菜緒ちゃんのこと心配させてくれないの?」
少し拗ねたように言われ、胸が切なく縮まる感覚に陥る。握られている手の指先を絡めるようになぞられゾクリと背中が揺れた。頬がどんどん赤くなってしまう。これは心臓が耐えられそうにない……と、藤代に助けを求めると楽し気に笑っていた。
「いやー、青春青春。ごちそうさま」
カウンターにチャリンと小銭を置く音が聞こえる。ハッと気がついたように、握られた手を急いで離しお見送りする。
藤代が出ていった所で恐る恐るカウンターに戻ると、額に手を当てて苦悶している千紘がいた。
「千紘さん……?」
「ごめん。ちょっと待って。違うんだ。ただ不審者が不快で、君が心配で」
「わ、分かってますよ。千紘さんが心配してああいう風に言ってくれてるの」
「本当?嫌じゃなかった?」
「はい。むしろ嬉しかったです」
恥ずかしかったけれど、心配してくれているのは分かるから嬉しい。そう伝えると本当に幸せそうに笑みを深めた。
「ん、良かった」
千紘の幸せそうな笑みを見てしまうと、胸の痛みはもう治まりそうにない。笑ってくれると幸せで嬉しくて、そして切なくて寂しい。複雑な心境だな……と考えながらも仕事をこなしていった。
送ってくれた千紘とマンション前で別れエントランスに入る。特に不審者の姿もなく息を吐く。そして鞄の中から袋を取り出した。集合ポストから溜まっていたチラシ類を取り出し、袋の中に無造作に入れていく。
帰ったら仕分けしないと……と重苦しいため息を吐いて、自分の部屋へと帰っていった。




