根の泉
揺れ動くガラス玉が上へ々々と向かっている。それはやがて境界に触れ、弾けるように消えた。
「落ち着いたな」
水面で弾ける気泡を見て、老人が言う。彼の胴程もある木の根の囲いに清水が溜まって泉となり、その底に少女が沈められている。朱落葉は触れることも出来ず、ただ囲いの縁を掴む手を強張らせるだけだ。
「見なさい」
老人の指し示す先に、木の根から続く幹があった。天井を突いて伸びているのか、先端は見えない。
「毒──」
老人はそこで言葉を切り、懇願するような瞳を向ける朱落葉を少しでも安心させようと努めた。
「──ではないな。この子の、そう汚れは、こいつが吸い上げてくれる。しかし、枝葉のカビを落とすようなものだ。根を治さずに救うことは出来ない」
「根」
思わず朱落葉が呟く。
「そうだ。どんな木も根があって葉を染める。調べるには根、そして土からだ。付いて来なさい」
老人が地上への階段に向かう。しかし朱落葉は動けなかった。
「早く」
老人が声を荒げる。
朱落葉には、自分がすべきことはわかっていた。しかし、もうこれ以上怖いことや辛いことに遭いたくはなかったのだ。老人に付いて行けば、より多くの未知に触れることになる。そこで自分が何か過ちを犯せば、取り返しがつかない。彼女は段々と、抑えていた震えが足から上がってくることを感じた。
朱落葉が僅かに震えだしたのを見て、老人は出来るだけ穏やかにして言った。
「いいかカエデ。お前にはすべきことがある。そしてそれは、お前にしか出来ない」
「嫌だよ、絶対上手く行かない、そしたら、フウは」
瞳から雫が垂れるより、老人は早かった。目の前に迫った老人の大きな影に、思わず閉じられた朱落葉の瞼、その先端から細かな雫が散った。だが、恐れたものは来なかった。
老人が膝を着き、朱落葉の肩を掴む。しかし、掛けるべき言葉は遂に出てこない。
階段を上り、遠ざかる足音。瞼を開くと、そこに老人の姿はなかった。ただ上へ々々と行く足音だけがが響く。
朱落葉はもう一度、泉に浸かる親しい友を覗きこんだ。小さな気泡が鼻から漏れ、瞼は固く閉じられている。そして、木肌のように荒くくすんでいる顔。
──フウ。
心でそう呟き、朱落葉は老人を追って階段を上った。
──やれやれ、そう時は多くない。
暗く、静けさに沈む地下室。その階段を、二対の瞳が降りる。それは一通り周囲を見回した後、気泡の弾ける音に引き寄せられていった。
──やはり。
泉の淵に飛び乗り、二対の瞳が呟く。水そのものか、それともこの木の根か。薄っすらと発光する泉、その波紋の下に少女が沈んでいる。その顔に見覚えはないが、水を越えて伝わる香りは記憶と繋がっていた。
泉に照らされ、毛むくじゃらの姿を浮き上がらせた獣が、毛ばたきのような尻尾を水面に垂らす。すると、少女が瞼を開き、獣を見た。
──か弱き者よ、安らぐ時に覚めるな。眠るがいい。
それに答えるかのように、瞼は緩やかに閉じられた。
根の泉─おわり




