柑橘の香り
夜道に明かりが揺れている。それはとても小さく、月明かりの下に出てみてれば自転車であった。
軋む自転車を走らせながら、老人は自分の息が白く凍るのを見た。気温は急激に下がりつつあり、頭上の小天体に見事な月光環が掛っていることからして、大気は湿っていた。
道の先に、石造りの塔が見える。それは老人にとって我が家で、しかし出た時といささか違って見えた。消した筈の灯りが格子窓から漏れ、照らされた垣根には何かが突っ込んでいる。
息を荒げながら自転車を加速させると、次第に詳細を露わにする黒い突入物が三輪車だとわかった。それも見慣れたもので、とても利発な少女のものだ。
玄関先に自転車を停めた老人は、簡単に調べてみようと三輪車に近付いた。垣根の枝の傷が細かく塗装を削っていたが、やはり思った通り、知ったオート三輪だ。試しに触ってみると、シートは冷たかったが機関部はまだ熱を残している。老人はそのまま短い階段を飛び越え、玄関扉を開けた。一瞬、木か何かの生臭さが鼻を突く。
「風見鶏さん」
突然開いた扉に朱落葉が声を上げる。しかし名を呼ばれた老人は、玄関先から動くことが出来ない。
懇願するように見つめる朱い髪の少女。その傍らに、つい昨日言葉を交わした少女──確か桑芥子といった──が横たわっている。白い髪は暗緑色に染まって輝きを失い、芥子色の肌は暖かさを欠いて木肌のようにくすんでいた。それが何を指しているか、老人にはよくわかった。彼女は明らかに、死と接触している。
「馬鹿な」
老人が朱落葉へ歩み寄る。
「あれ程触れるなと言った」
「違う。フウじゃない」
声を荒げる老人に、朱落葉はどうしても言わなければならなかった。禁を破ったのは自分であり、その愚かさの為に、友人は生命を失いつつある。その消え入りそうな声に、老人は少女の瞳を睨みつけた。
「お前は確か、朱落葉といったな」
頷く朱落葉。その涙滴のような瞳の中で葉紋が震え、温かな滴が漏れた。それは堪え難い責めを受ける心の出血で、すでに幾つもの涸れ川を頬に残している。
果たしてこの少女はどれくらいの時間、こうしていたのだろうか。辺り一面木々の抜け殻に覆われた地で、他に頼るべきものもなく。
「大丈夫」
朱落葉の頭に手を置き、老人は瞼を閉じた。今すべきことについて考えなければならない。彼女がもし死に触れたのであれば、また触れてから既に幾時間失っているのであれば、迷っている暇はなかった。
老人は再び瞼を開き、桑芥子の傍らに膝を着いた。口から吹き出したのか、緑掛った泡が乾いてこべり付き、唇は暗い。浅い息が胸を膨らませ、肺を鳴らす。溺れているのだ。
「服を脱がせなさい」
朱落葉は思いもしない言葉に驚き、目を瞬いた。老人が声を荒げ、続ける。
「急いで。泉に浸からせなければ、そう長くは持たない」
──長くは持たない。その言葉に朱落葉は強く頷いた。
彼女が桑芥子の服を脱がせる間、老人は床板の筋に手を這わせ、探り出した取っ手を引き上げた。そこには地下室への階段があり、しかし暗い。老人はランタンを探して壁際の棚を漁り、その散乱ぶりに苛立って唸りを上げた。そこでランタンを自転車に下げたままであることを思い出し、情けなさを抱えながら玄関へ走る。
勢いよく扉を押し開いた老人は、再び階段を飛び降り、自転車のハンドルに掛けられたランタンを取り外した。そうして、淡い柑橘の香りが漂うのに気付いた。
──この辺りに柑橘の木なんてあったろうか?
判然としないまま老人が振り返ると、開け放たれた玄関に座る、小さな黒い影があった。
「なんだ貴様は」
老人は焦りに助けられて階段を飛び上がり、影を見降ろした。逆光から不確かだった姿も、背に受けた灯りから毛むくじゃらの獣──それにしてはいささか黄色に過ぎたが──であることがわかった。しかし、獣ごときに構ってはいられない。老人は朱落葉の元へ戻り、桑芥子の体を確かめた。
木肌のくすみは、もはや全身に浮き出つつある。彼はそのまま、肺を鳴らす少女を抱き抱え、朱落葉にランタンを渡した。
「カエデ、それで先を照らしてくれるか」
朱落葉が頷く。そうする他ないのだ。彼女はランタンを掲げて階段を下り、老人──その手に抱えられた親しい友──を返り見た。自らの愚かさと、それを代償する者への悔いが彼女の歯を震わせていた。多くの場合、この種の異なる責めは、固く結合して巨大な結晶となり、心を押し潰そうとする。
「大丈夫」
まるで呪いのように、老人が言った。
その背中を、二対の瞳が鋭く見つめている。
──貴様とは無礼な。
地下へ消える背中に、二対の瞳が呟く。立てた爪が、音を発てて壁に筋を残した。
柑橘の香り─おわり




