第00話 美しき侵略者
プロローグです。
皇室付の典礼係は、人生最大の危機を感じていた。
(私は今日、生きて帰れないかもしれぬ)
ただの誘導である。
舞踏会の招待客を、待機室から大広間へ、順番に連れていく。
今まで何百回とこなしてきた仕事だ。
それが今、どうしてこんなに恐ろしいのか。
理由はすぐそこにある。
特別控室に置かれていた、一組の男女。
まずは、少女を一瞥する。
(こんな美しい娘――見たことがない。どこの家の令嬢だ?)
シニヨンに結んだストロベリーブロンドの髪。
意思の強そうな太めの眉が。
琥珀色の瞳の印象を、不思議なほど真っ直ぐに見せていた。
夢見るような柔らかな口元。
令嬢でありながら、社交の場で眼鏡をかけている。
それは少女の美しさを損なうどころか、花の精のような清冽さを引き立てていた。
そして、彼女の一歩後ろに立つ青年。
貴公子のような美丈夫。
黒い髪、黒い瞳。
ナイフで切り出したような鋭いまなざし。
明らかに帝国人ではない――遠い東方大陸のルーツを思わせる風貌。
野生の狼をフロックコートで拘束しているような圧力。
(東方人などが、どうしてこの皇宮舞踏会に――?)
少女が纏うイブニングドレス。
純白のベルラインに、東方大陸の聖獣『白虎』の刺繍。
青年が纏うフロックコート。
漆黒の生地に、東方大陸の霊獣『青龍』の刺繍。
(これは、なんだ)
理解不能の特異点。
他の貴族たちから隔離されるように置かれていた、この二人。
それを見た時、典礼係の本能が警告していた。
(舞踏会場へ連れて行って、本当にいいのか?)
――この二人の入場が、帝国社交界の終わりの始まりになる。
典礼係は悪い予感を噛み殺し、令嬢に呼びかける。
「エミルウ=スキャルファ様」
「はい」
眼鏡の令嬢が答える。
清らかな声。
小さな笑顔。
表情が、ほんの少し遅い。
まだ社交慣れしていないのか。
というよりも、まるで――
『妖精が人間の真似事をしている』ような。
「シシトラ=リュウノス様」
「はい」
意志の塊のような声色。
着こなしも所作も、帝国の流儀にかなった洗練の極み。
なのにこの青年は、まったく別の世界の理屈で立っているように見える。
「お二人の順番です。こちらへ――」
エミルウ、と呼ばれた少女のドレスの裾が、廊下の赤い絨毯を撫ぜる。
『白虎』の刺繍が揺れて、猛々しくも美しい残像をあとに置いていく。
シシトラ、と呼ばれた東方の青年が、歩みを進める。
フロックコートに縫い込められた『青龍』の刺繍が、ぬるり、と泳ぐ。
美しい令嬢と、美しい異邦の男。
その二人を先導しているはずなのに。
典礼係は、悪魔と猛獣を背にしているような恐怖を感じていた。
「エミルウ」
青年が少女に呼びかける。
「はい、シシトラ様」
エミルウが、彼の瞳を見返す。
「ついに、ここまで来た」
二人が立ち止まる。
空気が止まる。
「はい。もう、逃がしません」
エミルウの瞳が潤んで揺れている。
それを優しく見つめるシシトラ。
エミルウの瞳の琥珀色の輝きが、シシトラの黒曜石の瞳に吸われていく。
いつのまにか、二人は手を固く握り合っていた。
しかも――手袋を脱いだ、素手で。
シシトラの左手が、エミルウの右手を慈しむように包む。
エミルウの指が、シシトラの指を捕らえる。
互いの体温を確かめ合うように、手と手が固く結び合う。
それを見た典礼係は、愕然とした。
(信じられない。人前で――紳士淑女のすることではない)
皇宮機構の精密な歯車であるはずの彼が、激しく動揺していた。
家格。
序列。
入場順。
制度。
力。
数。
そんな枠組みから、この二人ははみ出している。
生命そのもの。
美しき異分子。
「やるぞ。君の未来を奪ってきた帝国を――今夜、撃ち堕とす」
典礼係は、シシトラの言葉に戦慄した。
(舞踏会は。いや、帝国は、この二人に侵略される――)
大舞踏会場に、エミルウとシシトラの姿が現れた。
輝くシャンデリアの下、貴族たちは完璧な姿勢で会話している。
紳士淑女の視線が、二人を刺すように集中する。
植民地総督。
頭取。
将軍。
大株主。
令嬢。
女性運動家。
貴族。
富商。
議員。
帝国の星座を構成する星々。
音楽。
笑い声。
みんな、どこか遠い。
エミルウは見た。
演壇の上に――男爵令嬢オリンゼがいる。
指で丁寧に巻いたような、プラチナブロンドの巻き髪。
美容教本の処方通りのメイク。
社交界で製造された、完璧な美。
そのオリンゼが、眼鏡の令嬢エミルウの姿を認め、驚愕している。
「エミルウ! どうしてここに!」
エミルウの眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が光った。
(ついにここまで来たわ。オリンゼ。あなたに奪われたものを、返してもらうわよ)
私の作品を。
私の名前を。
『誰のものでもなかったはずの人生』を――。
そう。
すべては、あの『屋根裏部屋』から始まった――。




