外伝 性悪女と小悪党
彼女は潮風香る港町でやや遅めの朝の日差しを浴びると、辟易としていた。秋空の日差しは柔らかく、風は湿気を含んで心地良い。にもかかわらず苛立ちを隠せないのには訳があった。そう、好き嫌いである。
後のプレイヤー名“ブラックウィドウ”こと黒川琴子には、嫌いなものが4つもある。
1つ目はピーマン。彼女が思うに、食べ物とは美味しいから食べるのであって、何故に苦い野菜を食べなければならないのか理解に苦しむ。
2つ目は焼き魚。彼女が思うに、食べ物とは食べられる状態にしてから出す物であって、何故に苦労して身を取り出さなければならないのか理解に苦しむ。
3つ目は賑やかに人生を満喫している奴等。別に満喫するのは構わない。だが、それは家の中の隅っこでするべきだ。間違っても他の人間に向かって自慢するように騒ぎ立てる物ではない。
例えば、今琴子の視界の片隅に鎮座する連中である。
「ふーんふーんふふーん」
「兄さん、人前で鼻歌は止めてよ」
「そうか? なかなかうまく歌えたと思ったが……」
「そうじゃないよ!? 頭のかわいそうな人みたいに見えるし!?」
「失敬な!? 俺の髪は地毛だぞ!?」
「かわいそうってそっち!? ハゲの話じゃないよ!?」
「兄公、シン、うるさい」
如何にも今を楽しんでます、と言わんばかりの3人組が彼女の前の道を進んでいた。琴子は無意識の内にギリリと歯を噛み締め、内心であらん限りの罵声を浴びせかける。
だが、不思議なことに浴びせかけたのは彼女だけではなかったのである。
彼女の後ろを歩んでいた女が、3人組が道を曲がって視界から消えたのを良い事に、お腹を抱えて笑い出していたのだ。
それはもう、気持ちが良い程の爆笑だった。綺麗に着飾った洋服が乱れることも気にせず、両手でお腹を抱えて涙を零しながら笑っているのだ。
思わず同類かと思って振り向いた琴子は、またしても不機嫌になっていた。その礼儀知らずの女は琴子よりも年下で、にもかかわらず下品にならない程度に肌を露出した正統派の美少女だったのである。
4つ目だ。琴子の嫌いなものは美男美女である。顔が良いってだけで人生得してる奴らなのだ。苦労を重ねている彼女からすれば、理不尽だと因縁をつけても良いはずである。
琴子は自分を磨かないくせに、常に楽しようと露骨に男に媚びる。そんな彼女の天敵は、彼女の媚をパンダの愛想笑いに変える美の付く女なのだ。
だから自然と彼女を睨んだウィドウは、おもむろに目が合ったのだ。しかもその女はあろうことか、まるで琴子を蔑むかのような美しい態度のまま話しかけてきたのである。
「御機嫌よう。貴女も当選したの?」
そう言って少女はひらひらとチケットを示す。琴子は返事をせずに、代わりに小さく鼻を鳴らしていた。近づいてみればますます彼女の心に嫉妬が吹き荒れる。彼女は近くから見ても隙が無かったのだ。
「……あんたもなの?」
「えぇ。せっかくだから一緒に行きましょう?」
琴子の返事はつれなかった。
「嫌よっ! 一人で行きなさい!」
冗談ではない。あんな美少女と一緒にいたら、平凡極まりない彼女など良くて引き立て役、悪ければ美女と野獣の汚い方である。だから琴子は一瞥もせずに駆けだすと、適当な道を選んで突き進んでいた。
つい勢いで目的地を通り越して公園にまで駆け込んだ琴子は、そこで荒い息をついていた。元々彼女に人並み以上の体力は無い。まして秋とはいえ青空の下には太陽が輝いているのだ。彼女の顔を滝のような汗が流れ落ちていく。
喉が渇いていた。それも、とても。
呼吸を整えながら自動販売機を視線で探し、見つけた所でヒヤリと冷たい感触が彼女の頬に押し付けられる。
「ひょわっ!?」
「はい、どうぞ」
思わず琴子は変な声を出していた。なんということだろうか。ウィドウが振り切ったと思った相手は息一つ乱さず、悠々と持っていたペットボトルのミネラルウォーターを差し出したのである。とても良い笑顔だった。
そんな大っ嫌いな相手からの好意に対して琴子は――
「か、勝ったとは思わない事ね!」
虚勢を張りつつ素直に受け取って飲み干していた。
小悪党の彼女のプライドは、ミネラルウォーターよりも安いのである。
そんな彼女を見た女はますますニヤニヤ笑いを深くしていく。琴子は横目でそれを見て、猫のようだと思った。
「さ、次はトイレの番ね」
「何でよ!?」
涼しい顔した美少女は戸別流花と名乗ると、楚々とした佇まいからは想像もできないほど下世話な話を振っていた。
「だって琴子、汗で化粧が崩れて大変なことになってるわよ?」
「良いのよそんなこと! どうせ、綺麗にしたところで誰も見やしないわ!」
悲しいが事実であった。それを聞いた流花はさもありなんと頷くと、しかしながら琴子を引きずる様にトイレへと引っ張っていく。
「ちょっと、人の話を聞きなさいよ!?」
「あら、聞いたわよ? 良いって最初に言ったじゃない?」
「最初の2文字だけじゃねーの!? 残りは無視かよ!?」
「琴子、いくら公園とはいえ静かにしないと……。他の人の迷惑になるわ」
「アンタに言われたくねーわよ!?」
などと言いあっている内に、あっさりと琴子はトイレに引きずり込まれていた。動揺を隠し切れない琴子に対し、流花はテキパキとハンドバッグからいつも携帯している化粧用具を取り出し、琴子のぐずぐずになったそれを手際よく落としていく。
「良い? 琴子。美少女なら大抵のことは許されるのよ?」
「自分でそれ言うの!? くそっ! これだから顔が良い奴はッ!」
もはや反論も無駄だと悟った琴子は諦めて流花の思惑に付き合う事にしていた。なるほど偉そうなことを言うだけあって、流花は非常に手馴れているのだ。
彼女はくすくすと笑う。
「ふふっ。琴子、“美少女”っていうのはね、作るものなの」
「うるさい! そう言って私は何度も広告に騙されてきたんだ、もう騙されないわ!」
と言いつつ琴子は美容師のように手際良い流花の前で、大人しく丸まっているしかなかった。
戸別流花の家は、貧しくは無かった。閑静な郊外の一戸建てで、庭と愛犬が付いている。そしてなにより、
“あなた、もう止めてェッ!”
“うるさい黙れッ! 誰のせいで飯を食えてると思ってんだッッ!!!”
ピシャリと肉が肉を打つ音。平手ではない。父親の拳が幼い流花の目の前で、彼女の母親の顔を抉っていた。綺麗にソファに倒れ込んだ母に対し、父は馬乗りになって顔面を殴打していく。
子供の流花はその非現実的な光景を上手く理解できず、ただ、ジョッキーが馬を走らせるために鞭を使って引っ叩いているようだなと思っていた。
“流花! なんだその目は!? 父親に対して、なにか文句があるのかッ!?”
“あなた止めて! 私は良いから、流花にだけは手を出さないで!”
“うるせぇッ! 愚図は引っ込んでろ!”
子供の流花に巨人のような父親の拳が迫る。それは母親の血に汚れ、赤く染まっていた。
家庭内暴力。それが流花の生まれた環境である。彼女の家庭に金銭的な不自由は存在しなかったが、常に暴力が存在していた。
彼女にあらがう術は無い。だから、こうなったのは必然ともいえる。花は流れ着いた土地に順応して咲くように、彼女もまた環境に順応して咲き誇っていた。
“ふふ、お父さん。どうしたの?”
“おおっ! 流花か、お帰りなさい。学校はどうだった?”
流花が生まれて真っ先に身に付けたもの。それは媚である。子供ながらに男に媚びて甘えて、喜ばせる手段を学んだ彼女は瞬く間に父親の暴力を振るう対象ではなくなっていた。
年を重ねるごとにそれは洗練されていく。
“お父さん、今日は暑いから先に汗を流してくるね”
“おう。俺はこいつに食事の準備をさせてからにする”
中学生になった流花は驚くほど妖艶に育っていた。黒いスカートからは白く細長い脚が伸び、制服のリボンを立派な胸が押し上げている。色白の顔立ちからは赤い舌を覗かせ、化粧や服飾のセンスもハイレベル。なによりも娼婦のように艶然とした仕草を彼女は磨き上げたのである。そうならなければ、生きてはいけなかった。
椅子ではめっきりと老け込んだ母親がガラス玉のような瞳で虚空を見上げている。その瞳はしかし、流花を目にするや般若のような怒りに染まっていた。空虚さは即座に激しい憎悪と怨念に変わっていく。
流花はそれに対し何もしない。下手に触れれば父親が爆発することは分かり切っている。だから、何も言わない。
一時期暴力に耐えかねた母親が助けを求める様に流花に縋っていたこともあった。だが、それは悪手だった。流花が何かをしたところで暴力は止まず、むしろ逆に悪化するのである。
結果的に無視が最善なのだ。だから流花は何もせず、それゆえ見捨てられたと感じた母親は実の娘に対し恨みがましい視線を送ってくる。
流花は、父親の愛を勝ち取る代わりに母親の愛を捨て去ったのだ。
“あっ、お父さんもお風呂一緒に入る?”
“あぁ、なんたって今日は暑いからな!”
だが、母親の憎しみは娘に見捨てられたことだけではない。
“流花、こんなに立派に育って……”
“お父さん、恥ずかしいよ。……あ、そうだ。一つお願いがあったんだ”
“なんだい? パパに何でも言ってごらん? 可愛い娘の頼みは何だって聞いてあげよう”
暴力を振るわれてまで共に暮らす愛する男を、よりにもよって実の娘に奪われたのだ。母の愛した父はいつの間にか流花に操られ、彼女の言うがままになっている。彼は自らが作り上げた修羅場が、娘をとんでもない女に変えてしまったことに気付いていなかったのだ。
“えっとね、今度友達と遊園地に行くことになったんだけど、みんなブランド品を持ってるみたいなの”
“なんだそんなことか。可愛い娘をさらに可愛くするんだ、パパに任せなさい”
“やったぁ! お父さん大好き!”
流花はシャワーを父親に渡すと、そのまま抱き着くようにして男の体を洗っていく。その行為に嫌悪感は無い。むしろそれを通じてこの野獣を調教し、自身の命令に忠実なペットへと作り変えていくのである。
無論彼女はブランド品に興味は無い。本当にセンスの良い品を除いて換金し、その資金を健気に貯金しているのである。彼女は何よりも、平穏な暮らしが欲しかった。そう、誰にも邪魔されずにひっそりと生きていく自由が。
“うふ! 前に貰ったプレゼントはセンスが悪くて使えないから、助かるわ!”
ピクリと父親の肩が動いた。流花は当然気付かないふりを続け、ペットに命令を聞かせていく。
“ふん、所詮中学生に買える物などたかが知れている。パパが次元の違う品を見せてあげよう”
案の定、父親は美しい娘が男友達から貢ぎ物を受け取っていることに不快感を示していた。同時に流花がそれを貶すことで、自身の評価を上げるチャンスだとも認識し、怒鳴り散らす真似はしない。ただ全てが彼女の掌の上。
だから外からそれを聞いた母親は憎しみを募らせ、恨みを色濃くしていくのである。
美少女とは作り上げるもの。流花は間違いなく確信している。だからこそ、その為の努力を常に怠らない。歩く姿や座った姿。そういった日常の仕草一つ一つを丹念に計算し、より美麗な動きを追求していく。それだけが流花のたった一つの、そして最大の武器なのである。
意外なことに、学校での流花には取り巻きが多い。性別を問わず、彼女の周りには何時も多くの人間が集まっていた。彼女に競ってプレゼント送る下僕達。そんな彼女を性悪と罵る女達。そして、そんな流花の威光のお陰でどうにか平穏に暮らしていける弱者達。
彼女は弱い者に対してはとても優しかったのだ。彼女は敵の多さに自覚があり、それゆえ味方を作ることに余念がない。
流花に欠けている物はたった一つだけ。そう、友達である。
「……えっ、誰?」
流花の手によって作り上げた傑作を前に、琴子は思わず鏡を見て唸っていた。そこには流花ほどではないにしろ、十分に美を付けても良い少女が間抜け面を晒していたのである。
一方の流花はその反応に耐え切れず、内心で笑い転げていた。無論それを外に出すようなヘマはしない。
「わ、私なの!? これが……私……。嘘!? ……可愛い……誰? 可愛い……」
くっきりと二重にあったアーモンド形の瞳。間違いなく普段よりも色白の綺麗な肌。意識できないほどささやかに赤くなった頬。顔のパーツだけなら間違いなく琴子なのだが、全体として見ると完全に別人だった。今なら胸を張って流花の隣を歩けそうである。
「気に入ってもらえて光栄だわ」
「す……凄い……」
目を白黒させた琴子は、思わず流花の持っていた化粧用具をまじまじと眺める。
流花はその反応に気を良くしていた。琴子の反応はあまりにも予想通り過ぎたのだ。流花は初対面の相手には探りを入れて、少しずつその性質を調べてそれに合わせいく。
だが、琴子にそれは必要ない。あまりにも平凡な彼女は、流花の期待を裏切らなかったのだ。それどころかリアクションがあまりにも予想通り過ぎて、逆に予想を超えるという有様だった。流花にとっては初めて見る人種である。
「る、流花! これ、ちょっと貸して! 自分でやってみる!」
「もちろん! 好きに使ってね」
さっきまで露骨に向けていた敵意をあっさり引っ込めた琴子は、まるで10年来の友人のように流花を扱う。確かに流花も歳も近そうだしお近づきになろうとは思ったが、ここまで近づけるとは思わなかった。
喜び勇んで化粧を進める琴子を横目に流花は思う。
琴子は他の何よりも正確な衆愚なのである。それは驚くべきことなのだ。彼女は知っている。本当に全ての能力が平均的な人間など存在しない。誰だって多かれ少なかれ、人より得意な所と苦手な所を併せ持つ。
例えばコインを10回投げたとしよう。もっとも平均的な結果とは何か。表と裏が交互に出る事か。違う。直感的に言えば表と裏が交互に出るのはいかにも平均的だが、確率的に言えば表と裏が交互に出るのも全部表が出るのも同じである。そう、大半は表か裏に偏るのだ。
琴子とは、その突き抜けた平凡さが特徴なのだ。平凡故に非凡。そんな彼女の性質に触れ、流花は感動すらしていた。
琴子の感想は世の中の大半の人間の感想と同じなのである。琴子の喜びは皆の喜びで、琴子の怒りは皆の怒り。彼女の平穏は流花の平穏であり、彼女の安らぎも流花の安らぎなのだ。
流花が夢見た普通の生活。その体現者が琴子なのである。
だから、思わず物思いに耽っていた流花は見逃していた。琴子が当然のようにやらかしたのだ
「どうかな!? 流花!? なかなか良くできたわ! 我ながら、自分の才能が怖い!」
「あっ……」
そこには何故かパンダが居た。流花が芸術的なまでのセンスを発揮して作り上げた絶妙のバランスなど存在しない。例えるなら名画に子供がクレヨンで落書きしたかのような、ただの厚化粧だった。
「これなら一緒に歩いてもおかしくないわ! さ、行きましょ流花!」
「待って……」
「駄目よ? なにしろ、もう時間が無いわ!」
先ほどとは対照的に、琴子が流花を引っ張って行く。タイムリミットが迫っていた。このままではせっかくの幸運が無駄になってしまうかもしれないのだ。
流花は悩んだ。だが少しだけだ。彼女はおもむろに化粧品に手を伸ばすと、思い切り自分の顔に塗りたくっていく。それを琴子は呆気に取られて眺めるしかなかった。
清楚さを演出するための薄化粧をあっさりと放棄して、代わりにピエロのように濃ゆい化粧を施していく。
「ちょ、ちょっと流花!? 何してんのよ!?」
「ちょっと待ってね。直ぐに終わるわ」
あわあわと我が事のように取り乱す琴子に微笑みながら、流花の手は止まらない。
「これで良し。さ、行きましょう琴子」
「良いの!? それ、人前に出て良いの!?」
良くは無い。滑稽なまでの厚化粧に普段の流花なら間違いなく外に出ないだろう。でも、これなら琴子の隣を、彼女に不愉快な思いをさせずに歩けるのだ。コスプレと思えば厚化粧も悪くは無い。
流花は久しぶりに思ったのだ。この子と友達になりたいと。
そのまま流花は琴子の手を引いて外に出ると、再び直射日光の下を進んで行く。
「そう言えば、琴子はプレイヤー名決めたの?」
「もっちろん! “黒の貴婦人”よっ! “ウィドウ”も捨てがたかったけど、やっぱりこっちね!」
堂々と胸を張って言う琴子。確かに彼女の服は黒を基調しているように見えなくもない。だが厚化粧は不自然なまでの白さを強調しており、とてもじゃないが黒とは言えなかった。流花は気が付けばジト目でそれを眺めてしまう。
「流花はどうなのよ?」
「私? 私は“ヘルキャット”よ。向こうでもよろしくね。それより、黒は止めた方が良いわ。単に“貴婦人”とか“ウィドウ”で良いんじゃないかしら?」
と言いつつ、流花はさりげなく琴子の思考をウィドウの方に誘導していく。今の琴子はどうみても貴婦人ではない。元々流花の施した化粧が可愛さを優先したのもあって、ミスマッチが凄い。精々がパンダである。
単純な琴子はあっさりと引っ掛かり、同時に流花の度肝を抜く。
「そうかしら……決めたわ! 私の名前、“ブラックウィドウ”にする!」
「えっ」
流花は勘違いしていたのだ。琴子が黒に拘っていたのは服装ではなく、自身の苗字に由来しているのである。
ブラックウィドウ。それは戦闘機の愛称であるのと同時に、黒後家蜘蛛を意味する英単語である。残念なことに貴婦人的な要素は無くなっており、流花はもう、込み上げる困惑と笑いを隠すのに必死だった。
だが、悪い気分ではない。
完結まで、あと10話




