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奈落の女王  作者: なりちかてる
8/17

—07—

「貴方とお会いするのはこれで二度目ですが、二度とも驚かせてしまいましたね」

「……いえ」

 貴子たかこのことばに、理香りかは首を横に振った。

 理香たちはベンチに、場所を移していた。遠くに噴水が見え、目の前を散歩用の道が横切っていた。あちらこちらの芝生の上では人々が横になったり、十人ほどの人を集めて演説をしていたり、またはスポーツみたいなことをしているのだろうか、グループを作って走りまわったりしていた。

 理香はそれらから視線をそらし、隣に座っている貴子を見た。

「あたしをここに呼んだのは、あなたなのですか」

「はい」

 貴子はしっかりとした声で、理香の問いに答えた。

「ここは……どこなんですか? どうやら、地球ではないみたいですが」

「ここは——幻夢郷げんむきょうです」

 貴子は耳にしたことのないことばを、口にした。

「幻夢郷?」

 それに、貴子はうなずいた。

「幻夢境は夢を見ることによって到達することができる別世界です。ここでは貴方がたの世界と異なり、精神の強さが重要な意味を持ちます。いえ、精神力がすべて、と言うことができるのかもしれません」

 精神力が重要な意味を持つ、ということは理香にもよくわかった。この幻夢郷がまともな世界なら、理香のからだは地面に叩きつけられて、立ち上がることすらできなかったはずだった。

「夢を見ることによってここに来ることができる、ということはもしかして、あたしは——」

「はい」

 と、貴子が言った。「理香さん。貴方の肉体は、ベッドの上にあるはずです」

「ふーん」

 理香はちょっと、自分のからだがベッドで眠っているところを想像してみて、苦笑した。

「何だか奇妙な気分。あたしのからだはずっと遠く離れたところにあるのに、意識だけが飛んで、貴子さんと話をしているだなんて」

「最初は誰でも、そうですよ」

 それから理香は大きく、息を吸った。拳をぎゅっと握る。

「ね、貴子さん」

 声の調子を変えた。低いものにする。

「……はい」

「あなたは一体、何者? あたしの敵? それとも——味方?」

 理香は正面を向いたまま言った。貴子の顔を見るのが恐い。

 それに貴子は、すぐには答えなかった。頭をおさえつけられるような息苦しい沈黙に、理香は落ちつかない気分になった。

 さっき貴子が、ここは幻夢郷で理香のからだはベッドの上で眠っていると言った時、彼女の頭のなかにあることがひらめいた。

 それは、可南子かなこだった。ガラスの小瓶に閉じこめられた、可南子の魂。

 たしかに貴子は石について、注意してくれた。けどそれはもしかすると、味方のふりをして近づいてくるためだったのかもしれない。彼女が今、こうして理香を幻夢郷に呼びよせたのだって、亜弓あゆみが可南子にしたように、肉体と魂を切りはなすのが目的だったのかもしれない。

 ——それなら……。

 と、理香は声に出さずに、つぶやいた。

 ——いや。それでもいい。

 もし貴子が亜弓の味方なら、理香にはもう、どうすることもできない。

 そりゃ、可南子に何もしてあげられないのはくやしいし、魂だけになってしまった理香がこれからどうなってしまうのか、それを考えるとめまいがしてくる。だけど、こればかりはどうしようもなかった。

「そう——貴方に信じていただけないのも、当然のことと思います。ですが、覚えていますか? 私が貴方の夢にはじめて、登場した時のことを」

「はじめて夢に、登場した時?」

 あれは——四日ほど前のことだ。サイクリング・ロードで可南子と話しあった次の日、自分の部屋でうとうとした時に見た夢のなかに、貴子は出てきたのだった。

「それが、どうかしたのですか」

「——あの時」

 と、貴子は言った。「私は理香さん、貴方に申したはずです。亜弓に石——輝けるトラペゾヘドロンを渡してはならないと」

「で、でも……あなたは亜弓さんの妹なんでしょう。それなら、どうして」

 理香がそう言うと、貴子は一度、目を閉ざした。

「では、こう考えてみて下さい。例えば——貴方のご両親やお友達、クラスメートなどが犯罪に手を染めかけているのを、知ったとします。理香さんなら、どう致しますか。貴方もその犯罪に加担しますか。それとも……」

 貴子が理香の顔を見た。「止めようとしますか」

 理香は大きく、息をした。頭を下に向けたまま、顔をあげられなくなってしまった。

「あ……あの……すみません」

 声が小さくなった。

「——いいんです」

 明るく、貴子が言った。

「理香さんがそう思われるのも、無理からぬことでしょうから。ですが、どうか信じて下さい。私は本気で、亜弓のことを止めたいと思っておりますし、止めなければならないのです」

「亜弓さんは……彼女は、何をしようとしているのですか」

「亜弓が望んでいることは——世界の滅び、です」

「……滅び」

 口にしてみても、それがどういうことなのか、理香にはさっぱりわからなかった。

「亜弓は輝けるトラペゾヘドロンを使って門をつくり、シュブ=ニグラスを招来しようとしているのです」

「シュブ=ニグラス?」

 ——その名は以前、貴子が理香の夢に出てきた時に、聞いたことがあった。

「千匹のはらみし森の黒山羊とも称される、ムー大陸の時代からされてきた、暗黒の豊穣ほうじょうの女神です」

「暗黒の豊饒の女神? 暗黒の豊饒の女神って、何なのです」

 理香がそう聞くと、貴子は表情を引き締めたものにした。それからゆっくりと、彼女は語りはじめた。

「シュブ=ニグラスとは、異形いぎょうの神々の一柱です。その首魁しゅかい、万物の魔王アザトースは宇宙そのものと同じくらい古く、この世界を創造したのもアザトースとされております。……異形の神々は人間と完全に異質な存在で強大な力を持っておりますが、全知全能の神とも、そして悪魔とも異なっております。そもそもアザトースには知性がなく、邪悪などという概念は異形の神々の前にあっては、吹き飛んでしまうものでしかないのですから」

 理香は貴子がしゃべった内容の十分の一も、理解することができなかった。異形の神々? アザトース? 知性なき魔王? 何も……頭のなかに入ってこなかった。

 ——しかし。

 わかりはしなかったけど、理香はそれを現実離れしているとは思わなかった。理香はもうすでに、亜弓が人の生気を吸って若返るところや、可南子の魂を切り離して小瓶のなかに捕らえているところを、見てしまっているのだから。

「で、でも」

 理香は息を整えた。深呼吸をする。

「それなら——あたしは、どうしたらいいのですか」

 貴子が口にしているのはどれも絶望的なことばかりで、まるで理香に逆らっても無駄なのだからあきらめろ、と告げているみたいだった。

「シュブ=ニグラスが一度、召喚されてしまえば、もう誰にもどうすることもできません。できるのはただ黙って、滅びの時を待つだけになってしまうでしょう。ですから、何としてでもシュブ=ニグラスが召喚されるのは阻止そししなければならないのです」

 どうやって、と理香が尋ねようとすると、貴子が微笑みかけてきた。

「これまでは理香さん、貴方おひとりで亜弓と対決しなければなりませんでしたが、これからは違います」

「これからは、違う?」

「はい。近いうちに貴方の前に、支援者が現れるはずです」

「支援者——貴子さんは、助けてくれないのですか」

 理香がそう聞くと、貴子はほんのちょっと、顔をうつむかせた。

「残念ながら現段階では、私は覚醒かくせいの世界に影響を及ぼすことができないのです」

 覚醒の世界とはたぶん、現実の世界のことを言っているのだろう。

 でも——貴子のことばを聞いて、理香はがっかりしてしまった。貴子が助けてくれるのならとても、心強い。だけど、彼女には彼女なりの理由というものがあるらしい。

 しかし、支援者と言われても相手がどういう人間なのかわからないし、顔も知らないのでは見分けようがない。

 そのことを口にしようとすると——公園の向こうから、悲鳴のようなものが聞こえてきた。

 理香は思わずベンチから、立ちあがった。悲鳴の聞こえたほうを見る。

 公園にいた人たちが皆、こちらへと駆けてきていた。それは、どこにこんな数の人間が公園にいたのだろうというくらいで、まばらだった人々はあっという間に集まり、大きな流れとなっていった。

 その群衆とすれ違う時、理香はいくつもの声を耳にした。理香は彼らが何をしゃべっているのか、正確に聞き取ることはできなかったのだけど、ただ「ティンダロスの猟犬りょうけん」ということばをくり返し、口にしていることだけはわかった。

「ティンダロスの猟犬?」

 理香はつぶやき、貴子を見おろした。

 ——何が起こっているのかわからないけど、に、逃げなくてもいいのかな。

 理香はそう思ったのだけど、貴子がじっとベンチに座り続けているので、彼女をひとり置いて逃げるわけにはいかなかった。

「——どうやら」

 と、貴子が言った。「亜弓に、気づかれてしまったようです」

「え!?」

 亜弓の名前が出て、理香は凍りついたみたいになってしまった。息が苦しくなる。右手で左の手首を、ぎゅっと握った。

「そ、それって——どういうこと、なんですか」

 貴子がベンチから、理香を見上げた。

「夢を通して私が理香さんと接触していることを知り、刺客しかくを差し向けてきたようです」

「し……刺客?」

「はい」

 そう言うと貴子は理香のほうを向いて、前に立った。

 と、理香は貴子の肩ごしに、それを見た。理香たちのいるベンチから、それほど離れていないところだ。

 それは奇妙な生物だった。生物——といっても、それが本当の意味での生物なのかどうか、理香には判断がつかなかった。

 四つ足で頭部と胴体、それに尻尾があるのだけど、どれもらしきもので、犬にはまったく似ていなかった。歩くたびにその体から青白い色をしたものが落ち、公園の草と地面を溶かしていった。

「ですが、ご心配なく。伝えるべきことはすべて、貴方に伝えましたから。私の役目は、これで終わりです」

「あ……あの」

 少しずつ近づいてくる怪物に気づいていないのだろうか、貴子は理香に顔を向けたまま、しゃべり続けていた。

 と、貴子が微笑した。

「お忘れですか? ここは幻夢郷。精神力が、すべてを決する世界なのです」

 夢の世界なら殺されても死ぬことはないし、強い意志があるのなら相手が怪物であっても、恐れることはない——。

 貴子はきっと、そういうことを言っているのだろうけど、怪物を実際に目にしてしまったのでは、そんなことも考えられなくなってしまう。

「お戻りなさい!」

 いきなり、貴子が大きな声をだした。

「亜弓がここに刺客を差し向けてきたということは理香さん、貴方の身も危ないかもしれません」

「あ——あたしの身?」

「貴方の肉体が、です」

 貴子が言い直した。

 理香は貴子の背後を見た。ティンダロスの猟犬という名の怪物はもう、すぐそばまで迫っていた。前脚だけで引きずるようにして歩き、顎を大きく開いた。尻尾が地面に叩きつけられた。

「「戻るのです」」

 貴子の声が突然、聞き取りづらくなった。エコーがかかっているように、何重にも重なって聞こえた。

「お戻りなさい」

「貴方の肉体へ」

「今すぐ」

「戻るのです」

「私でしたら、ご心配には及びません」

「貴方の肉体が、です」

「亜弓がここに刺客を差し向けてきたということは——」

「戻るのです」

「お戻りなさい」

「ご心配には及びません」

「戻りなさい」

「理香さん、貴方の身も危ないのかもしれません」

「今すぐ」

「貴方の肉体が、です」

「お戻りなさい」

「戻るのです」

「戻る——」

「もど……」

 貴子が足をあげた。地面を踏みしめる。

 と、同時に理香は首の後ろをつかまれた。からだが浮かび上がる。

 ティンダロスの猟犬が尻尾を振り上げた。その槍のようにとがった先が背中から、貴子を串刺しにした。

 ——あ!

 理香は悲鳴をあげそうになった。が、その時にはもう、理香のからだは空から公園に降りてきたのより遥かに速いスピードで、大地から離れていた。公園が街の一部になり、森は山脈の影に入り、大陸はまたたく間に宇宙の闇のなかへと消えていった。

 そして——。

 理香は目をさました。

 そこは、理香の部屋だった。彼女はベッドの上で横になっており、天井を見つめていた。風が頬をなでていく。

 ——風?

 理香は上半身を起こした。窓を振り返る。そこで理香は、息を止めた。

 閉め切ったはずの窓のところに、何かがいた。黒い姿をした、何かだ。月の光が降り注ぎ、銀色の線がそのりんかくを、縁取っている。

 それは人の姿をしているけれど、人間ではなかった。背中にコウモリのような翼があり、手と足にはそれぞれ、鋭い爪が生えていた。そして、顔があるべきところには——何もなかった。目も鼻も、口すらもなかった。

 その怪物が、理香の部屋に入ってきた。足もとで割れたガラスがパリパリと音をたて、床の上を悪魔のようなとげのある尻尾がのたくった。

 理香はベッドから立ち上がった。怪物に背を向け、部屋を横切っていった。ドアにからだをぶつけた。夢中で、開けようとする。

 が、ドアは開かなかった。引いても押しても、まるでドアの向こうに誰かがいて、理香の邪魔をしているみたいだった。がたがた音がするだけで、開かない。

 ——そんな……どうして!

 目の前が真っ暗になりながらも、理香は必死にドアを開けようとした。

 その時、理香はあることに気づいた。ドアノブを回して引くと、あっさりとドアは開いた。廊下がのぞく。

 自分のまぬけさを呪っている時間はなかった。泣きそうになりながら二階の廊下めざして、走りだそうとした。

 が、そうする前に肩をつかまれてしまった。後ろに引っ張られる。

 理香は悲鳴をあげた。怪物から逃げようと、手足をめちゃくちゃに振り回すのだけど、無駄だった。窓のほうへぐいぐいと、引きずられていった。

 理香は窓わくに、顔を押しつけられた。ガラスの破片で足の裏を切り、血がにじむのがわかる。が、そんなことよりも理香は下のアスファルトまでの高さに、息をのんだ。バタバタと、背中でカーテンが音をたてている。

 下までは三メートル程度しかないのに、足がしっかりと立たなくなるくらい、恐かった。当たり前の話なのだけど、幻夢郷で空のずっと上から降りてくるのとでは、まったく違う。ここから落ちて、アスファルトに叩きつけられたら良くて骨折、悪くすれば死んでしまうだろうことは、簡単に想像できた。

 と、理香のからだが持ち上げられた。何かにつかまる暇もなく、二階の窓から放り投げられた。理香は悲鳴をあげた。ものすごい勢いで、地上が迫ってくる。アスファルトの黒い部分が急速に視界いっぱいまで広がった。

 ——ぶつかる!

 理香は目を閉ざした。


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