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奈落の女王  作者: なりちかてる
6/17

—05—

 翌日、重い気分のまま、理香りかは学校へと向かった。教室に着くと、自分の机のいすを引いた。黙ってスリーウェイ・バッグから、教科書やノートを取り出す。

 ――星形の印と、紅の瞳。

 理香の手が止まった。

 もう、あの石のことは考えたくなかった。できれば忘れたいし、思い出さないようにしている――それなのに突然、あの石のなかに見えたものがはっきりと、視界に浮かび上がってくる。

 どうして、あんなことをしてしまったんだろう。あのまま中身を確かめてからすぐ、封筒にしまっておけば、こんな目に合わないですんだはずだった。

 理香は大きく、ため息をついた。

「あー、大きなため息ぃ」

 後ろからいきなり、声をかけられた。理香はびっくりして、いすから立ち上がってしまった。

「……なんだ、可南子かなこか」

 彼女のすぐ横までやって来た可南子を見上げて、理香はそう言った。

 なんだはないでしょーが、と言って可南子は理香の前の席のいすを引いた。

「でも、今日はあくびじゃないんだね」

「う――うん」

 昨日は――眠れなかった。あんなことがあったのだ、眠れるはずがない。

 さんざんなものになってしまった夕食をとった後、理香は明かりをつけたまま、ベッドについたのだけど、それは何の効き目もなかった。夜中に何度も目をさまし、とうとう横になるのが恐くなってしまった。

 今は――どちらかと言うと、徹夜明けみたいなもので、精神がハイになっているので、あまり眠気が感じられなかった。

「ね、可南子」

「ん?」

「昨日の電話のことについて、なんだけど」

「電話?」

「そう。言ってたじゃない。飯岡いいおかさんの正体について、くわしいことがわかったって」

「飯岡さんって、誰?」

「え?!」

 理香は思わず、可南子の顔を見た。

「ちょ――やだぁ。可南子。何、言ってるのよ」と、可南子の肩を軽く、押した。

 そんなふうに言えば可南子はいつもの調子で、理香のことをからかっていたと、笑顔を浮かべてくれるとそう思っていた。けれど、可南子の反応は違っていた。

「理香。大丈夫?」

 と、理香の顔をのぞきこんできた。額に手を当てようとするので、理香はその手を振りはらい、立ち上がった。近くの席にいたクラスメートのところまで、歩いていった。

「ね、飯岡さんは今日、来ているの」

 そう聞いた。

「え。飯……岡さん? そんな人、このクラスにいたっけ」

 そのクラスメートは冗談を言っているような顔を、していなかった。

「何、言ってるのよ。飯岡亜弓あゆみさんよ。夏休み明けに転校してきた――」

 理香はクラスのみんながこちらを見ていることに、気づいた。

「知ってるんでしょう? どうして、だれも何も言ってくれないの」

 理香はそのクラスメートたちの顔を見回し、叫ぶようにして言った。

「理香!」

 と、理香は両方の肩を、可南子につかまれた。

「どうしたのよ、しっかりして」

 理香は首を横に振った。

 ――みんな、嘘をついている。あたしのこと、からかっているんだ。

 理香はそう思った。そうでなければこんなこと、起こるはずがない。

 理香は教室のなかを歩いていった。亜弓の机のところで足を止め、それを叩いた。

「この机は? 飯岡さんのものじゃなきゃ、誰のものなの」

「その机には、誰も座っていないよ」

 クラスの男子が言った。

「そうだよ。一学期からずっと、その席は空いてたじゃないか」

「う……嘘よ。どうしてみんな、そんなこと言うの?」

「嘘って、言われてもなぁ」

 教室のあちこちで、クラスメートたちは小声でつぶやきはじめた。

 ――ちょっと、どうしちゃったの、鈴木さん。

 ――あのおとなしい、鈴木さんがねぇ。

 ――勉強のしすぎで、どうかしちゃったんじゃねーの。

 理香は目を閉ざした。顔を下に向ける。

 どうしていいのか、彼女にはまったく、わからなかった。

 追い詰められたような気分になり、理香は右手で自分の手首をぎゅっとつかんだ。めまいを感じる。耳の奥から、どくんどくんと鼓動こどうの音が鳴るのが聞こえてきた。

「理香!」

「ちょ——鈴木さん!」

「おい! 誰か、先生を呼んで来い。鈴木が……倒れた!」

 ——倒れた? 誰……あたしが?

 めまいはどんどん、きついものになっていった。理香は目を開けていられなくなり、まぶたを閉ざした。すぐそこにある暗闇に理香は意識ごと、引きずりこまれていった……。


 目をさました時、理香は自分がどこにいるのか一瞬、わからなかった。

 ——ここは……。

 消毒液の臭いがする。鼻につく、その特有な臭いで、理香はここが保健室であることに気がついた。

 理香が横になっているベッドのまわりは白いカーテンで、仕切られていた。左手のカーテンが赤く染まっていて、その下のすきまから、夕方の日の光が入りこんでいた。

 理香は自分のからだにかけられていたタオルケットをめくると、ベッドに足をそろえた。腰をかけた形になる。後ろを見ると、壁のところに理香のベストとネクタイがきちんと、ハンガーにかけられていた。

 ワイシャツとスカート姿でいても、じっとりと汗ばむくらいだったので理香はしばらく、そのままでいることにした。

 ……教室で起きたことは、しっかりと覚えていた。自分が倒れたことも、もちろん忘れていない。

 気を失って保健室に運ばれたのは中学生の時、朝の定期集会で貧血を起こした時以来だった。

 ——あの時はすぐ、教室に帰ることができたのだけど、今回はほとんどの授業をさぼることになってしまったらしい。

 今が何時なのか気になっているのだけど、時計を見るのが少し、恐かった。

 理香の感覚だと、四時か五時くらいだろうか。とすると八時間以上、眠っていたことになる。でも、昨日はまったく寝られなかったのだから、それは不思議でも何でもなかった。

 保健室の先生は、ここにはいないみたいだった。もしいたら、タオルケットをまくり上げる音などで、理香が目を覚ましたことに気づくはずだった。

 それから、理香はため息をつくと、飯岡亜弓について考えた。

 可南子やクラスメートは言っていた。飯岡亜弓なんて人は、クラスにいない、と。

 あの時のクラスメートの態度を思い出してみても、彼女たちが理香に嘘をついているとは、思えなかった。そのことはわかっているのだけど、理香にはどうしても、忘れられないことがあった。

 ……ずっと昔——理香が小学生の時、彼女はさっきと似たようなことをされていた。

 クラスメートから、今度の日曜日は特別授業があるから学校に来るようにと、言われたのだ。それに理香は、見事にだまされた。

 校門が開いていなかったことからして、おかしかったのだけど、理香がそれに気づいたのは、用務員の人に特別授業なんかないことを聞かされたからだった。

 翌日、理香が学校に行くと、昨日はどうしたの、とクラスメートに聞かれた。正直に、理香が休日に学校に行ったこと、用務員の人に聞かされるまで、特別授業なんかないことに気づかなかったことを話すと、クラスメートたちは笑い転げていた。そして、理香といつもいっしょに行動していたクラスの女子が言ったのだ。ほんと、軽い冗談だったのに鈴木さんって、考えもしないで頭から信じてしまうんだから、と。

 けど、そうではなかった。理香は最初から、自分がだまされていることを知っていた。

 ……よくある話だ。理香のクラスにもいじめはあって、彼女はいじめられっこではなかったけれど、何度かいやな目には、合わされていた。

 いじめとは、コイン当てゲームみたいなものだ。表裏を当てることができたら、ゲームの勝者になることができるけど、外れたらあっという間に立場が逆転してしまう。

 いじめをしていたグループのリーダーが翌日にはもう、無視されたり、見えないところで陰口を言われたりするのだ。いじめをかわすには、とにかく目立たないようにして、コイン当てをさせられないようにしなければならなかった。

 あの時、理香は日曜日に学校へ行っても行かなくても、いじめの標的になっていたのかもしれない。けれど、理香は自分でもちょっと鈍いところがあると思っていたので、だまされたふりをしてみたのだ。

 結果的にそれは、正解だったみたいだ。理香はいじめの標的に選ばれることなく、その後をすごすことができた。でも——だまされたふりをしていたのがばれていたらきっと、理香はいじめの標的になっていたにちがいなかった。

 理香は腕をあげた。ワイシャツの半袖のところで、目もとをちょっと乱暴にぬぐう。

 クラスメートから、飯岡さんなんて知らないと聞かされた時、理香はそのことを思い出してしまった。もちろん、それと今回のことはまったく関係ないのだろう。

 だけど——どういうことなのだろうか。亜弓がいなくなっただけでなく、誰も記憶していないなんてことが、あり得るのだろうか。そりゃ、理香にとって亜弓がいなくなってくれれば、これ以上悩まないですむのだろうけど、そんなに簡単なことではない気がした。

 と、保健室内の空気が動いた。風——が入ってきたのではない。誰かが、ドアを開けたのだろう。靴音が聞こえてきた。

 ノックをしなかったということは、先生なのだろうか。理香はベッドから、立ち上がりかけた。

 カーテンが引かれた。相手が入ってくる。

「あれ? 可南子」

 理香はそう、声をかけた。が、可南子はそれに答えなかった。ベッドのそばにあった背もたれのないパイプいすを取り、理香のななめ右に、腰を下ろした。理香は可南子につられて、ベッドに座りなおした。

 理香は、可南子に向かってもう一度、声をかけようと思ったけど、何となく、いつもの彼女と雰囲気が違うことに気づいた。

 可南子が顔をあげた。目が合った。

「保健医だったら、まだ来ないよ。来られないよう、細工をしていたからね」

 可南子が突然、言った。

 ——え?

「それって、どういう意味?」

 何だか話し方が、可南子じゃないみたいだった。別の人間が、話してるみたい。

「まったく、油断してしまったよ。ただの高校生に、ここまで迫られるとはね」

 可南子の高く澄んでいた声が少しずつ、低くなっていった。

「だ……だれ? あなた、だれなの?」

 と、可南子が——いや、外見は可南子だけど別の人物がにっこりと、どこかで見たことのあるような笑顔を浮かべた。

「誰だって? あんたにはわかるはずだよ。私が一体、誰なのかね」

 声は今ではもう、しわがれたおばあさんのようなものになってしまった。ひどく、聞き取りずらい。

「そんな——」

 理香はめまいを感じた。視界が暗くなる。が、さっきのように気絶はしなかった。そっちのほうがずっと、楽だと思ったけど、意識は保たれたままだった。

「可南子はどこ? どこにいるの」

「ここにいるよ」

 亜弓は——理香はもう、姿形は可南子だけれども、その中身は亜弓であることを、確信していた——ベストのポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。理香に小瓶がよく見えるように、突き出した。

 理香は目をこらした。

 ——小瓶のなかに、何かいる。

 何かが、動いていた。

 はじめ、理香はそれを虫だと思った。が、違った。小瓶に、顔を近づけた。

 理香は目を大きくした。息を吸い込む。

 ——それは、可南子だった。身長は親指の長さほどしかないけど、間違いなかった。小瓶のなかの可南子はふたりの間を仕切っているガラスを叩き、「理香……理香」と、消え入りそうな声で必死になって呼びかけていた。

 理香は小瓶に、腕をのばしかけた。が、その前に亜弓は可南子の入れられた小瓶を、ベストのポケットに戻してしまった。

 ……理香は亜弓を見た。可南子の顔をした亜弓が、笑みをつくっていた。

 息が急に、苦しくなった。理香はワイシャツの喉の部分に指を入れ、引きのばした。

 亜弓がいすから、立ち上がった。ベッドのそばを歩いていく。理香もあわてて立ち上がり、亜弓とベッドをはさんだ反対側へと走った。そんな理香のようすに、亜弓は歪んだ笑みを浮かべた。

「前にも言ったけど、あんたには危害を加えないよ」

 と、亜弓が言った。

「だけどねぇ。私にも時間というものがあるからね。だから、強行手段に訴えさせてもらったのさ」

「ど……どうして、こんなことを」

 鼻で——呼吸ができない。理香は口で、息をした。

「どうして? そんなの、決まってるじゃないか。あんたが石を渡さないからさ」

 亜弓がカーテンを引いた。午後の日の光が入ってくる。理香はまぶしさに、腕をあげた。目を細くする。

「もうすぐ、天秤宮てんびんきゅう宝瓶宮ほうべいきゅう双子宮ふたごきゅう風性宮ふうせいきゅうで惑星が、三分角の位置につく」

「え?」

 理香は聞き返した。

「それと同時に、その他の星々が重要な座相を描く。この時を逃せば、また五十年以上もの時を待たねばならなくなるからね。……私が言いたいのは、それだけさ。あんたには充分、考える時間を与えた。だろう」


 ——理香は脱力したように、ベッドに腰を下ろした。おしりの下でスプリングがきしみ、からだがはねたけど、彼女は手で支えようとしなかった。目をぎゅっと、きつく閉ざす。ゆっくりと息を吸い、それから吐き出した。

 何も……何も、考えられなかった。頭のなかが、まとまらない。

 亜弓はもう、保健室にいなかった。ここにいるのは、理香だけだった。

 ——本当に、あたしひとりになってしまった。

 可南子はもう、いない。理香の知っている可南子はもう、どこにもいなくなってしまった。これからどうするのかは、理香がひとりで考えなければならない。

 ——どうする? どうしたらいい?

 理香は彼女が捕らわれていた、あのガラスの小瓶のことを思った。あれを亜弓から取りあげて、可南子を小瓶から解放すればいいのだろうか。

 理香はずっと昔に読んだことのある物語を、思い出した。それでは悪い魔法使いがお姫さまの魂を魔法の壺に閉じこめ、かわりに肉体を動かしていたはずだった。

 ——あの物語の結末では、隣の国の王子が悪い魔法使いの肉体を見つけだし、魔法の壺からお姫さまの魂を助け出すことで、体を取りもどすことができたのだった。

 でも、あれがうまくいったのは物語だったからで、理香が同じようなことをしてもうまくいくとは、とても思えなかった。

 もし、亜弓から可南子の魂が入れられた小瓶を取りあげて——それがうまくいくかどうかは、わからないけど——何も変わらなかったら? 理香には可南子の魂をもとに体に戻してあげることなんて、できそうになかった。

 ——それなら、どうすれば……。

 あの石なら理香の部屋のレターボックスに、置かれたままだ。こんなことになった以上、あの石はもう、亜弓に渡すしかないだろう。

 ——でも……。

 亜弓に石を渡してしまっても、本当にいいのだろうか。

 以前、可南子は理香に、亜弓は実は魔女で、あの石は悪魔を呼びだす道具かもしれないと言った。また、夢のなかで亜弓の妹、貴子たかこと名乗る少女が、可南子と似たことを理香に話したことがあった。どちらの時も、理香は本気にしなかったのだけど、でもこういうことになると、嘘とも言っていられなくなる。

 それに——あの石は、夢のなかに貴子が出てきた直後に、レターボックスから見つかったのだ。それはただの、偶然なのだろうか。

 理香はベッドの上で前かがみになると、両手で顔を覆った。

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