—05—
翌日、重い気分のまま、理香は学校へと向かった。教室に着くと、自分の机のいすを引いた。黙ってスリーウェイ・バッグから、教科書やノートを取り出す。
――星形の印と、紅の瞳。
理香の手が止まった。
もう、あの石のことは考えたくなかった。できれば忘れたいし、思い出さないようにしている――それなのに突然、あの石のなかに見えたものがはっきりと、視界に浮かび上がってくる。
どうして、あんなことをしてしまったんだろう。あのまま中身を確かめてからすぐ、封筒にしまっておけば、こんな目に合わないですんだはずだった。
理香は大きく、ため息をついた。
「あー、大きなため息ぃ」
後ろからいきなり、声をかけられた。理香はびっくりして、いすから立ち上がってしまった。
「……なんだ、可南子か」
彼女のすぐ横までやって来た可南子を見上げて、理香はそう言った。
なんだはないでしょーが、と言って可南子は理香の前の席のいすを引いた。
「でも、今日はあくびじゃないんだね」
「う――うん」
昨日は――眠れなかった。あんなことがあったのだ、眠れるはずがない。
さんざんなものになってしまった夕食をとった後、理香は明かりをつけたまま、ベッドについたのだけど、それは何の効き目もなかった。夜中に何度も目をさまし、とうとう横になるのが恐くなってしまった。
今は――どちらかと言うと、徹夜明けみたいなもので、精神がハイになっているので、あまり眠気が感じられなかった。
「ね、可南子」
「ん?」
「昨日の電話のことについて、なんだけど」
「電話?」
「そう。言ってたじゃない。飯岡さんの正体について、くわしいことがわかったって」
「飯岡さんって、誰?」
「え?!」
理香は思わず、可南子の顔を見た。
「ちょ――やだぁ。可南子。何、言ってるのよ」と、可南子の肩を軽く、押した。
そんなふうに言えば可南子はいつもの調子で、理香のことをからかっていたと、笑顔を浮かべてくれるとそう思っていた。けれど、可南子の反応は違っていた。
「理香。大丈夫?」
と、理香の顔をのぞきこんできた。額に手を当てようとするので、理香はその手を振りはらい、立ち上がった。近くの席にいたクラスメートのところまで、歩いていった。
「ね、飯岡さんは今日、来ているの」
そう聞いた。
「え。飯……岡さん? そんな人、このクラスにいたっけ」
そのクラスメートは冗談を言っているような顔を、していなかった。
「何、言ってるのよ。飯岡亜弓さんよ。夏休み明けに転校してきた――」
理香はクラスのみんながこちらを見ていることに、気づいた。
「知ってるんでしょう? どうして、だれも何も言ってくれないの」
理香はそのクラスメートたちの顔を見回し、叫ぶようにして言った。
「理香!」
と、理香は両方の肩を、可南子につかまれた。
「どうしたのよ、しっかりして」
理香は首を横に振った。
――みんな、嘘をついている。あたしのこと、からかっているんだ。
理香はそう思った。そうでなければこんなこと、起こるはずがない。
理香は教室のなかを歩いていった。亜弓の机のところで足を止め、それを叩いた。
「この机は? 飯岡さんのものじゃなきゃ、誰のものなの」
「その机には、誰も座っていないよ」
クラスの男子が言った。
「そうだよ。一学期からずっと、その席は空いてたじゃないか」
「う……嘘よ。どうしてみんな、そんなこと言うの?」
「嘘って、言われてもなぁ」
教室のあちこちで、クラスメートたちは小声でつぶやきはじめた。
――ちょっと、どうしちゃったの、鈴木さん。
――あのおとなしい、鈴木さんがねぇ。
――勉強のしすぎで、どうかしちゃったんじゃねーの。
理香は目を閉ざした。顔を下に向ける。
どうしていいのか、彼女にはまったく、わからなかった。
追い詰められたような気分になり、理香は右手で自分の手首をぎゅっとつかんだ。めまいを感じる。耳の奥から、どくんどくんと鼓動の音が鳴るのが聞こえてきた。
「理香!」
「ちょ——鈴木さん!」
「おい! 誰か、先生を呼んで来い。鈴木が……倒れた!」
——倒れた? 誰……あたしが?
めまいはどんどん、きついものになっていった。理香は目を開けていられなくなり、まぶたを閉ざした。すぐそこにある暗闇に理香は意識ごと、引きずりこまれていった……。
目をさました時、理香は自分がどこにいるのか一瞬、わからなかった。
——ここは……。
消毒液の臭いがする。鼻につく、その特有な臭いで、理香はここが保健室であることに気がついた。
理香が横になっているベッドのまわりは白いカーテンで、仕切られていた。左手のカーテンが赤く染まっていて、その下のすきまから、夕方の日の光が入りこんでいた。
理香は自分のからだにかけられていたタオルケットをめくると、ベッドに足をそろえた。腰をかけた形になる。後ろを見ると、壁のところに理香のベストとネクタイがきちんと、ハンガーにかけられていた。
ワイシャツとスカート姿でいても、じっとりと汗ばむくらいだったので理香はしばらく、そのままでいることにした。
……教室で起きたことは、しっかりと覚えていた。自分が倒れたことも、もちろん忘れていない。
気を失って保健室に運ばれたのは中学生の時、朝の定期集会で貧血を起こした時以来だった。
——あの時はすぐ、教室に帰ることができたのだけど、今回はほとんどの授業をさぼることになってしまったらしい。
今が何時なのか気になっているのだけど、時計を見るのが少し、恐かった。
理香の感覚だと、四時か五時くらいだろうか。とすると八時間以上、眠っていたことになる。でも、昨日はまったく寝られなかったのだから、それは不思議でも何でもなかった。
保健室の先生は、ここにはいないみたいだった。もしいたら、タオルケットをまくり上げる音などで、理香が目を覚ましたことに気づくはずだった。
それから、理香はため息をつくと、飯岡亜弓について考えた。
可南子やクラスメートは言っていた。飯岡亜弓なんて人は、クラスにいない、と。
あの時のクラスメートの態度を思い出してみても、彼女たちが理香に嘘をついているとは、思えなかった。そのことはわかっているのだけど、理香にはどうしても、忘れられないことがあった。
……ずっと昔——理香が小学生の時、彼女はさっきと似たようなことをされていた。
クラスメートから、今度の日曜日は特別授業があるから学校に来るようにと、言われたのだ。それに理香は、見事にだまされた。
校門が開いていなかったことからして、おかしかったのだけど、理香がそれに気づいたのは、用務員の人に特別授業なんかないことを聞かされたからだった。
翌日、理香が学校に行くと、昨日はどうしたの、とクラスメートに聞かれた。正直に、理香が休日に学校に行ったこと、用務員の人に聞かされるまで、特別授業なんかないことに気づかなかったことを話すと、クラスメートたちは笑い転げていた。そして、理香といつもいっしょに行動していたクラスの女子が言ったのだ。ほんと、軽い冗談だったのに鈴木さんって、考えもしないで頭から信じてしまうんだから、と。
けど、そうではなかった。理香は最初から、自分がだまされていることを知っていた。
……よくある話だ。理香のクラスにもいじめはあって、彼女はいじめられっこではなかったけれど、何度かいやな目には、合わされていた。
いじめとは、コイン当てゲームみたいなものだ。表裏を当てることができたら、ゲームの勝者になることができるけど、外れたらあっという間に立場が逆転してしまう。
いじめをしていたグループのリーダーが翌日にはもう、無視されたり、見えないところで陰口を言われたりするのだ。いじめをかわすには、とにかく目立たないようにして、コイン当てをさせられないようにしなければならなかった。
あの時、理香は日曜日に学校へ行っても行かなくても、いじめの標的になっていたのかもしれない。けれど、理香は自分でもちょっと鈍いところがあると思っていたので、だまされたふりをしてみたのだ。
結果的にそれは、正解だったみたいだ。理香はいじめの標的に選ばれることなく、その後をすごすことができた。でも——だまされたふりをしていたのがばれていたらきっと、理香はいじめの標的になっていたにちがいなかった。
理香は腕をあげた。ワイシャツの半袖のところで、目もとをちょっと乱暴にぬぐう。
クラスメートから、飯岡さんなんて知らないと聞かされた時、理香はそのことを思い出してしまった。もちろん、それと今回のことはまったく関係ないのだろう。
だけど——どういうことなのだろうか。亜弓がいなくなっただけでなく、誰も記憶していないなんてことが、あり得るのだろうか。そりゃ、理香にとって亜弓がいなくなってくれれば、これ以上悩まないですむのだろうけど、そんなに簡単なことではない気がした。
と、保健室内の空気が動いた。風——が入ってきたのではない。誰かが、ドアを開けたのだろう。靴音が聞こえてきた。
ノックをしなかったということは、先生なのだろうか。理香はベッドから、立ち上がりかけた。
カーテンが引かれた。相手が入ってくる。
「あれ? 可南子」
理香はそう、声をかけた。が、可南子はそれに答えなかった。ベッドのそばにあった背もたれのないパイプいすを取り、理香のななめ右に、腰を下ろした。理香は可南子につられて、ベッドに座りなおした。
理香は、可南子に向かってもう一度、声をかけようと思ったけど、何となく、いつもの彼女と雰囲気が違うことに気づいた。
可南子が顔をあげた。目が合った。
「保健医だったら、まだ来ないよ。来られないよう、細工をしていたからね」
可南子が突然、言った。
——え?
「それって、どういう意味?」
何だか話し方が、可南子じゃないみたいだった。別の人間が、話してるみたい。
「まったく、油断してしまったよ。ただの高校生に、ここまで迫られるとはね」
可南子の高く澄んでいた声が少しずつ、低くなっていった。
「だ……だれ? あなた、だれなの?」
と、可南子が——いや、外見は可南子だけど別の人物がにっこりと、どこかで見たことのあるような笑顔を浮かべた。
「誰だって? あんたにはわかるはずだよ。私が一体、誰なのかね」
声は今ではもう、しわがれたおばあさんのようなものになってしまった。ひどく、聞き取りずらい。
「そんな——」
理香はめまいを感じた。視界が暗くなる。が、さっきのように気絶はしなかった。そっちのほうがずっと、楽だと思ったけど、意識は保たれたままだった。
「可南子はどこ? どこにいるの」
「ここにいるよ」
亜弓は——理香はもう、姿形は可南子だけれども、その中身は亜弓であることを、確信していた——ベストのポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。理香に小瓶がよく見えるように、突き出した。
理香は目をこらした。
——小瓶のなかに、何かいる。
何かが、動いていた。
はじめ、理香はそれを虫だと思った。が、違った。小瓶に、顔を近づけた。
理香は目を大きくした。息を吸い込む。
——それは、可南子だった。身長は親指の長さほどしかないけど、間違いなかった。小瓶のなかの可南子はふたりの間を仕切っているガラスを叩き、「理香……理香」と、消え入りそうな声で必死になって呼びかけていた。
理香は小瓶に、腕をのばしかけた。が、その前に亜弓は可南子の入れられた小瓶を、ベストのポケットに戻してしまった。
……理香は亜弓を見た。可南子の顔をした亜弓が、笑みをつくっていた。
息が急に、苦しくなった。理香はワイシャツの喉の部分に指を入れ、引きのばした。
亜弓がいすから、立ち上がった。ベッドのそばを歩いていく。理香もあわてて立ち上がり、亜弓とベッドをはさんだ反対側へと走った。そんな理香のようすに、亜弓は歪んだ笑みを浮かべた。
「前にも言ったけど、あんたには危害を加えないよ」
と、亜弓が言った。
「だけどねぇ。私にも時間というものがあるからね。だから、強行手段に訴えさせてもらったのさ」
「ど……どうして、こんなことを」
鼻で——呼吸ができない。理香は口で、息をした。
「どうして? そんなの、決まってるじゃないか。あんたが石を渡さないからさ」
亜弓がカーテンを引いた。午後の日の光が入ってくる。理香はまぶしさに、腕をあげた。目を細くする。
「もうすぐ、天秤宮と宝瓶宮、双子宮の風性宮で惑星が、三分角の位置につく」
「え?」
理香は聞き返した。
「それと同時に、その他の星々が重要な座相を描く。この時を逃せば、また五十年以上もの時を待たねばならなくなるからね。……私が言いたいのは、それだけさ。あんたには充分、考える時間を与えた。だろう」
——理香は脱力したように、ベッドに腰を下ろした。おしりの下でスプリングがきしみ、からだがはねたけど、彼女は手で支えようとしなかった。目をぎゅっと、きつく閉ざす。ゆっくりと息を吸い、それから吐き出した。
何も……何も、考えられなかった。頭のなかが、まとまらない。
亜弓はもう、保健室にいなかった。ここにいるのは、理香だけだった。
——本当に、あたしひとりになってしまった。
可南子はもう、いない。理香の知っている可南子はもう、どこにもいなくなってしまった。これからどうするのかは、理香がひとりで考えなければならない。
——どうする? どうしたらいい?
理香は彼女が捕らわれていた、あのガラスの小瓶のことを思った。あれを亜弓から取りあげて、可南子を小瓶から解放すればいいのだろうか。
理香はずっと昔に読んだことのある物語を、思い出した。それでは悪い魔法使いがお姫さまの魂を魔法の壺に閉じこめ、かわりに肉体を動かしていたはずだった。
——あの物語の結末では、隣の国の王子が悪い魔法使いの肉体を見つけだし、魔法の壺からお姫さまの魂を助け出すことで、体を取りもどすことができたのだった。
でも、あれがうまくいったのは物語だったからで、理香が同じようなことをしてもうまくいくとは、とても思えなかった。
もし、亜弓から可南子の魂が入れられた小瓶を取りあげて——それがうまくいくかどうかは、わからないけど——何も変わらなかったら? 理香には可南子の魂をもとに体に戻してあげることなんて、できそうになかった。
——それなら、どうすれば……。
あの石なら理香の部屋のレターボックスに、置かれたままだ。こんなことになった以上、あの石はもう、亜弓に渡すしかないだろう。
——でも……。
亜弓に石を渡してしまっても、本当にいいのだろうか。
以前、可南子は理香に、亜弓は実は魔女で、あの石は悪魔を呼びだす道具かもしれないと言った。また、夢のなかで亜弓の妹、貴子と名乗る少女が、可南子と似たことを理香に話したことがあった。どちらの時も、理香は本気にしなかったのだけど、でもこういうことになると、嘘とも言っていられなくなる。
それに——あの石は、夢のなかに貴子が出てきた直後に、レターボックスから見つかったのだ。それはただの、偶然なのだろうか。
理香はベッドの上で前かがみになると、両手で顔を覆った。




