一章 朝に紅顔ありて夕べには白骨となる①
外は風が強いのか、さっきからずっと窓が鳴る音が聞こえる。言う者が言えば世紀末の前兆なのだろう。
…嫌な予感はしているが、このまま現実逃避し続けても事態は良くならないんだろうなと思い瞼を上げる。埃っぽい部屋、下に書かれた魔法陣、そして必死に地面を探さんとする男。彼は焦点の合わない目をずっと動かしながら藻掻き半狂乱になり、床を這っている。
「だい、じょうぶです…か」
絶対に大丈夫ではないのは伺えるが、それでも問うのは大丈夫な可能性を私が祈っているからだろう。返答はない。ピクリとも反応していないから無視しているわけでもない、だろう…。耳が聴こえていないと思い込む。
暫くそのままの状態が維持され、やがて私は耐えられず恐怖と不安で逃げ出したくなり、そっと足を床に擦りながら扉らしい元へ向かった。
するとそれまでは此方を見てすらいなかった男の目がギュルンとこっちへ向き、叫び出す。とうとう私は悲鳴すら出せず私は腰が抜けて一歩も動けなくなった。
男が発しているのは脅すような叫びではない。何かに縋り、恐怖心に煽られ、泣くような悲鳴。部屋を見るにこの男は宗教に縋って生きてきたのだろう。魔法陣の上に私を置き、私の方向に助けを求めて発狂している…私をカミサマとでも思っているのか知らないが。
私には全く理解が出来ない。そもそもどうやって私を此処へ連れてきた?さっきまで家にいたはずだ。なぜ私に縋る?私はただの14歳の女だ。望むような力など持っていない。いや変態なぞそんなものか…。頭がおかしくなりそうになりながら私は、ただ男が床を涙と涎でぐちゃぐちゃにしながらこちらへ這ってくる様子を見る事しかできなかった。
やがて彼は私とあと一歩という距離まで近づく。足は動かない。瞼すらも動かない。混乱と恐怖からか、床に触れる感覚すらない。男の手が私の首に触れ、そして強く握りしめる…いつぞやの童話で見た、子供が強く親の腕を握って安心を得ようとするかのように。彼は、握っている部位が首だと分かっているのだろうか。すぐにでも折れて死んでしまうような急所であると、私がまだ幼い子供だというのを分かっているのか。男の顔が母に重なる様な気がした。しかしその母の顔さえ私は上手くは覚えていなかった。
至近距離で気付いたが、彼は巨体のくせしてよく見ると骨が浮き、肌は乾燥髪はパサつき呼吸も浅く、飢餓状態とやらのように見える。見えてなさそうな目は此方を向き、しかし微妙に目が合わないのが一層恐怖を増す。恐怖心からなのか、不思議と触れられているという感覚もない。ただ、男の腕の血管が浮き出ている所や首から脳へ血が巡っていくという感覚から、首が握られていると分かる。視界と思考が白み始め、やがてこれが死か、と他人事のように思い始める。
此処で死んでおけば私は此の先の不幸に遭わずにすんだかと知っても、どちらが良いのかなんて私には分からない。言ってしまえば、先に死ぬか後で苦しみと僅かな幸せを感じて死ぬかの二択である。
不意に、脳が一気に解放されるような感覚に陥った。手が緩んで離れていったか死んだか二択だと思う。出来れば前者がいい…あそこまで興奮状態だった男がいきなり手を解くなんて考えられないが、おそらく視覚が正常に動かず白なのか黒なのかよく分からない色をしているのを見るに死んではいなさそうだと思う。天界のシステムも分からないから何とも言えないが。
暫く経った後急に不自然に視界が開ける。さて男はどんな状態か…と思っていたら、驚く事に目の前にはなにもなかった。正しくは、さっきまで私の首を絞めていた男がいない。
呆然としていると目の前にピエロの仮面がニュッと出てきた。
『愛らしいヒト。可愛らしいヒト。お嬢さん、今晩ハ。危ないですヨ♪唯でさえこの世界は治安が悪いのだカラ!』
聞き慣れない単語を話し、どこか不思議なイントネーションをするピエロは私の周りをくるくると周りその後私の前にしゃがんだ。
『貴方、この世界の住民ではないのでショウ?嗚呼可哀想に!魔法陣によって新たなる犠牲者が!!うーん…見た目は大丈夫ですね。貴方一体何を代償にしたのですか?』
軽い口調で、しかし何処か圧がある男はまくし立てながらよく分からないことをベラベラと言い続ける。せめてゆっくり、質問する猶予をくれ。
『WOW!!そうでした貴方はまだ知り得ませんでしたネェ!この世界の仕組みを、そして代償を。教えて上げましょうネ♪』
『まず、貴方の住んでいた世界をA世界、今いる世界をB世界とでもしましょう。この2つは本来交わる事がない。But!人間は魔法陣を生み出しました。
きっかけなんて知り得ませんが、この魔法陣、凄いのが誰かA世界のランダムな人間を転移できます。別の方法もありますヨ♪
しかしこれには大きい代償が必要で…片道で両足程度のものを要求されます。代償は自分で決められますヨ♡
アァ、魔法陣の場合は代償は2分割されて呼び出した側と呼び出された側、両方に二分の一ずつ代償があります。この場合代償を決めるのはあくまで呼び出す側。呼び出された側に権利のクソもありませン!お可哀想に… 取り敢えずここまで理解して下サイ!』
情報量が多い…それにあまりにファンタジックがすぎて受け止めきれない事が多すぎる。一旦最初に出てきた疑問を言う。
「最初、私の事をなんて呼んだの…」
『嗚呼…ヒト…ですか。そうですね、A世界からの転移者は少なくない。人間は貴方達をヒト、と呼んでいます。覚えておいて下サイ♪』
聞き覚えのない言葉に、首を傾げそうになるがぐっとこらえる。
「私は、帰れるの?」
『エエ、ハイ、マァ。ただし、かなり厳しい条件付きでデスヨ。ねェ、そこでなんですが、ワタシに提案があります。』
一呼吸置いて、ピエロは口を開く。空気がガラッと変わったような気がする。窓のカーテンが風に吹かれて一気に自我を持ち、月を顕にする。
『ワタシと、世界を見て回りませんか?』
安心感とは真逆の満月を逆光にして、手を差し伸べるピエロの仮面の男。其処にあるのは純粋な興味と恐怖。
『いえいえ勿論、アナタが帰るために必要な事ですヨ。ワタシ、アナタみたいなヒト大好きなんです。このまま放置して殺されるには惜しい。』
ピエロが、私の頬をなぞりながら言う。恐怖か、興味か…喉が、ゴクッと鳴った。
見知らぬ土地、どう考えても怪しいピエロ。字面だけ見ると恐怖の対象でしかない…しかし確かに、コレに助けられた。ついて行ってみる価値はあるかもしれない。震える手を彼の手に置く。了承の合図だ。
『早いご理解、感謝シマス♪では、一旦外にでまショウか』
ピエロがエスコートするかのように扉を開け、手を差し出した。その手を取り、日の下に出る。どうやらもう日は暮れているようで、待ちわびた空はピンクと紫と赤が混ざったような、そんな色をしていた。




