10話「変化」
結論から言うと、真夏から話を聞いたナズナは――怒った。理不尽な嫌がらせに対する怒りはもちろん、そんな大事なことをずっと隠していた蒼と真夏の判断に対しても、強い怒りを見せた。彼女はおとなしそうな少女に見えるがその実、最も気性が荒く、感情の起伏も激しい。なので怒るときは真夏には真似できないほどの強い憤りを見せるのだ。
誰かの視線を感じ、あとをつけられていることに気が付いた。そうすると、今度は自分の存在を主張するかのように、私物を盗んだり、手紙や不審物を送りつけてくるようになった。誰がなんのために、こんなことをするのかはわからない。なにか恨まれるようなことをした覚えもなく、犯人の心当たりもない。
多少の時間はかかったが、そうした説明を終えると、先に述べたとおりナズナは怒り、ひとしきり悪態をついたあと、なにも言わずに蒼の部屋を出て、自分の部屋に閉じこもった。真夏はそのすぐあとに修羅場から撤退したのだが、帰宅後に蒼から聞いた話によると、ナズナは感情の昂ぶった時間が長く続いて疲れたのか、そのままふて寝したらしい。
翌朝になり、いつもどおりに登校すると、今日は蒼たちより早かったらしく一番乗りだった。少しすると廊下のほうから物音がし、蒼と千秋が教室に入ってくる。そのうしろを香が通り過ぎて行き、隣の一組へ歩いていくが、ナズナの姿がない。
「おはよう、真夏」
「ナズナは一緒じゃなかったのか?」
「忘れ物したから先に行けって。でも、すぐに来ると思うよ」
「ふうん」
その後はいつもどおり、他愛のない雑談だけで時間が過ぎた。やがて他のクラスメイトたちもやってきて、徐々に教室内が賑やかになっていく。そうこうしているうちに始業のチャイムが鳴り、出欠確認と短いホームルームが十分と経たず終了する。授業が始まるまで約十五分。千秋がいない隙に、真夏は小声で蒼を呼ぶ。
「それで、ナズナはあのあと、どうなった? ふて寝したってのは聞いたけど」
「ああ……うん、別に変わったことは。誰かに話したわけでもないみたいだし」
「他の家族に打ち明けたりも?」
「まだ。でも、たぶん、そのうち話すことになりそう」
「まあ、しょうがないわな。もとより、それが最善だ。時間が解決してくれるような問題でもない」
「うん……」
そこまで話したとき、校内放送がかかった。
『生徒の呼び出しをします。二年二組、志村蒼。二年二組、志村蒼。至急職員室へ来なさい。繰り返します。二年二組、志村蒼。至急職員室へ来なさい』
「なにかしたのか?」
「いや。なんだろう」
「酒か、たばこか?」
「してねえよバカ」
「ま、とにかく行ってこいよ」
「うん」
蒼は小さく頷き、早足に教室を出て行った。入れ違いで、夏目がこちらにやってくる。
「蒼、どうしたんだ?」
「さあよ、本人も心当たりがないそうだ。戻ってきたときに聞いてみればいい」
「そっか。うん、そうだね」
しかしその日、蒼が再び教室へ戻ってくることはなかった。しばらくすると担任が蒼のカバンを取りに来たので、なんらかの事情があって早退することになったのだと悟った。それもかなりの急用だろう。昼頃に電話をかけたが繋がらず、なにもわからないまま放課後を迎えることになった。
ホームルームが終わり、釈然としないまま教室を出る。
「真夏」
「夏目、部活は?」
「今日は休みなんだ。あのさ……蒼、結局どうしたんだろうな。メールも電話も、返事ないし」
「本人に聞いてみないとわからねえよ。今日は連絡がとれなかったとしても、明日になれば、また会えるだろ」
「それは……そうかもしれないけど」
「家でなにかあったんじゃないのか? いきなり急いで早退する理由なんて、それくらいしかないだろ」
「うん……」
「……なにか、引っかかることでも?」
「いや、うん、その……なんか最近、変だなって思って」
「抽象的だな。蒼の様子が変に見えるのか?」
「うん、なんていうんだろう、気のせいかもしれないけど。……あ、あと、今の話とはあんまり関係ないんだけど、様子が変と言えば、山吹の様子もちょっとおかしい気がしてさ」
やはり。この男は妙に鋭い。
「そうかい。最近に限らず、あれらはいつだって変だとは思うがね、俺は」
「そう、かな。真夏が言うなら……や、でも、うーん」
「なんだよ、はっきりしねえな」
「真夏だって、最近ちょっと変だよ」
「俺が? まあ、そりゃあ、変にもならあよ。俺なんて今、前代未聞の状況下にいるんだからな。二進も三進もいかないドッキドキの毎日だ。いや嘘だ。ドキドキっていうよりそわそわする」
「ああ、そっか。真夏はあの子のことがあるんだもんね。じゃあ、真夏も、っていうのは気のせい、かな」
「蒼はそんなに変に見えるか?」
「うーん、なんかいつもと違うような感じがするんだよ。でも、そう言われると自信がなくなってきた。……真夏、最近、山吹に会った?」
「一昨日に会ったばかりだ」
「そのとき、なにも変化を感じなかった?」
「お前は滅多にあいつに会わないから、そう感じるだけじゃないのか。人なんて、時間の経過に伴って少しずつ変わっていくもんだ」
「いや、山吹はそういう、俺の知ってる山吹じゃないっていうか、いや、そうなんだけど、そうじゃなくて……こう」
「なんだ」
「……あいつ、すっごい疲れた顔してたんだよ。顔色も悪いし、雰囲気がちょっと暗くなってて、なんか、なんか……」
「それは」
「蒼はともかくさ、山吹は絶対になにかあったんじゃないかって俺、思うんだ」
「あいつはもともと、そんなに明るいやつでもないだろ。勉強のしすぎで疲れてるだけじゃないのか。なんたって片並だからな」
「そうかもしれないけど……ああ、なんて言えばいいんだろう。あの違和感は。でも真夏、それじゃ変だよ」
「だから、変ってなにがだ」
「山吹のこと。俺が気付いたのに、真夏が気付かないわけないよ。それとも、よく会うから逆に気付けてないの?」
「お前は俺を買いかぶりすぎだ。なにを根拠に、俺が山吹の異変に気付くと? 俺がそこまで他人の変化に敏感だと、なぜ思う。知ってるか、俺は誰かと話すとき、ほとんど顔を見ない」
「知ってるよ。真夏と話していて目が合ったこと、ほとんどないし。でも、それでも真夏はまわりをよく見てる。たぶん、俺たちのなかの誰よりも。いつだって、なにかに気付くのは真夏が一番早かった」
「そんなことはない。それはな、俺が一番になにかに気付いた事例だけを数えて認識しているからそう錯覚するんだ。勘違いだ。覚えているか、俺は人の顔を覚えるのが苦手だ。人の顔を覚えられない――それはな、相手の顔を見ないせいもあるが、一番の原因は、覚えようという意思がないからだ。無関心だからだ。俺は他人に興味がないから顔を覚えられない。他人に興味がないやつが、他人に興味があるやつよりも、周囲のことを見ているわけがないだろう」
「真夏」
夏目が立ち止まる。真夏は彼を振り返る。
「なにを隠してるの?」
「なにを――」
隠していたっていいだろう。
「真夏、お前のことは、俺にはよくわからない。ずっとそうだ。中学のときから今でも。つかみどころがない、っていうのかな。でもひとつだけ、わかったことがある。中学のときに、山吹が言っていた言葉の意味が、今ようやくわかったんだ。真夏はよくわからないやつだけど、とてもわかりやすいやつだ――って」
山吹がそんなことを?
わからない。
なんだそれは。
「なに言ってんだ」
「はは。気付いてないなら、いいよ。けど……うん、話したくないなら、話せないことなら、それでも、いいかな。……本当は気になるけど」
夏目はあきらめたように笑って、歩き出した。
「今日はもう、帰ろうか」
もちろん、夏目の言うとおり、話せないことだ。蒼の許可なく、蒼のことは話せない。山吹のことだって話すわけにはいかない。真夏の一存では決められない。真夏は本人たちがいいと言うまで、この秘密を守らなくてはいけない。
真夏はたしかに嘘が苦手だし、思ったことや考えたことを全部、そのままその場に垂れ流すように口にするが、それは口が軽いということではない。同情心に付け込まれようが、良心に訴えかけられようが、話すまいと決心したことは誰にも話さない。ぽろぽろとこぼしてしまう言葉は全て、話しても問題のないことばかりだ。
「……俺と山吹は、人を捜しているだけだ」
夏目が再び足を止める。
「人を――?」
「理由は言わない。事情も言わない。ただ人を捜している」
「人って、誰? どんな人?」
「顔と、北桐の生徒ってことしか知らない相手だ。名前も住所も知らない」
言いながら似顔絵を出して、夏目に見せる。彼は運動部に所属しているのもあり、中学のころから上にも下にも知り合いが多い。なら、聞くだけ聞いておいても損はないだろう。北桐にいる真夏の知り合いからも、ダメもとで聞いてみた彩からも、収穫はなかったのだが。やはり似顔絵が問題だろうか。いや、これが写真だったとしても、知らないものは知らないだろう。
「この子? うーん、北桐……ツインテールの女の子なんていくらでもいるし……」
「だろうな。ひとまず似顔絵は用意できたものの、そこまでこれに期待してるわけじゃない。手がかりはないに等しい」
「……でも、ちょっと、待って、待ってね。あの、アレ、うーん……あ、そう、そうそう、三島さん。三島さんになんとなく似てる、ような。あ、でもどうだろう、あんまり自信ない」
「三島さん?」
「うん。ほら、小学校のときにさ……あ、そっか真夏、小学校は別なんだった。えっと、俺と同じ小学校にいた子で、三島頼子って人なんだけど。中学は東中じゃなくて角中に行ったらしいから、真夏にとっては知らない子だね。たしか北桐に行ったって聞いたような……」
東中は真夏や夏目たちが通っていた東阪中学。角中はたしか、隣町のほうにある角崎中学だ。
「知り合いか?」
「いや、一度だけ、五年生のときに同じクラスだっただけで、話したこともなかったし、六年になるときに学区外に引っ越して、転校しちゃったから、今どこに住んでるのかは知らないよ」
「どんな人だったか、覚えてるか?」
「うーん、なんていうか、普段はおとなしい感じの子だったよ。ただ、先生に呼び出されたり、学校に親を呼ばれたり、なんか急に怒りだしたり、っていうことがときどきあってさ。ちょっと変わった感じの子だった。俺がその子を覚えてたのも、そういうのが印象に残ってたからだと思う」
「小学校と今とじゃ、人の外見ってそれなりに変わるもんだと思うけど」
「そうかな? あ、でも小学校のときは髪の毛が短かったよ。ただ中学のときも高校入ってからも、たまにだけど見かけることがあったから。たぶん、家が近いか、同じ方向なんだと思う。最近は全然見かけないけど」
「そうか。……角中の三島頼子だな」
「真夏が捜してたのって、三島さんなの?」
「いや、まだわからん。ただ、この似顔絵をもとに聞いてまわって、特定の誰かの名前を答えたのはお前だけだ、夏目。ありがとう、助かった」
「そ、それはいいんだけど、合ってるかわからないよ。っていうか、その人、捜してどうするの?」
「理由も事情も言わんと言ったばかりだ。いや、なに、気にするな。ちょっと話したいことというか、聞きたいことがあるだけだ。お前がそんなに気にするようなことじゃない。ただの探偵ごっこさ」
「気にするようなことじゃない?」
「そうだ」
「……そっか」
真夏が断言すると、夏目は釈然としない顔のまま頷いた。きっと納得はしていないだろう。だが、今はそれでいい。夏目に話すようなことでないのはたしかなのだ。彼の疑問を、疑惑を、困惑を、疎外感を、それらすべてを無視しても。秘密を守った真夏が気に病むことなど、なにひとつない。
良心を、甘さを、戸惑い、恐れや迷いも、全部。切り捨てなくては。
それらは今の真夏には必要ない。




